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第1話 繋いでいた指が解けるとき

六月の蒸し暑い空気が、大学のキャンパスに停滞している。

湿り気を帯びた風が、講義棟の廊下を通り抜けるたびに、俺の胸の中にあるざらついた不安を撫でていった。

瀬尾結希せお ゆうきは、手元のスマートフォンを何度も確認するが、期待している通知は一向に届かない。

画面に映し出されているのは、最後に交わした「今日はサークルの飲み会だから遅くなるね」という、どこか他人行儀なメッセージだけだった。


「……また、か」


思わず口から漏れた溜息は、誰に聞かれることもなく空気の中に溶けて消えた。

俺には、高校一年生の頃から付き合っている大切な彼女がいる。

氷見谷琴音ひみや ことね

同じ高校に通い、放課後の図書室で一緒に受験勉強に励んだ、俺の青春のすべてと言っても過言ではない存在だ。

彼女は控えめで、少しだけ自分に自信がなくて、でも誰よりも優しく笑う女の子だった。


「結希くん、この問題、また間違えちゃった。私、やっぱり向いてないのかな」


高校時代の図書室、西日に照らされた彼女が困ったように眉を下げて笑った顔を、今でも鮮明に思い出すことができる。

あの頃の俺たちは、ただ一緒にいられるだけで幸せだった。

俺が励ませば、彼女は「結希くんがいるから頑張れるよ」と、小さな手で俺の指を握り返してくれた。

二人で必死に勉強して、ようやく合格を掴み取ったこの大学。

バラ色の未来が待っていると信じて疑わなかった。


けれど、大学という場所は、あまりにも広すぎたのかもしれない。

入学してわずか二ヶ月。

琴音の雰囲気は、目に見えて変わっていった。

まず変わったのは、服装だった。

清楚なブラウスに膝丈のスカートを好んでいた彼女が、いつの間にか肩の開いた露出の多い服を着るようになった。

そして、あまり縁のなかったメイクを覚え、髪を明るく染めた。

鏡を見る時間が増えるにつれ、俺と目が合う時間は減っていった。


「ねえ、結希くん。今度、サークルの友達とバーベキューに行くことになったの」


一ヶ月前、彼女が嬉しそうに報告してきたときのことを思い出す。

彼女が入ったのは『フェニックス』という名前のインカレサークルだった。

表向きは「交流を目的としたイベントサークル」だが、その実態は、近隣の大学でも噂になるほどの派手な遊び人の集まりだということを、俺は後になって知った。


「楽しそうだね。でも、あんまり飲みすぎないようにしなよ?」

「大丈夫だよぉ。みんな優しいし、代表の豪徳寺ごうとくじさんも、私のことをすごく気にかけてくれてるんだから」


その名を聞いたとき、心臓の奥がチクリと痛んだ。

豪徳寺蓮ごうとくじ れん

この界隈では有名な男だ。

資産家の息子で、モデルのようなルックス。

誰に対しても人当たりが良く、爽やかな笑顔を振りまいているが、その裏では数多くの女子大生を使い捨てにしているという黒い噂が絶えない男。

琴音のような、人を疑うことを知らない純粋な女の子が一番関わってはいけない相手だ。


俺は何度も、そのサークルは危ないんじゃないかと忠告した。

しかし、そのたびに琴音は「結希くんは心配しすぎだよ。私のことを子供だと思ってるの?」と、少しだけ不機嫌そうに顔を背けるようになった。

彼女にしてみれば、新しい世界を見せてくれる刺激的な仲間たちの方が、地味な俺よりも魅力的に映っているのかもしれない。


講義が終わった後の夕暮れ時。

俺は親友の阿久津健太あくつ けんたに呼び出され、大学近くの喫茶店にいた。

健太は高校からの腐れ縁で、俺と琴音の関係もすべて知っている。

彼は運ばれてきたアイスコーヒーを一気に煽ると、同情の混じった視線を俺に向けてきた。


「結希、お前……氷見谷さんのこと、最近どうなってるんだ?」


単刀直入な問いに、俺は言葉を詰まらせた。


「どう、って……普通だよ。ちょっと忙しそうだけど」

「普通なわけないだろ。昨日、見たんだよ。駅前のラウンジから、氷見谷さんが豪徳寺の連中と一緒にビルに入っていくのを」


健太の言葉に、心臓が跳ねた。

あのビルには、フェニックスのメンバーがたまり場にしているパーティールームがある。

深夜まで酒を飲み、乱痴気騒ぎを繰り返しているという場所だ。


「……あいつ、飲み会だって言ってたから。付き合いもあるだろうし」

「お前、いい加減にしろよ。豪徳寺が狙うのは、あんな風にふわふわした、お人好しの女なんだ。あいつらにとっちゃ、氷見谷さんは格好の獲物なんだぞ。もう、サークル内じゃ『新しい姫』扱いされてるって噂だ」


姫。

その言葉が、ひどく汚らわしいものに聞こえた。

琴音は、そんな風に扱われることを望んでいるのだろうか。

それとも、自分がどう見られているのかに気づいていないだけなのか。

俺の知っている琴音は、誰に対しても誠実で、嘘がつけない優しい子だ。

だからこそ、悪意を持った人間からすれば、これほど扱いやすい相手はいない。


「俺、これから彼女の家に行ってみる。合鍵、持ってるし」

「……やめとけって。今行っても、いいことなんて一つもないぞ」


健太の制止を振り切り、俺は店を出た。

琴音のマンションに向かう足取りは重い。

彼女の部屋は、大学から少し離れた静かな場所にある。

一人暮らしを始めた彼女を心配して、俺が一緒に探した物件だ。

「結希くんが選んでくれた部屋だから、大切にするね」

そう言って笑っていた彼女の声が、耳の奥でリフレインする。


マンションの前に着くと、一台の高級外車が停まっているのが見えた。

夕闇の中で、そのメタリックな車体が嫌な光を放っている。

運転席から降りてきたのは、背が高く、完璧に整えられた髪型の男だった。

豪徳寺蓮だ。

彼は助手席のドアをうやうやしく開けると、そこから降りてきた女性の肩に馴れ馴れしく手を回した。


「今日は楽しかったね、琴音ちゃん」

「はい……でも、少し飲みすぎちゃったみたいで……」


降りてきたのは、間違いなく琴音だった。

足元が覚束ない様子で、豪徳寺の体に寄りかかっている。

その顔は赤らみ、目はどこか焦点が合っていない。

俺が知っている、あの凛とした、でも控えめな彼女の面影はどこにもなかった。


「ちょっと休んだ方がいいよ。部屋まで送るから」

「……ありがとうございます、豪徳寺さん」


彼女の声は、甘えるような、それでいてどこか拒絶を忘れたような、弱々しい響きを帯びていた。

俺は物陰に隠れ、二人がエントランスへ消えていくのをただ見ていることしかできなかった。

全身の血が逆流するような怒りと、それ以上に深い絶望が俺を支配する。

追いかけて、あの男を殴り飛ばすべきか。

それとも、琴音の手を引いて無理やりにでも連れ戻すべきか。


結局、俺は動けなかった。

一分、二分と時間が過ぎていく。

俺が渡した合鍵を使って、あの男が彼女の部屋に入る姿を想像するだけで、吐き気がした。

自分がいかに無力で、情けない存在かを見せつけられた気がした。


三十分ほど経っただろうか。

豪徳寺が一人でマンションから出てきた。

彼は満足げに口笛を吹きながら、高級車に乗り込む。

車が走り去った後、俺は吸い寄せられるように彼女の部屋の前まで行った。

震える手で鍵を差し込み、扉を開ける。


室内には、琴音が最近つけている、きつい香水の匂いが充満していた。

リビングのソファには、脱ぎ捨てられた上着が散らばっている。

奥の寝室からは、微かに寝息が聞こえてきた。


「琴音……」


寝室に入ると、彼女はベッドの上で、まだ着替えてもいない服のまま眠っていた。

その首元には、俺が贈ったものとは違う、派手なブランド物のネックレスが輝いている。

それは、彼女の細い首を縛り付けるかせのように見えた。

枕元には、彼女のスマートフォンが置かれていた。

本来なら、プライバシーを覗くようなことはしたくない。

だが、今の俺にそんな倫理観を守る余裕はなかった。


震える指でスマートフォンの画面をスワイプする。

パスコードは、まだ俺たちの記念日のままだった。

その事実に少しだけ希望を見出そうとしたが、次の瞬間、メッセージアプリの中に並ぶ無数の通知が、俺の心を粉々に打ち砕いた。


そこには、サークルのグループチャットがあった。

『今日の琴音、マジで最高だったわ』

『代表にベタ惚れじゃん。もう、瀬尾とかいう彼氏いらねーだろ』

『あいつ、地味すぎて琴音ちゃんには釣り合わないよな(笑)』


嘲笑の言葉が並ぶ中で、豪徳寺からの個人的なメッセージも残っていた。

『琴音、明日は二人きりで会いたいな。結希くんには、適当に嘘ついといてよ。君はもう、こっち側の人間だろ?』


それに対する琴音の返信は、すぐに見つかった。

『……はい。結希くんには内緒にしておきます。私、豪徳寺さんといるときが一番、自分らしくいられる気がするんです』


自分らしく、だって?

俺といた三年間は、彼女にとって自分らしくない時間だったというのか。

俺が彼女を支え、彼女の涙を拭い、二人で未来を語り合ったあの時間は、すべて偽りだったというのか。

画面を見つめる視界が、怒りと悲しみで歪んでいく。


彼女は、騙されているだけなのかもしれない。

豪徳寺のような百戦錬磨の男に言葉巧みに誘導され、断れない状況に追い込まれているだけなのかもしれない。

だが、このメッセージに綴られた言葉は、彼女自身の指で打ち込まれたものだ。

俺への裏切りを自覚しながら、それでもなお「こっち側」に行こうとしている意志が、そこには確かに存在していた。


俺はスマートフォンを元の場所に戻し、音を立てないように部屋を出た。

夜の冷たい空気が、火照った顔を冷やしてくれる。

歩きながら、俺は自分の拳を強く握りしめた。

爪が手の平に食い込み、鋭い痛みが走る。

だが、その痛みこそが、今の俺を辛うじて繋ぎ止めていた。


「……やり直せるなんて、もう思わない」


夜空を見上げても、都会の明かりに遮られて星は見えない。

ただ、重苦しい暗闇が広がっているだけだ。

彼女は、俺が思っていたよりもずっと脆かった。

そして、あの男たちは、俺が想像していたよりもずっと醜い。


怒りに任せて暴れるのは簡単だ。

だが、それでは何も解決しない。

あの男たちは、社会的地位や親の威光を傘に着て、俺のような一般人を踏みつけにすることに慣れている。

まともにぶつかっても、返り討ちに遭うのが関の山だ。


なら、どうすればいい。

どうすれば、奪われた尊厳を取り戻し、あの男たちに真の絶望を与えることができる。

そして、裏切った彼女に、自分が何を失ったのかを理解させることができるのか。


脳裏に、健太の言葉が蘇る。

「あいつらは、獲物をランク付けして共有してるんだ」

もし、その行為自体が法に触れるものだとしたら。

もし、彼らが築き上げてきた『楽園』が、いくつもの犠牲者の上に成り立つ砂の城だとしたら。


俺は、自分の無力さを知っている。

だからこそ、一人で戦うつもりはない。

同じように傷つき、声を上げられずに沈んでいる人間が、他にもいるはずだ。


俺はポケットから自分のスマートフォンを取り出し、アドレス帳を開いた。

一番上に表示されている『氷見谷琴音』の名前を、俺は指でなぞる。

かつては愛おしくてたまらなかったその名前が、今は呪詛のように感じられた。

俺は彼女の名前を削除しようとして、思いとどまった。

これは、俺がこれから歩む修羅の道の、最初の道標だ。


「さよなら、琴音。君が選んだその世界が、どれほど冷たい場所か……すぐに教えてあげるよ」


俺は前を向いて歩き出した。

まだ、復讐のいろはも知らない、ただの大学生だ。

けれど、俺の心の中には、今まで感じたことのないほど静かで、それでいて激しい炎が灯っていた。


翌日、大学の講義室。

俺はいつも通り、一番後ろの席に座っていた。

しばらくして、前のドアから琴音が入ってくるのが見えた。

彼女は俺の姿を見つけると、一瞬だけ身体を強張らせたが、すぐに取り繕ったような笑顔を浮かべてこちらへ歩いてくる。


「おはよう、結希くん。昨日はごめんね、疲れちゃってて連絡できなかった」


彼女の首元には、やはり昨日見たネックレスがあった。

俺が誕生日に贈ったシンプルなシルバーのペンダントは、もうどこにも見当たらない。


「いいよ。楽しかったなら、それで」

「うん……まあ、普通かな。あ、今日の放課後、またサークルの用事が入っちゃって」


彼女は申し訳なさそうな顔を作っているが、その瞳は俺を見ていない。

視線は常に周囲を彷徨い、誰かを探しているようだった。

やがて、講義室に豪徳寺とその取り巻きたちが現れると、彼女の表情はぱっと明るくなった。

豪徳寺は俺に気づくと、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべ、わざとらしく琴音の腰に手を回した。


「やあ、瀬尾くん。琴音ちゃん、今日も借りていいかな? 彼女、サークルになくてはならない存在なんだ」


周囲の学生たちが、好奇の視線を俺に向ける。

サークルのメンバーたちは、クスクスと忍び笑いを漏らしている。

俺が何も言い返せないことを分かっていて、公衆の面前で辱めているのだ。


「……好きにすればいい。彼女は、俺の所有物じゃないからな」


俺の言葉に、豪徳寺は意外そうに眉を上げた。

もっと情けなく縋り付くか、激昂して掴みかかってくると思っていたのだろう。

だが、俺は努めて冷静だった。

ここで感情を露わにすれば、彼らの思うツボだ。


「へえ、物分かりがいいね。さすが、お勉強ができる人は違うなあ」


豪徳寺は琴音を連れて、前方の席へと移動していった。

琴音は一度も振り返ることなく、彼の後を追っていった。

その背中は、かつて俺が守ろうとした華奢な背中ではなく、ただの欲に溺れた一人の女のものに見えた。


俺は、鞄の中から一冊のノートを取り出した。

講義の内容を書き込むためのものではない。

そこに、俺は今朝までに調べたフェニックスに関するメモを書き込み始めた。

設立時期、主なメンバー、定期的に行われているパーティーの場所。

そして、昨日健太から聞いた、かつての被害者だという女性の名前。


佐倉沙織さくら さおり


彼女なら、あの華やかなカーテンの裏側に隠された、どろどろとした真実を知っているはずだ。

講義が始まるチャイムが鳴り響く中、俺は文字を書き連ねる。

これから始まるのは、一人の男の意地を通すための、長く孤独な戦いだ。


「まずは、話を聞かせてもらおうか。君たちが何をしてきたのかを」


俺はペンを置き、前方の席で豪徳寺と楽しそうに話し込んでいる琴音の姿を冷めた目で見つめた。

彼女が流すことになる後悔の涙が、いつ、どのような形で零れ落ちるのか。

それを決めるのは、他の誰でもない。

この俺だ。


大学のチャイムは、授業の開始を告げるものではなかった。

俺にとってそれは、彼らの平穏な日常が終わる、カウントダウンの始まりの音だった。

繋いでいた指は、もう完全に解けてしまった。

ならば、次にその手を握るのは、救いのためではなく、地獄へと引きずり込むためだ。

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