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第4話 もう、その手を握ることはない。絶望の底で名前を呼んでも

あの衝撃的なホテルの夜から、一ヶ月が過ぎた。

季節は梅雨明けを告げる強い陽光に支配され、キャンパスの緑はいっそう色濃くなっている。

大学の掲示板には、インカレサークル『フェニックス』の解散命令と、関与した学生たちへの厳しい処分を下す公告が貼り出されていた。

かつて華やかな笑い声が響いていたラウンジや中庭の溜まり場は、今では嫌悪の対象として、あるいは忘れたい過去として、学生たちの口に登ることも少なくなっている。


俺、瀬尾結希は、いつものように講義棟の裏にある静かなベンチに座っていた。

手元には、冷えたペットボトルの茶。

かつては隣に誰かがいることが当たり前だったこの場所で、今は一人の時間を噛み締めている。

そこへ、阿久津健太が騒々しくやってきた。


「よう、結希。またここにいたのか。お前に見せたいものがあるんだよ」


健太はそう言って、スマートフォンの画面を俺に突きつけた。

ニュースサイトの片隅にある、小さな続報記事だ。

豪徳寺蓮、およびその取り巻きたちの現在の状況が、匿名ながらも詳しく記されていた。


「豪徳寺の野郎、保釈も認められずにずっと留置場だってな。父親の会社は例の裏帳簿がきっかけで強制捜査が入って、事実上の倒産状態。親父さんも背任罪で訴えられて、豪徳寺家は完全に破産したらしいぜ」


健太の声には、隠しきれない喜びが含まれていた。

豪徳寺蓮という男は、金と権力という盾を失った瞬間、ただの「罪人」に成り下がった。

彼がこれまでに踏みにじってきた女性たち、そしてその家族からの民事訴訟も次々と準備されており、彼がこれから背負う賠償額は、一人の人間が一生かかっても返しきれないほどの巨額に膨れ上がっているという。


「……あいつ、あんなに自信満々だったのにな。金がなくなれば、誰も味方しなくなる。サークルの仲間だった連中も、みんな自分の身を守るのに必死で、豪徳寺にすべての罪を擦り付けようとしてるらしい」

「因果応報、ってやつだな。あんな風に人を使い捨ててきた奴が、最後には仲間に使い捨てられる。これ以上の皮肉はないだろ」


健太は「スカッとしたぜ」と言って、大きく伸びをした。

だが、俺の心にあるのは、勝利の余韻というよりは、冷え切った灰のような静寂だった。

悪が裁かれた。それは正しいことだ。

けれど、それによって失われたものが戻ってくるわけではない。


「……それで、氷見谷さんは?」


健太が慎重に、探るような声で聞いてきた。

俺は視線を遠くの空に向けたまま、静かに答えた。


「大学からは退学勧告が出たみたいだ。サークルの中心的な役割……『姫』として、勧誘にも加担させられていたから。彼女の親御さんも大学に呼び出されて、今は実家に連れ戻されたって聞いた」

「そうか。……まあ、自業自得と言えばそうなんだけどな」


健太はそれ以上何も言わず、俺の肩を一度叩いて去っていった。

彼は彼なりに、俺と琴音の間に流れる修復不可能な空気を感じ取っているのだろう。


その日の放課後、俺は大学の正門前で、一人の女性に呼び止められた。

やつれ、以前の輝きを完全に失った、氷見谷琴音だった。

彼女は実家に帰ったはずだったが、今日だけは荷物の整理と手続きのために大学に来たのだという。

彼女の着ている服は、高校時代を思い出させるような、控えめで清楚な白いブラウスだった。

だが、その服が今の彼女には、まるで他人のものを借りてきたかのように似合っていなかった。


「……結希くん。少しだけ、話せるかな」


消え入りそうな声。

俺は黙って頷き、人気のない学生食堂の隅へと彼女を促した。

西日が差し込む無人の食堂で、俺たちは向かい合って座った。

かつて、ここで二人で学食のカレーを食べながら、将来の夢を語り合った。

「結婚したら、どんな家に住もうか」なんて、青臭い約束を交わしたのもこの場所だった。


「結希くん、本当にごめんなさい。私、あんなに最低なことをして……」


琴音は椅子に座るなり、机に突っ伏して泣き始めた。

肩が激しく震え、嗚咽が静かな食堂に響く。

彼女は、自分がどれほど愚かだったか、豪徳寺の言葉を鵜呑みにして自分を安売りしてしまったかを、途切れ途切れに話し始めた。


「最初は、ただ怖かったの。断ったら嫌われるんじゃないか、サークルの輪から外されるんじゃないかって……。でも、一度流されてしまったら、もう戻れなくなっちゃった。豪徳寺さんは、結希くんのことを『あんな奴といても幸せになれない』って、毎日毎日、呪文みたいに言い続けて……」


彼女の話によれば、豪徳寺は巧妙な手口で彼女の周囲を固めていた。

俺からの連絡を無視するように仕向け、彼女に高価なプレゼントを与え、同時に「自分がいなければお前は価値のない女だ」と刷り込む。

典型的なマインドコントロールだった。

彼女は、自分が被害者であることを強調し、俺の許しを乞うていた。


「私、本当はあの場所が嫌いだった。結希くんと一緒にいる時が、一番幸せだったの。あの頃に戻りたい。お願い、もう一度だけチャンスをくれないかな? 私、心を入れ替えて、もう二度と結希くんを裏切らないから」


琴音は顔を上げ、涙に濡れた瞳で俺を見つめた。

その目には、期待と、すがるような懇願が混じっていた。

彼女は、自分が「騙された善良な被害者」でありさえすれば、俺がまた優しく手を差し伸べてくれると信じているようだった。

高校時代、彼女が泣けばいつだって俺が駆けつけ、すべてを許してきたから。


だが、今の俺は、あの頃の俺ではなかった。


「……琴音。君は一つ、大きな勘違いをしてるよ」


俺の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。

琴音は一瞬、息を呑んで固まった。


「君は、自分が豪徳寺に支配されていたと言う。確かに、あいつのやり方は卑劣だったし、犯罪的だ。君も被害者の一人だということは、俺も認めるよ。警察に証言した時も、そのことは伝えてある」

「じゃあ……!」

「でも、それは君が俺を裏切ったことへの免罪符にはならないんだ。琴音、君は豪徳寺に脅されている時だけじゃなく、自分から進んで俺を馬鹿にしていたよね」


俺はカバンの中から、一枚のプリントアウトした紙を取り出した。

それは、以前彼女のスマートフォンから確認した、サークルのグループチャットのログだ。

そこには、彼女自身の言葉で、俺のことを「重い」「退屈」「もっと早く別れればよかった」と嘲笑するメッセージが、いくつも記録されていた。


「これ……」

「君が自分の意志で打ち込んだ言葉だ。俺が毎日君を心配して、食事を作って待っていた時、君は豪徳寺の隣で俺を笑いものにしていた。それは、マインドコントロールのせいじゃない。君の本音だろ?」


琴音の顔が、今度こそ真っ白になった。

彼女は唇を震わせ、何かを言いかけようとして、言葉を飲み込んだ。

嘘を重ねようにも、あまりにも動かぬ証拠が目の前にあった。


「君は、華やかな世界に憧れた。自分を特別扱いしてくれる、力のある男に惹かれた。それは人間の本能かもしれない。でも、そのために、三年間君を支え続けてきた俺の尊厳を泥靴で踏みにじった。その罪は、君がどれだけ泣いても消えないんだ」

「違うの……あれは、その場のノリで……。本当はそんなこと思ってなかった!」

「『ノリ』で人を殺せるか? 君がやったのは、俺たちの三年間の思い出を、笑顔でゴミ箱に捨てることと同じだったんだ。……琴音、俺は君を助けた。あの地獄から、君を連れ出した。それは、俺たちの過去への最後の義務だと思ったからだ。でも、救い出すことと、許すことは、全く別の問題なんだよ」


俺は立ち上がり、彼女から目を逸らした。

彼女の泣き声は、もはや俺の胸を打つことはなかった。

ただ、耳障りな雑音のようにしか聞こえない。

かつて愛した女性が、これほどまでに脆く、醜く見えてしまうことが、俺自身にとっても悲しいことではあったが。


「もう行くよ。……退学の手続き、終わったなら、さっさとこの大学から去ったほうがいい。君がここにいると、不快に思う被害者の子たちがたくさんいるんだ。佐倉さんや藤代さん……彼女たちの苦しみは、君の比じゃない」

「結希くん! 待って、行かないで! お願い、一人にしないで!」


琴音が俺の腕を掴もうとしたが、俺はそれを静かに、だが力強く振り払った。

その瞬間、俺の頭の中に、高校時代の記憶がフラッシュバックした。

放課後の夕暮れ、二人で歩いた並木道。

「ずっと一緒にいようね」と、はにかみながら笑った彼女の顔。

あの時の琴音は、確かに存在していた。

けれど、今ここにいるのは、その琴音の抜け殻に過ぎない。


「……さようなら、琴音。もう、俺の名前を呼ばないでくれ」


俺は一度も振り返ることなく、食堂を後にした。

背後から聞こえてくる、獣のような叫び声に近い、琴音の泣き声。

彼女は今、ようやく理解したのだ。

自分が失ったものの大きさを。

豪徳寺という一時の快楽のために、自分を誰よりも深く、純粋に愛してくれていた唯一の味方を、自らの手で切り捨ててしまったという現実を。

それは、これから彼女が一生背負い続けなければならない、消えることのない呪縛になるだろう。


大学の正門を出ると、夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。

ふと見ると、校門の影に、藤代美咲さんが立っていた。


「瀬尾くん。……終わった?」


彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。

事件解決後、彼女はサークルの元メンバーという肩書きを持ちながらも、自ら証拠を提出した功績が認められ、大学での立場を守ることができた。

今は、沙織さんたち他の被害者のケアをするためのボランティア団体を立ち上げようと動いている。


「ええ。……すべて、終わりました」

「そう。お疲れ様。……なんだか、少し寂しそうね」

「……そうかもしれません。あいつらを地獄に落とせば、すべてが晴れると思っていましたけど。残ったのは、空っぽの三年間だけだったような気がして」


俺の正直な吐露に、美咲さんは俺の隣に並んで歩き始めた。


「三年間が空っぽだったなんて、思わないで。あなたが彼女を愛したことは事実だし、その誠実さがあったからこそ、私たちは救われたのよ。……これからは、自分のために時間を使って。あなたはもう、十分に戦ったわ」


美咲さんの言葉に、俺の心の奥に溜まっていた澱が、少しだけ流れ出したような気がした。

俺は彼女を見上げ、小さく頷いた。


「ありがとうございます。……藤代さんたちは、これからどうするんですか?」

「まずは、あのサークルにいた子たちの心の傷を治すところからかな。それと、大学のガバナンスを正すために、学生会で署名を集めるつもり。瀬尾くんも、落ち着いたら手伝ってくれる?」

「……俺にできることなら」


俺たちは駅に向かって、ゆっくりと歩き出した。

歩道には、家路を急ぐ学生や会社員たちの姿があった。

誰もが、自分だけの悩みや喜びを抱えて生きている。

一ヶ月前、世界が崩壊したように感じていた俺も、今はその日常の一部に戻ろうとしている。


スマートフォンが震えた。

健太からだ。


『今夜、沙織さんたちも呼んで打ち上げしようぜ。お前の奢りな(笑)』


俺は苦笑いしながら、返信を打ち込んだ。


『分かった。でも、安い居酒屋にしてくれよ』


ふと、空を仰いだ。

夕焼けが消え、一番星が静かに輝き始めている。

琴音を愛していた記憶は、これからも時折、俺を苦しめるかもしれない。

裏切られた痛みは、完全に消えることはないだろう。

けれど、俺にはもう、隣を歩いてくれる仲間がいる。

泥を啜るような復讐劇の果てに、俺が手に入れたのは、偽りのない絆だった。


翌朝。

俺はいつもより早く目が覚めた。

部屋の空気は澄んでいて、昨夜までの重苦しさはどこにもなかった。

俺は机の上に置かれていた、琴音との写真立てを手に取った。

高校の卒業式、満開の桜の下で、二人でピースサインをして笑っている写真。

俺は、それを裏返しにして、引き出しの奥に仕舞い込んだ。

捨てる必要はない。

いつか、自分がこれほどまでに人を愛し、そして強くなれた証として、眺められる日が来るかもしれないから。


大学に向かう電車の中で、俺は新しいノートを開いた。

これからは、復讐の計画を立てるためではなく、自分の将来のために、このページを埋めていくつもりだ。

講義、サークル、アルバイト。

普通の大学生としての、当たり前で、けれど何物にも代えがたい日常。


キャンパスに着くと、そこにはいつも通りの光景があった。

だが、正門を通る際、俺はふと立ち止まり、空を見上げた。

青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。


「……よし」


俺は小さく呟き、力強い足取りで校舎へと向かった。

もう、迷いはない。

俺の人生の主役は、俺自身だ。

誰かに振り回されることも、誰かの色に染められることもない。

俺自身の足で、俺自身の物語を、これから紡いでいく。


一方、その頃。

都心から離れた地方の、古びた一軒家。

氷見谷琴音は、窓の外を眺めながら、動かなくなったスマートフォンの画面を見つめていた。

そこには、もう二度と届くことのない、結希からのメッセージを待つ彼女の姿があった。

彼女の元には、サークルの元メンバーからの誹謗中傷や、賠償問題についての連絡しか届かない。

親からも親戚からも白い目で見られ、近所の噂話に怯える日々。

彼女が手に入れたかった「輝かしい自分」は、どこにもいなかった。


彼女は、ふとした拍子に自分の手首を見た。

そこには、結希が高校二年の誕生日に贈ってくれた、安いブレスレットの跡が残っているような気がした。

あの時、彼女は世界で一番幸せだったはずだ。

何も持っていなくても、結希の隣にいるだけで、未来は希望に満ちていた。


「……結希くん……」


彼女がその名を呼んでも、答える者は誰もいない。

冷たい風が、彼女の部屋を通り抜けていくだけだ。

彼女は、自分が捨てたものの重さを一生背負いながら、永遠に届かない後悔の中で生きていくことになる。

それが、裏切りの代償。

そして、彼女が選んだ道の、結末だった。


俺はキャンパスを歩きながら、美咲さんと沙織さんが笑顔で話しているのを見つけた。

俺に気づいた二人が、大きく手を振っている。

俺はそれに応えるように、手を振り返した。


新しい風が、俺の頬を撫でていった。

それは、昨日までの俺を連れ去り、新しい明日へと運んでくれる、自由の風だった。

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