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第2話 仮面の裏側で嗤う王子様、そして堕ちていく隣の席の君

昨夜、琴音の部屋で目にした光景が、網膜に焼き付いて離れない。

大学の講義中も、教授の声は遠い雑音のようにしか聞こえず、俺の意識は泥沼のような思考の渦に飲み込まれていた。

隣の席では、親友の阿久津健太が心配そうにこちらを伺っている。

俺はノートの端に、昨日書き留めた「佐倉沙織」という名前を何度もなぞっていた。


「……結希、本当に行くのかよ。その佐倉って人、相当ひどい目に遭わされたって話だぞ」


健太が声を潜めて言った。

彼は昨日、俺が琴音の部屋に踏み込んだことを知っている。

そして、俺がこれから何をしようとしているのかも。


「行かなきゃ何も始まらないんだ。琴音が今、どんな場所に片足を突っ込んでるのか……それを正確に知る必要がある」


俺は立ち上がり、鞄を肩にかけた。

昼休み、俺は大学の裏手にある、学生があまり近づかない古い資料館のベンチに向かった。

事前に健太を通じて連絡を取ってもらっていた彼女は、約束の時間の数分前に姿を現した。


佐倉沙織。

二年生の彼女は、どこか影のある、伏し目がちな女性だった。

かつては今の琴音のように、明るく華やかな学生生活を送っていたと聞くが、今の彼女からはその面影は感じられない。

俺が会釈をすると、彼女は怯えたような視線を周囲に走らせてから、俺の隣に腰を下ろした。


「……瀬尾さん、ですね。阿久津くんから話は聞きました。彼女が『フェニックス』に入ったとか」


彼女の声は掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。

俺は頷き、正直な胸の内を話した。

彼女を連れ戻したいこと、そして、あのサークルで何が行われているのかを知りたいこと。

沙織さんは震える手で膝の上の鞄を握りしめ、ゆっくりと口を開いた。


「あそこは……サークルなんて呼べるものじゃありません。豪徳寺は、女の子を『物』としか見ていないんです」


彼女が語った内容は、想像を絶するものだった。

豪徳寺蓮は、まずターゲットにした女の子を徹底的に肯定し、特別扱いすることで依存させる。

「君は他の子とは違う」「君の本当の魅力を理解できるのは僕だけだ」

そんな甘い言葉で、自分に自信のない女の子の心を溶かしていく。

そして、十分に関係が深まったところで、サークルの「特別な飲み会」に招待するのだという。


「そこでは、普通の居酒屋では出されないような強い酒や、……何かが混ぜられた飲み物が出されます。意識が朦朧としたところで、彼らは本性を現すんです」


沙織さんは、そこで言葉を詰まらせた。

目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

彼女もまた、そこで取り返しのつかない傷を負わされた一人だった。

豪徳寺たちは、意識を失った女の子たちの様子を動画で撮影し、それをサークル内の「ランク付け」に利用するという。

そして、その動画を盾に、女の子たちが警察や大学に訴えられないよう脅迫するのだ。


「最初はみんな、被害者なんです。でも、豪徳寺に『君も楽しんでいたじゃないか』『動画をバラ撒かれたら君の人生は終わりだ』と言われ続けるうちに、心が壊れていく……。自分を責めて、逃げ場を失って、最後には彼らの言いなりになるしかないんです」


俺は拳を握りしめた。

琴音が昨日、あの部屋で虚ろな目をしていた理由が分かった気がした。

彼女は、自分が汚されてしまったという恐怖と、豪徳寺から与えられる「偽りの居場所」の間で、激しく揺れ動いているのだろう。

彼女は決して悪女ではない。ただ、優しすぎて、弱すぎただけなのだ。


「……教えてくれてありがとうございます、佐倉さん。君が話してくれたことは、無駄にはしません」


沙織さんは、悲しげに首を振った。


「やめておいた方がいいです。豪徳寺の背後には、有力な実業家である父親がいる。大学側も、多額の寄付金をもらっているから、不祥事には蓋をしようとするんです。一介の学生が立ち向かえる相手じゃありません」

「それでも、俺はあいつを許せません。俺の大切な人を、こんな風に壊した奴らを……絶対に」


沙織さんと別れた後、俺のスマートフォンが震えた。

画面に表示されたのは、豪徳寺からのメッセージだった。


『今日の放課後、例のラウンジでちょっとしたパーティーがあるんだ。琴音ちゃんも来るけど、君も招待してあげるよ。彼氏(笑)として、彼女が輝いている姿を見ておくべきだろ?』


明らかな挑発だった。

俺を呼び出し、目の前で琴音との関係を見せつけることで、俺の心を完全に折ろうとしているのだ。

健太に相談すると、彼は「罠だ、行くな」と必死に止めた。

だが、俺は行く決意を固めていた。

彼らの手口をこの目で確認し、証拠を掴むための第一歩にするために。


放課後、駅前にある高級ビルの最上階。

会員制のラウンジに足を踏み入れると、そこには異様な熱気が渦巻いていた。

派手な照明が回り、重低音の音楽が響き渡る中、酒を手にした学生たちが騒いでいる。

その中心に、王者のようにソファに踏んぞり返る豪徳寺がいた。


「おっ、来たね瀬尾くん。歓迎するよ、モブの分際でよく勇気を出した」


豪徳寺はグラスを掲げ、周囲の笑いを誘った。

彼の傍らには、露出度の高いドレスを着せられた琴音が座っていた。

彼女は俺の姿を見ると、びくりと肩を震わせ、手に持っていたグラスを落としそうになった。


「……結希くん、どうしてここに」


その声は、震えていた。

彼女の目は赤く充血し、明らかに正常な精神状態ではないことが見て取れた。

俺は彼女に歩み寄ろうとしたが、サークルの男たちに阻まれた。


「おいおい、勝手に近づくなよ。今の琴音ちゃんは、俺たちのサークルの『女神』なんだからさ」


豪徳寺がニヤニヤしながら、琴音の腰を強く抱き寄せた。

琴音は一瞬、嫌悪感を露わにしたが、すぐに力なく彼に身を任せた。

その様子を見て、豪徳寺は俺に耳打ちした。


「なあ、瀬尾。君、彼女と三年間も付き合ってたんだって? でも、君は彼女の『本当の姿』を知らなかったみたいだね。彼女、ベッドの上じゃあんなに情熱的なんだぜ? 君との退屈な時間の反動かな」


周囲から下品な笑い声が上がる。

俺は怒りで視界が真っ白になりそうだったが、奥歯を噛み締めて堪えた。

今ここで殴りかかれば、俺はただの暴力沙汰を起こした学生として排除されるだけだ。


「……琴音、帰ろう。こんな場所、君がいるべきところじゃない」


俺は精一杯の声を振り絞って呼びかけた。

琴音は一瞬、俺の方をじっと見つめた。

その瞳の奥に、かつての彼女の面影が僅かに光った気がした。


「結希くん……私、私……」


彼女が立ち上がろうとしたその時、豪徳寺が彼女の手首を強く掴んだ。


「ダメだよ、琴音ちゃん。君にはまだ、みんなと楽しんでもらう『お仕事』が残ってるだろ? それとも、あの動画、今ここで全員に見せちゃおうか?」


琴音の顔から血の気が引いた。

彼女は絶望に染まった目で俺を見つめ、蚊の鳴くような声で言った。


「……ごめんなさい、結希くん。もう、遅いの。私はもう、あなたの隣にいた私じゃないの」


彼女は豪徳寺の腕の中に顔を埋め、声を殺して泣き始めた。

豪徳寺は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、俺を指差した。


「分かったか? これが現実だよ。君みたいな平凡な男が、一生かかっても手にできない快楽を、彼女は知ってしまったんだ。もう君の入る余地なんてないんだよ。さあ、警備員を呼ぶ前にさっさと消えろ」


俺は無言で翻り、ラウンジを後にした。

背後で響く嘲笑と、琴音の泣き声が、俺の心に深く鋭い楔を打ち込んでいく。

ビルの外に出ると、夜の街は冷たい雨が降り始めていた。


俺は雨に濡れながら、駅前のベンチに座り込んだ。

悔しくて、情けなくて、涙すら出ない。

彼女を救いたいと思っていた。

だが、現実はあまりにも残酷だった。

彼女は弱みに付け込まれ、心まで支配されようとしている。

そして、あの男たちは、それを楽しみながら、人の人生を弄んでいるのだ。


「……やっぱり、一人じゃ無理だったか」


俺は震える手でスマートフォンを取り出し、健太に電話をかけた。

数回のコールの後、健太の焦ったような声が聞こえてきた。


「結希! 大丈夫か? 今どこだ?」

「健太……悪い。あいつらの言う通り、俺はただの無力な大学生だったよ」

「何言ってんだよ! お前、まさか……」

「でもな、健太。無力だからって、負けたままじゃいられないんだ。あいつらが法律や権力を傘に着るなら、俺たちは『真実』と『連帯』で戦うしかない」


俺は、ラウンジでこっそりと起動させていた録音アプリを停止した。

そこには、豪徳寺が動画で脅迫していることを自白した音声が、はっきりと残っていた。

もちろん、これだけで彼を逮捕させるのは難しいだろう。

だが、これは反撃の狼煙だ。


「健太、協力してほしい。被害に遭った女の子たち、一人ひとりに会いに行こう。佐倉さんだけじゃない、他にもたくさんいるはずだ」

「……ああ、もちろんだ。俺にできることなら何でもやる。お前のそういう頑固なところ、嫌いじゃないぜ」


翌日から、俺たちの地道な調査が始まった。

健太はサークル『フェニックス』の過去のイベント写真をSNSから洗い出し、不自然に退会した女子学生を特定していった。

俺は講義の合間を縫って、彼女たちの元を訪ね歩いた。


最初は、誰もが口を閉ざした。

「忘れたい」「関わりたくない」「怖い」

彼女たちの言葉は、どれも豪徳寺への底知れない恐怖を物語っていた。

だが、俺は諦めなかった。

自分の彼女が今まさに、同じ地獄に堕とされようとしていること。

そして、自分たちが声を上げなければ、これからも犠牲者が増え続けることを、誠実に訴え続けた。


そんなある日、俺は大学の食堂で、一人の女性に声をかけられた。

三年生の藤代美咲ふじしろ みさきさん。

彼女は、かつてフェニックスの幹部候補だったという。


「瀬尾くん、あなたの噂は聞いてるわ。豪徳寺に喧嘩を売ってる、無謀な一年生がいるって」


彼女の目は、冷徹なようでいて、その奥には強い意志が宿っていた。


「私は、あいつらのやり方に付いていけなくてサークルを抜けた。でも、抜けるときに、あいつらが隠している『裏帳簿』の存在を知ったの。違法薬物の購入ルートや、接待に使った多額の現金の出所が記されたメモよ」


俺は息を呑んだ。

それは、豪徳寺個人だけでなく、サークル全体を、いや、彼を支援している背後の勢力すらも根こそぎなぎ倒せる、強力な武器になる。


「どうしてそれを、俺に?」

「……私もね、後悔してるの。沙織が壊されていくのを、ただ見てることしかできなかった。自分だけ逃げ出して、知らんぷりをして生きてきた。でも、あなたの必死な姿を見て、少しだけ勇気をもらったのよ」


美咲さんは、一枚のUSBメモリをテーブルの上に置いた。


「これには、私が密かにコピーしたデータが入ってる。でも、これを表に出せば、あなた自身も危ない目に遭うわ。豪徳寺の父親は、手段を選ばない男よ。それでも、やる?」

「やります。俺一人じゃ力不足でも、助けてくれる仲間がいます」


俺はUSBメモリを握りしめた。

普通の大学生である俺にできることは、限られている。

だが、被害者たちの怒りと、裏切られた者たちの執念が合わされば、巨大な壁に穴を開けることくらいはできるはずだ。


一方、琴音の様子はさらに悪化していった。

大学で見かける彼女は、もはや別人のようだった。

いつも豪徳寺やその取り巻きに囲まれ、うつろな笑顔を振りまいている。

その腕には、隠しきれない注射の痕や、痣が見えることもあった。

彼女は、豪徳寺たちが主催する「闇のパーティー」の看板娘として、心身ともに削り取られていたのだ。


ある日の放課後、俺は図書室の影で、一人で震えている琴音を見つけた。

周囲に誰もいないことを確認し、俺は彼女に駆け寄った。


「琴音! 丈夫か? 今、助けてやるから……」


俺が彼女の肩に手を置くと、彼女は悲鳴を上げて逃げ出そうとした。


「嫌! 来ないで! 私に触らないで!」

「琴音、俺だよ! 結希だ!」


俺が叫ぶと、彼女はやっと動きを止めた。

振り返った彼女の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。


「……結希くん。お願い、逃げて。私のことは、もう放っておいて。私はもう、あの人たちに壊されちゃったの。あなたと一緒にいた、あの頃の私には……もう戻れないのよ」


彼女は、自分が豪徳寺たちに強要されている行為や、飲まされている薬物のことを、断片的に話し始めた。

彼女は、俺を愛しているからこそ、自分が汚れてしまったことに耐えられなかったのだ。

豪徳寺はそこを突いた。

「こんな姿を瀬尾に見せられるのか?」「彼は君を軽蔑するぞ」

そう囁き続け、彼女の自尊心を徹底的に破壊したのだ。


「そんなことない! 君がどんな状態でも、俺は君を……」


言いかけた俺の言葉を、琴音が遮った。


「ううん、違うの。私が、私自身を許せないの。……結希くん、さようなら。これが、最後のお願い。私のことは、忘れて」


彼女はそう言い残すと、脱兎のごとく走り去っていった。

俺はその場に立ち尽くし、消えていく彼女の背中を見つめることしかできなかった。


胸が張り裂けそうだった。

彼女を救いたいという純粋な気持ちが、かえって彼女を追い詰めていたのかもしれない。

だが、その絶望は、俺の中に新たな決意を生んだ。


悲しんでいる時間は、もう終わりだ。

彼女が自分を許せないと言うのなら、俺が、彼女をそんな風にした奴らをこの世から消し去る。

それが、俺にできる唯一の贖罪だ。


俺は健太と美咲さん、そして沙織さんと共に、秘密の会議を持った。

手元には、ボイスレコーダー、隠し撮りされた現場写真、そして美咲さんから譲り受けた裏帳簿のデータ。

普通の大学生が、命がけで集めた証拠の数々だ。


「よし、準備は整ったな」


健太が、緊張した面持ちで言った。


「ああ。あとは、あいつらが一番油断する瞬間を狙うだけだ」


俺は、窓の外に広がる夜のキャンパスを見つめた。

そこには、今夜も豪徳寺たちが主催する、狂乱のパーティーが開かれているはずだ。

彼らはまだ気づいていない。

自分たちが踏みつけにしてきた「モブ」たちが、静かに、確実に、その首元に刃を突き立てようとしていることに。


俺の手元にあるスマートフォンに、一通の通知が届いた。

豪徳寺が、今夜のパーティーの様子をライブ配信しているという。

画面を開くと、そこには酒を浴びるように飲み、琴音の髪を乱暴に掴んで笑う豪徳寺の姿があった。


「見てろよ、豪徳寺。お前の『楽園』を、今から俺が地獄に変えてやる」


俺は冷徹な声で呟くと、用意していた告発文の送信ボタンに指をかけた。

それは、大学、警察、そして豪徳寺の父親の会社へと一斉に送り届けられる、真実の弾丸だ。

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