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第3話 復讐は「劇薬」のように。綻び始めた偽りの楽園

六月の末。降り続く長雨が、アスファルトを黒く染め上げ、街全体の色彩を奪い去っていた。

俺、瀬尾結希は、大学の近くにある古いアパートの一室にいた。

そこは、親友の阿久津健太が格安で借りている、趣味の映像制作に没頭するための隠れ家のような場所だ。

狭い室内には、数台のモニターが並び、不気味な青白い光を放っている。


「結希、準備はいいか。これ、昨日までに佐倉さんと藤代さんが集めてくれた『リスト』だ」


健太がキーボードを叩くと、モニターの一つに膨大なデータが表示された。

そこには、インカレサークル『フェニックス』が過去三年にわたって行ってきた、非人道的な行為の記録が整然と並んでいた。

合宿という名目で行われた集団的な強要。

新入生に対する、アルコール度数の極めて高い飲料を用いた意識混濁の誘発。

そして、それらを面白半分に撮影した動画や写真。

藤代美咲さんが命がけで持ち出した裏帳簿には、これらの悪行を隠蔽するための工作資金の流れまでが、事細かに記されていた。


「これだけの証拠があれば、警察だって動かざるを得ないはずだ。でも、豪徳寺の親父さんが裏で手を回せば、また揉み消される可能性がある」


俺はモニターに映る豪徳寺蓮の歪んだ笑顔を見つめながら、静かに言った。


「だから、一気にやる。警察だけじゃない。大学当局、彼らを支援している企業のコンプライアンス部門、そして、何よりも逃げられない『ネットの海』に、こいつらの本性を叩きつける」

「……結希、お前、本当に変わったな。高校の頃の、お人好しだったお前とは別人みたいだ」


健太が少しだけ畏怖の混じった視線を向けてくる。

俺だって、こんなことはしたくなかった。

ただ、好きな人と笑って、平凡な大学生活を送りたかっただけだ。

けれど、あいつらは俺の平穏を、俺の愛した琴音を、土足で踏みにじった。

俺をここまで変えたのは、他でもない豪徳寺たちだ。


扉が開き、佐倉沙織さんと藤代美咲さんが入ってきた。

二人とも、どこか晴れやかな、それでいて覚悟の決まった表情をしていた。


「瀬尾くん、他の被害者の子たちとも連絡がついたわ。みんな、最初は怖がっていたけれど……あなたの計画を聞いて、協力してくれるって。計十二名。全員、証言台に立つ準備ができている」


美咲さんの言葉に、俺は深く頷いた。

俺一人の力では、到底及ばない。

けれど、踏みにじられてきた者たちの怒りが集まれば、それは巨大な権力をも飲み込む濁流となる。


「ありがとうございます。……琴音の様子は、どうですか?」


俺が問いかけると、沙織さんが悲しげに目を伏せた。


「……最悪よ。豪徳寺は、あなたの心が折れたと確信して、さらに琴音さんを追い詰めている。毎晩のようにパーティーに連れ回して、彼女の精神を壊そうとしているわ。たぶん、彼女自身にもう、正常な判断能力は残っていない……」


奥歯が噛み締められる音が、自分自身の頭蓋に響いた。

琴音を救いたい。

その思いは今でも俺の中にある。

けれど、今の彼女を救う唯一の方法は、彼女を縛り付けているこの腐った檻を、根底から破壊することだけだ。


決行の日は、三日後に迫っていた。

『フェニックス』の創立記念パーティー。

都内の高級ホテルの大宴会場を貸し切って行われる、彼らにとって一年で最も華やかな舞台。

豪徳寺の父親や、協力者のOBたちも出席するという。

そこが、彼らの栄光の終着点であり、地獄の始まりになる。


「健太、潜入の準備は?」

「バッチリだ。サークルの手伝いをしてる後輩のふりをして、会場の音響・映像システムにアクセスする。美咲さんが用意してくれたパスワードを使えば、メインスクリーンをジャックできるはずだ」

「沙織さんと美咲さんは、警察と弁護士への同行をお願いします。俺は……会場で、豪徳寺に直接引導を渡す」


計画を練り上げるほどに、心臓の鼓動が激しくなる。

これは、ただの復讐ではない。

俺たちのような、名もなき「普通」の人間が、力を持つ「捕食者」から自分たちの尊厳を取り戻すための戦いだ。


決行当日。

会場となるホテルは、着飾った学生たちで溢れかえっていた。

豪華なシャンデリアの下、高級な酒が振る舞われ、誰もが偽りの幸福感に浸っている。

俺は地味なスーツに身を包み、会場の隅に立っていた。

視線の先には、金色のジャケットを着た豪徳寺が、取り巻きたちを連れて大笑いしている姿があった。


その隣には、やはり琴音がいた。

以前よりもさらに痩せ細り、青白い顔に濃すぎるメイクを施されている。

彼女の瞳には、もはや何の感情も宿っていないように見えた。

まるで行き先を失った操り人形のように、豪徳寺の動きに合わせてぎこちなく微笑んでいる。


俺は胸を締め付けられるような思いを堪え、耳に仕込んだワイヤレスイヤホンに触れた。


「健太、配置についたか」

「ああ、いつでもいけるぜ。システムの制御権はこちらにある。お前の合図で、すべてが始まる」

「分かった。……沙織さんたちは?」

「弁護士の先生と一緒に、ホテルの外で警察の突入タイミングを待ってる。……瀬尾くん、武運を」


美咲さんの凛とした声が、勇気を与えてくれる。

俺は一歩、また一歩と、豪徳寺たちのいる壇上へと歩みを進めた。

周囲の学生たちが、場違いな男の登場に気づき、ざわざわと騒ぎ始める。


「おや、誰かと思えば瀬尾くんじゃないか。今日は招待状を送ってないはずだけど?」


豪徳寺がグラスを片手に、嘲るような笑みを浮かべた。

取り巻きの連中も、俺を囲むように立ちふさがる。


「豪徳寺、一つ聞きたいことがある」


俺は努めて穏やかな声で言った。


「なんだい? 命乞いなら、琴音ちゃんの足にキスでもしてからにするんだな。彼女はもう、俺たちの色に染まっちゃったけどね」

「……君は、人を壊すことがそんなに楽しいのか?」


一瞬、豪徳寺の目が冷たく細まった。

だが、彼はすぐに肩をすくめて、周囲に聞こえるような大声で笑った。


「楽しいに決まってるだろ。金も女も、思い通りにならないものなんて何一つない。君みたいな、誠実さだけが取り柄のつまらない人間に、この万能感が分かるか? 琴音ちゃんを見てみろよ。君といた時より、ずっと『輝いて』いるじゃないか」


彼は琴音の腰を引き寄せ、無理やり自分の方を向かせた。

琴音は怯えたように震えたが、その視線は俺を通り越して、虚空を見つめている。


「……そうか。なら、その万能感も、今日で終わりだ」


俺はスマートフォンを取り出し、画面を一回タップした。

それが、崩壊の合図だった。


突然、会場に流れていた華やかなBGMが止まった。

それと同時に、正面の巨大なスクリーンが激しく点滅し、映像が切り替わる。

映し出されたのは、美しい海辺の映像でも、サークルの功績を称えるスライドでもなかった。


そこには、豪徳寺たちが意識のない女子大生に酒を強要し、嘲笑しながらその様子を撮影している生々しい映像が流れていた。

会場が静まり返る。

学生たちの顔から血の気が引き、あちこちで短い悲鳴が上がった。


「な、なんだこれは! 止めろ! すぐに止めろ!」


豪徳寺が激昂して叫ぶが、映像は止まらない。

それどころか、音声スピーカーからは、彼らが裏で女性たちをランク付けし、「次はどいつを落とすか」と下劣な相談をしている会話が、クリアな音質で会場全体に響き渡った。


『琴音って子、マジでチョロかったわ。ちょっと優しくして酒飲ませたら、すぐに俺の言いなりだぜ』

『代表、さすがっすね。あいつの彼氏、今頃家で泣いてんじゃないすか?(笑)』


録音された自分自身の声を聞き、豪徳寺は顔を真っ赤にして壇上の音響機材に掴みかかろうとした。

だが、映像は次へと進む。

そこには、藤代美咲さんが提供してくれた裏帳簿のデータが、誰の目にも分かりやすい図解とともに表示されていた。

脱税の記録、薬物の購入履歴、そして大学の理事たちの名前が記された贈収賄のリスト。


会場の入り口から、数人のスーツ姿の男女が入ってきた。

それは、警察官と、大学の調査委員会、そしてメディアの記者たちだった。


「豪徳寺蓮さんですね。麻薬取締法違反、および強制性交等罪の疑いで同行を求めます」


刑事の一人が、静かに、だが拒絶を許さないトーンで告げた。

豪徳寺は後ずさりし、震える指で俺を指差した。


「貴様……瀬尾! 貴様がやったのか! こんな真似をして、タダで済むと思っているのか! 俺の親父が、黙っちゃいないぞ!」

「君の親父さんなら、今頃自分の会社の取締役会で解任決議を受けている頃だよ」


俺は冷ややかに言い放った。


「美咲さんが提供してくれた裏帳簿のコピーは、今朝一番で君の父親の会社の監査役と主要株主、そしてメインバンクにも送ってある。息子が不祥事の元締めだと知って、株価は大暴落だ。会社を守るために、彼らは君を切り捨て、親父さんも責任を取らされる。……君を守る盾は、もうどこにもないんだよ」


豪徳寺は膝から崩れ落ちた。

周囲の取り巻きたちも、警察官に囲まれ、次々と連行されていく。

さっきまでの王者のような風格は消え失せ、ただの震えるガキの姿がそこにあった。


俺は、呆然と立ち尽くす琴音の元へ歩み寄った。

彼女は、スクリーンに映し出された自分の姿と、足元で崩れ落ちる豪徳寺を見て、ようやく現実が意識に戻ってきたようだった。


「……結希、くん……?」


震える声で俺の名を呼ぶ琴音。

彼女の瞳には、かつての知性が、そしてそれ以上の絶望が宿り始めていた。

自分が何をされたのか。

そして、自分自身の意志で、どれほどの裏切りを犯してきたのか。

その事実が、津波のように彼女を襲っているのが分かった。


「……全部、終わったよ。琴音」

「私、私……どうして、あんなことを……結希くん、ごめんなさい……私、あんなの嫌だったのに……でも……」


彼女は泣きながら俺の服を掴もうとした。

だが、俺はそっとその手を解いた。

彼女の手は氷のように冷たく、そして激しく震えていた。


「助けて、結希くん……。お願い、もう一度、あの頃みたいに……。私を、連れ出して……」


琴音の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

それは、偽りの楽園から目覚めた者の、あまりにも遅すぎた懺悔だった。

俺は彼女の顔をじっと見つめた。

三年間、誰よりも大切に思ってきた。

彼女の笑顔を守るためなら、何だってできると思っていた。

けれど、俺の心の中にあった温かな火は、あの夜、彼女の部屋で見た絶望によって完全に消え失せていた。


「ごめん、琴音。……俺には、もうその手を取ることはできないんだ」

「え……?」

「君を救いたかった。あの男たちに踏みにじられるのを、黙って見ていたくなかった。だから、この復讐をやり遂げた。……でも、それは君への愛ゆえじゃない。俺自身の、踏みにじられた自尊心を取り戻すための戦いだったんだ」


俺は琴音の目を真っ直ぐに見つめて、一文字ずつ噛み締めるように告げた。


「君は騙されていたのかもしれない。無理やり飲まされていたのかもしれない。でも、あのメッセージを打ったのは、俺を裏切ることを選んだのは、紛れもなく君自身だ。……一度壊れた信頼は、どんなに悔いても、二度と元には戻らないんだよ」


琴音は声を失い、呆然と口を開けたまま俺を見上げた。

俺は彼女に背を向け、警察に連行されていく豪徳寺の背中を追うように、会場を歩き出した。


背後で、琴音が「結希くん!」と叫ぶ声が聞こえた。

何度も、何度も、俺の名前を呼ぶ声。

それはかつての幸せだった放課後のように、甘く響くことはなかった。

ただ、冷たい風のように、俺の背中を虚しく通り抜けていくだけだ。


ホテルの外に出ると、雨はさらに激しさを増していた。

正面玄関には、パトカーの赤色灯がいくつも回転し、雨粒を赤く染めている。

詰めかけた報道陣のフラッシュが、夜の闇を幾度も切り裂く。

その光の中で、豪徳寺は頭を下げ、みじめな姿でパトカーに押し込まれていった。

彼がこれから歩む道は、法的な罰だけではない。

「サークル代表」という肩書きも、父親の財力も、輝かしい将来も、すべてを失った。

そして何より、彼が最も恐れていた「誰からも顧みられない、惨めな敗北者」としての人生が、これから一生続くのだ。


俺は傘も差さずに雨の中に立ち、パトカーが走り去るのを見送った。

隣には、いつの間にか健太と沙織さん、美咲さんが立っていた。


「終わったな、結希」


健太が俺の肩に手を置いた。

彼の服も、雨でぐっしょりと濡れている。


「……ああ。全部、終わった」

「……ありがとう、瀬尾くん。これでようやく、私たちも前を向ける気がするわ」


沙織さんが、少しだけ微笑みながら言った。

彼女の頬を伝っているのが、雨なのか涙なのか、俺には分からなかった。

けれど、彼女の瞳には、確かな希望の光が灯っていた。


「瀬尾くん、これからどうするの? 彼女のこと……」


美咲さんが、少し心配そうに問いかけてきた。

俺は、静かに首を振った。


「彼女には、自分の犯した過ちと、これから一生向き合ってもらう。それが、彼女にできる唯一の責任の取り方だと思うから。……俺はもう、彼女の隣にはいない」


俺たちは、誰からともなく歩き出した。

赤色灯の光が遠ざかり、ホテルの喧騒も雨音に消されていく。

俺の胸の中にあるのは、復讐を成し遂げた達成感でも、彼女を失った喪失感でもなかった。

ただ、重い石を下ろした後のような、形容しがたい静寂だけだった。


「お腹、空いたな。どっかでラーメンでも食べて帰らないか?」


健太が、いつもの調子でおどけて言った。


「ああ、いいな。温かいやつを」


俺たちは笑い合い、暗い夜の街へと消えていった。

普通の大学生に戻るための、第一歩を。

その足取りは、昨日までよりもずっと、確かで力強いものだった。


けれど、俺は知っている。

この夜の出来事は、俺の人生に消えない傷跡を残したことを。

人を愛することの難しさと、一瞬の弱さが招く取り返しのつかない悲劇。

それを、俺は一生忘れることはないだろう。


降り続く雨は、街の汚れを洗い流してくれるかもしれない。

だが、一度泥に染まった心は、そう簡単には元には戻らない。

それでも、俺たちは生きていく。

失ったものを数えるのではなく、新しく手に入れた絆を握りしめて。

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