舎利寺の戦い
天文16年(1547年) 7月
摂津国東成郡 舎利寺周辺
「おお、壮観だな…」
俺たち波多野勢は今、舎利寺から四半里(約1キロ)程離れた所にある岡山(後の御勝山)に陣を張っている。
ここは大阪冬、夏の陣で徳川秀忠が陣を張って勝ったから御勝山って名前になったっていう逸話があるので縁起が良いと思ってここに陣を張ったが、すこし相手と近いな…
で、その丘に登って見えたのは夥しい数の旗。中でも一番数が多いのは三階菱に五つ釘抜、三好家の旗だ。
史実でもこの戦、舎利寺の戦いでは筑前殿は二万の兵を連れてきて圧勝し、その名声が畿内に轟くことになった。今も見た感じ兵力は万を絶対に超えてる。
やっぱり本気具合がどっかのバカとは違う。
あのバカ、俺達に散々勝つように念を押したくせに自分は安全な後方で無理矢理留まらせた舅に自分を守らせていやがる。
やる気があって馬鹿なことしかしない馬鹿は面倒くさいが、それ以上にやる気があるのか疑わしいくせに碌なことをしない馬鹿の方が俺は面倒くさいし嫌いだな。自ら前線に出て味方を鼓舞している細川氏綱を見習ってほしいものだな。
そんなことを考えていると、いきなり大音量の法螺貝の音が聞こえてきた。これは、事前の軍議で決められていた攻撃開始の合図だ。
はぁ…始まったか。俺はこの憂鬱な気持ちを隠しながら、馬に乗り込んだ。
「皆の者!聞こえたか!出陣るぞ!」
『応っ!!』
こうして、舎利寺の戦いが始まったのであった…
「者ども!もう一押しぞ!進めぇ!」
戦い始めてからもう一刻(2時間)はたっただろうか。俺達の隊が戦っているのは畠山政国の隊で、最初は三千はいた筈だが、今は討死と逃亡を含めて奴らの兵は九百人まで兵が減っている。
丹波の民は山中で生まれ育ったからその分体力もあり、また口さがない京の雀共から『丹波の山猿』とまで罵られ、蔑まれ、政争に巻き込まれ続け、反骨心の塊と化している。
当然、他家の軍とは比べ物にならないほど、強い。
その上奴らの主力だった遊佐長教隊は能勢郡にて俺達の隊にボコボコにされて何処かへ逃げていったため、動きもどことなくぎこちなかった。
そうして波多野の兵の勢いに押され、初めは俺たちを小勢と侮っていた敵がどんどん寄って来なくなった。
そして、氏綱がいるであろう本陣への隙間ができたのを俺は見逃さなかった。
「今ぞ者ども!突っ込めぇ!!」
俺は采配を振り上げ、氏綱の本陣を指し示した。兵達はその指し示された方を向き、一斉に突っ込んだ。
その後、細川氏綱は本陣から逃げ出したところを筑前殿に捕らえられ、舎利寺の戦いは終結したのであった。
舎利寺の戦い 被害状況
三好家 兵力 約17000 損耗数 約2000
波多野家 兵力 約800 損耗数 約50
六角家 兵力 約2000 損耗数 約300
細川氏綱家 兵力 約6000 損耗数 約4000
討死 遊佐信教 捕縛 細川氏綱




