66.呼び声
私は、その巨大な“何か”から目を逸らせずにいた。
それは、扉の奥から滲み出たものではない。むしろこの場所──この夢そのものの中心に、最初から横たわっていたものだ。
赤黒く渦巻く空。崩れかけた祭壇。意識の底から押し寄せるような、拒絶と親しみが混ざり合った感情。
──私は、これを知っている。
その確信に、私は震えた。
この光景を、どこかで見たことがある。
いや、正確には“前にもここへ来たことがある”のだ。
「・・・前世の、記憶?」
呟いた瞬間、頭の中に強烈な閃光が走った。
──暗い校舎の屋上。
冷たい風。誰もいない時間。誰にも見られたくない、涙。
「お前なんか、いらない」
「消えてくれたら、どんなに楽か」
「死ねよ、三春」
忘れたはずの言葉が、脳裏に突き刺さる。
私は、ここにいた。
この“夢の奥”にある場所は、かつて私が死を決めた“その瞬間”と、同じ構造をしている。
サラが見ている夢の正体。それは、私の中の“死”と重なっている。
「アリアさん──!」
サラの声が響く。振り向いたその先に、彼女がいた。
けれど、彼女の姿はすでに“サラ”ではなかった。
目の赤がさらに濃くなり、瞳孔が開き、まるで獣のような息づかい。
その背後には、黒く裂けた“穴”が揺らめき、その中から何本もの腕のような影が伸びていた。
「わたし・・・わたし、止められない・・・!アリアさん、逃げて・・・っ!」
「ダメ! サラを置いていけるわけない!」
私は即座に詠唱を始め、術式を展開する。
この空間で精神の奥に干渉するには、ただの火では不十分だ。だからこそ“意志”を込めて、全力で燃やす。
「『赫焉招来・鎖炎』──!」
咆哮のような詠唱とともに、私の掌から赤い鎖のような炎が伸び、サラの暴走する魔力に巻きついた。
しかし、炎は途中で弾かれた。
サラの中にある“それ”が、私の魔法を拒絶している。
──まだ、足りない。
もっと奥に、もっと深く。
彼女の中にある“核”まで、私自身が踏み込まなければ。
私は駆け寄った。呪文など唱えず、ただサラの両肩を掴んだ。
「サラ!私を見て!」
「やめて・・・わたし、もう・・・っ」
「私は、あなたを一人にはしない! だって、私は・・・」
私は言葉を詰まらせた。
──私は、誰なんだ?
アリア?転生者?
それとも、いじめられて飛び降りた鈴木三春?
いや、それだけじゃない。
私は今、この世界で生きている。サラと、友達と、選んで、ここにいる。
「私は、アリア・ベルナード!この炎で、あなたの孤独を燃やし尽くす!」
心臓が脈打つ。魂が叫ぶ。
炎が、私の背後から燃え上がった。
赤ではない、金色に近い炎。炎属性魔法の上位──魂に直接作用する『霊炎』だ。
私はその炎をそのまま、サラへと放つのではなく、抱き締めるように広げた。
「あなたの中の“もう一人”も、抱きしめる。だから・・・帰ってきて、サラ!」
次の瞬間──サラの口から、黒い霧のようなものが吐き出された。
それは悲鳴を上げながら空へと消え、彼女の瞳がゆっくりと、元の色に戻っていった。
「アリア、さ・・・ん・・・」
サラが崩れ落ちる。私はその身体を受け止めた。
その背後で、“夢の扉”が、音もなく閉じられていった。
──終わった。
けれど、私は知っている。
サラの中にあった“それ”は、完全には消えていない。ただ、今は眠りについただけだ。
そして。
あの夢の中で見た、赤黒い空と巨大な“何か”──あれは、きっと私の過去と、この世界の深層とが交わった“兆し”。
まだ、何かが起こる。
この世界の奥には、もっと大きな“何か”が潜んでいる。
私はサラの髪を撫でながら、そっと呟いた。
「・・・大丈夫。もう、ひとりじゃないから」
そして私は、薄れていく夢の中で、もう一度目を閉じた。
その夜、私はベッドの上で目を閉じながら、サラの言葉を何度も反芻していた。
『あの場所には、“私じゃない私”がいます』
それはただの悪夢なんかじゃない。サラの中に“何か”が存在し、それが彼女の意識を侵食しようとしている。
理屈じゃない。私の炎が、心の奥で警鐘を鳴らしていた。
精神干渉の領域は、炎属性の私には本来向いていない。けれど、サラの魔力に共鳴し、あの“夢”へ入ったあの夜から、私は知ってしまった。
──彼女を助けるには、もう一度その深淵へ飛び込むしかない。
私はベッドの上で、指先に小さく魔力を灯し、簡単な術式を描いた。意識の深層へ降りるための、即席の精神連結の印。
「・・・行くよ、サラ」
小さく呟いた言葉が、夜の静けさに溶けていった。
次に目を覚ましたとき、私は既に“そこ”にいた。
赤黒く染まる空。霞むようにゆらめく景色。足元はあるようでない。呼吸音が聞こえるが、それが私のものかどうかも曖昧だった。
──この空間、前にも来た。でも、何かが違う。
空間全体が脈動し、揺れていた。まるで、“何か”が目を覚まし、こちらへ近づいているような──そんな不気味な気配。
私は歩く。奥に、誰かの影が見えた。
白いワンピースを着た少女。赤い瞳で、まっすぐにこちらを見つめている。
「・・・サラ?」
その姿は昼間の彼女と似ている。でも、決定的に違っていた。
瞳は真紅に染まり、微笑む唇は仮面のように冷たく、無機質だった。
「来たのね、アリアさん」
声は確かにサラのもの。でも、その奥に、別の“意思”があった。
「あなたはまだ気づいていない。ここが何か、あなたが何者か。そして──私が誰なのかも」
サラの足元に、黒い炎がふわりと燃え上がる。
その炎は熱を持たない。けれど、精神を焦がすような感触だった。私の奥底、魂の傷口をじわじわとなぞるような異質な魔力。
「サラ・・・なの?それとも──」
「私は、サラ。でも、私はもう“サラだけ”ではいられない」
その言葉と共に、空間がひときわ揺れた。
そして、彼女の背後に出現したのは──巨大な扉。
前に夢の中で見た、あの扉。金属とも石ともつかぬ材質。魔法紋が中心に刻まれ、そこが脈動するように光を放っている。
「これは、私が閉ざしてきた“記憶”の扉。・・・でも、本当は、私だけのものじゃない」
サラが静かに手を伸ばす。私は駆け出す。
「サラ、待って!それを開けたら、もう──!」
だが、彼女の指が扉に触れた瞬間、空間が崩れた。
音もなく空気が裂け、景色がぐにゃりと歪む。重力が反転し、色も音も意味を失い、私は“下”へ落ちていった。
遠くで、声がする。
「アリアさん・・・アリアさん・・・わたし、こわい。たすけて──」
その声を頼りに、私は意識を手繰り寄せた。
目を開くと、そこは知らない場所だった。
朽ちた石の祭壇、崩れかけた柱。地の果てには禍々しくうごめく何か。そして空は、より深く、赤黒く染まっていた。
私は、確信する。
──これは、ただの夢じゃない。
この空間、この扉の奥には、“この世界”に忘れられた何かが封じられている。
サラはそれに“選ばれた”のではない──“呼ばれてしまった”のだ。
私の中で、過去の記憶が疼いた。
転生前、三春という名前で生きていた少女の“心の傷”が、この空間と奇妙に共鳴している。
──私とサラは、別の形で、同じ“闇”を知っている。
だから、助ける。
絶対に、彼女をこんな場所に置き去りにしない。
私は拳を握りしめ、あの黒炎の祭壇へと、一歩、踏み出した──。




