帝の願い
天文16年(1547年) 9月
山城国 愛宕、葛野郡 京都御所
「では、本題に入ろう………孫四郎よ、京を…守ってくれぬか?」
そう言う後奈良天皇の顔には、俺に対する懇願と、これまでの苦労が浮かんでいた。
まず、後奈良天皇についておさらいしよう。
後奈良天皇は大永6年(1526年)に29歳で父帝の死を受け即位するが、幕府からの支援が足りず、即位式をしたのは1535年、幕府ではなく大内氏や朝倉氏からの支援によるものだった。それ故幕府との関係には隙間風が吹いていた。
そんな後奈良天皇だが、慈悲深いことで有名で深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を祈願し自ら写経た『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、(中略)庶幾虖為疾病之妙薬」(今回の病気の大流行で多くの人々が亡くなってしまった。人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。大いに心が痛むことだ。密かに金字で般若心経を写経した。(中略)この写経が人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になって欲しいと切実に願っている。)
と悲痛な心境を漏らしている。
また、天皇が即位したら行う大行事である『大嘗祭』を行えなかったことに対して「大嘗祭を行えなかったのは自分の徳が無いからです」という趣旨で伊勢神宮(天皇家の氏神である天照大御神が祀られている)に謝罪したという記録があったり、当時財政難であった朝廷の収入の足しにするため、宸筆(天皇の直筆)の書を売るなど、責任感の強い天皇でもあった。
さて、話を戻そう。今の後奈良天皇の「京を守って欲しい」という趣旨の発言はおそらく本心だろう。
だが、軽々しく発言して言質を取られるのは嫌なのでとりあえず探りを入れる。
「…主上、無礼を承知で質問したきことが…」
「良い、許す」
「何故拙者なのですか?公方様がおられるのに何故…」
「何、公方より、汝の方が頼りなりそうだからじゃ…それに背後は固めんとな…」
そう言われて俺はあることに気づいた…そうだ、波多野家は京の西側を囲んでいるんだ。さらに俺の本拠地である篠村八幡宮からは四里(約16km)、(暫定)俺の領地である摂津の芥川辺りからでも六里(約24km)そこら…1日でたどり着ける距離にある。
そして我が波多野家の石高は二十万石を超える。兵力は全力を出せば六千人近く動員できる。
自分の本拠地から一日で着く程の距離にいるかなりの兵力を擁している勢力、味方につけられるのなら絶対につけたいだろう。
正直受けたくないが、懇願するような後奈良天皇の顔と、後ろからの公卿からの圧に負けたな…
「…承知しました」
「おおっ!受けてくれるか!」
「ええ、不肖孫四郎、お受けいたします。それで、拙者のお役目は如何に…」
「うむ、まずお主に頼み入りたいことの内の一つに…禁裏領、丹波国山国荘の奪還を頼みたい」
俺は早速頭を抱えたくなった…
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