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山国荘

天文16年(1547年) 9月

山城国 愛宕、葛野郡 京都御所


「うむ、まずお主に頼み入りたいことの内の一つに…禁裏領、丹波国山国荘の奪還を頼みたい」


俺は早速頭を抱えたくなった…


まず、山国荘について説明すると、丹波国桑田郡にある禁裏領(皇室の領地)で平安時代から材木、米、鮎、餅等の物品を貢納し、それは朝廷の重要な資金源兼宮廷行事の必需品でもあった。


しかし戦国時代になると丹波国の国人である宇津氏により山国荘は押領されるようになる。


そして問題なのはこの宇津氏なのだ。


問題は三つ…


一つ目、宇津氏の本拠地である宇津嶽山城は堅城であり、宇津氏の兵は精強であること。

二つ目、宇津氏は中央とも繋がりがあり、立場は俺と互角もしくは上であること。

三つ目…これが一番の問題なんだが…その宇津氏は我が波多野氏や赤井氏等、丹波の国人たちとも交流があり、攻めたら間違いなく顰蹙(ひんしゅく)を買い、最悪周囲が全て敵になること。


まず一つ目の問題から見ていこう。前に丹波の兵は剽悍で反骨心の塊と言ったが、この宇津氏の兵はその最たるもので、1500年代前半そこらから朝廷から当時の有力者に山国荘を奪還するように命令が出ているが、完全に奪還が成功したのは1579年の金柑(明智光秀)の丹波攻略時だった。


それも金柑の丹波攻略は1575年から始まっていて完全に丹波を攻略したのは1579年、つまり宇津はかなり最後の方まで粘っていたのだ。もっとも金柑は丹波攻略とマルチタスクで他の方面の戦にも参加しているから仕方ないと言えばそれまでだが…


二つ目の問題。宇津氏は実は立場的に言えば幕臣。役職にはついていないため奉公衆の親父よりは立場は下だが、俺と比べれば良くて互角、悪ければ俺より立場は上なのだ。ちなみに細川晴元(馬鹿)が筑前殿に謀叛されて京都から追い出されたとき、なんと晴元は宇津氏を頼って宇津を本拠地にしたのだ。


つまり宇津氏、それなりに晴元からも信頼があったということになる。


まあ、この問題は親父を出汁に使えばどうとでもなるか?


三つ目…これはさっきの言葉通りだが、もう少し詳しく説明すると、そもそも丹波の国人たちは不可侵条約とまではいかないが、暗黙の了解でよほどのことがない限り、他の国人を攻めたりはしないのだ。


え?『お前内藤国貞とその尻馬に乗った奴ら攻めただろ』だって?あれはあっちから攻めてきたから多分セーフ…


それで一番タチが悪いのはこの三つの問題が含まれる山国荘奪還が俺にとってほぼ旨味が無いことなんだが…


さて…どうしたもんか…

ご感想等、お待ちしてます…

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