57.眠れる予兆
授業中も、私は落ち着かなかった。
教室の窓の外には、凍てつく風に揺れる白樺の枝が見える。
冬らしい穏やかな光景。なのに、それすらどこか異様に感じてしまうのは、私の心が揺れているせいなのだろう。
「・・・ベルナードさん?」
気づけば、教師に名前を呼ばれていた。
私はびくりと肩を跳ねさせ、席を立つ。
「え、あ、はい・・・すみません、なんでしたっけ?」
クラスが少しざわついた。私のような優等生が、授業中に上の空というのは珍しい。
教師は驚いた顔をしつつも、咎めることはなかった。ただ、こう言った。
「心身の乱れは、魔法の乱れに直結します。あなたはとくに魔力が高い・・・念のため、保健室で休んできなさい」
「・・・はい」
私はノートを閉じ、教室をあとにした。
ふと、教室の最後列に座るジオルと目が合った。けど彼は、何の表情も浮かべなかった。まるで、そこに魂がないような虚ろな瞳だった。
(あの夢・・・)
私は夢の中で、彼の姿を見た気がしていた。
血に濡れた彼の手、割れた仮面、燃え上がる赤い空・・・断片的な映像が、脳裏に焼き付いて離れない。
(あいつ、何か関係あるの・・?それとも、私の不安が勝手に結びつけてるだけ?)
迷いを振り切るように、私は足を速めた。
保健室は静かだった。診療術師のエリナ先生は、私の顔を見るなり柔らかく微笑んだ。
「最近、よく来るわね」
「ごめんなさい・・・ちょっと、眠りが浅くて」
「冬は精神が内向きになる季節。魔女には特に影響が出やすいの。・・・少し眠っていきなさい。薬も用意するわ」
ベッドに横になると、白い天井が視界に広がった。
暖かな毛布と、ほのかに甘い香りのする空気。
・・・なのに、まったく落ち着けなかった。
心の奥が、ざらざらと砂利で削られるように痛む。
ふと、別のベッドからかすかな息遣いが聞こえた。カーテンの向こう、誰かが横になっている。
(・・・他にも誰か休んでるんだ)
普段はあまり見かけない。今の時間に、ここを使う生徒なんて滅多にいないはずなのに。
耳を澄ますと、すすり泣くような声が混ざっていた。
「お願い・・・やめて・・・」
その声に、胸が凍った。
(サラ・・・?)
それは、同じくルージュの二年生の生徒──サラ・ヴェルレインの声だった。
彼女は私と同じく魔力制御に長けた炎の魔女で、以前は何度か授業でも一緒になったことがある。
明るくて、努力家で、誰とでも分け隔てなく接する子。
なのに今、彼女の声は泣きながら懇願するような震え方をしていた。
「やめて・・・あれは、見てはいけない。あの扉は、開けては──」
そこまで聞いたとき、急に空気が変わった。
まるで、ベッドの下から冷気が吹き上がってくるような感覚。
(・・・魔力の反応?)
私は起き上がり、そっとカーテンを引こうと手を伸ばした。けれど、その瞬間──。
「だめ!」
突然、サラが叫んだ。
まるでこちらを見透かしたようなタイミングで、彼女の手がカーテン越しに飛び出してきた。
「近づいちゃだめ!・・・あなたも見えるのね!」
「見えるって、なにが・・・?」
返事はなかった。
それどころか、彼女の魔力が突然、暴走したように爆ぜた。
赤熱の炎が、カーテン越しに白く閃いた──。
目を覚ましたとき、私は床に倒れていた。
視界の端に、焼け焦げたカーテンが見えた。
けれど、サラの姿はなかった。
診療術師の先生も、どこかへ消えていた。
まるで誰も存在しなかったかのように、部屋は静まり返っていた。
・・・ただ一つ、異様だったのは。
床に、血で書かれたような赤い魔法陣が残されていたこと。
それは、私が夢で見た扉と同じ形をしていた。
何気ない一日の終わりのことだった。
夕暮れの学院の、薄暗くなった廊下を歩いていたとき、ふと前方でうずくまる影が目に入った。
「・・・サラ?」
思わず駆け寄る。膝を抱えて座り込んでいる少女。赤色の髪が震えている。
「どうしたの、大丈夫?」
声をかけると、サラはゆっくり顔を上げた。
私と同じ、赤色の瞳がぼんやりと宙を見ている。まるで、現実に焦点が合っていないかのようだった。
「燃えてる・・・全部、燃えて・・・」
かすれた声だった。
唇がわずかに動き、意味のない言葉をつぶやく──夢の中にいるかのように。
「サラ、どうしたの・・・!気をしっかり持って・・・!」
私は彼女の肩に手を置き、揺さぶった。
次の瞬間、サラの身体からぞっとするような熱気が立ちのぼった。
それはある種の炎属性魔法の前兆だった。ぇも、魔力の質が異常だった。
ただ温度が高いだけではない。混乱と恐怖、それに──狂気のような何かが混ざっている。
「もしかして・・・暴走?」
とっさに防御障壁を展開すると、サラの周囲に火の幻影が渦巻き始めた。
床が焦げ、空気が焼ける。彼女の意識は半ば眠ったままで、魔力だけが自動的に漏れ出している状態だった。
それを止めたのは、教員だった。
警備担当のメレヴィナさんが駆けつけ、結界でサラを封じた。やがてサラは崩れるように眠り、保健塔に運ばれていった。
私の中に、確かな違和感だけが残った。
サラの魔力に宿っていた“熱”は、普通の火ではなかった。・・・あれは、何か別のもの。もっと根源的で、もっと危うい──たとえば、“扉”のような。
「つまり、サラが夢の中で異常な魔力を呼び起こしている、ってことか」
図書棟の自習スペースで、ライドが腕を組んだ。
「ただの精神的な不調・・・じゃなさそうね」
シルフィンが低くつぶやく。彼女もまた、炎属性の魔法使いである。
先ほど、サラの暴走を間近で見た私の記憶を魔法で見せたのだが、それで何か感じるものがあったらしい。
私たちは、四人だけで調査を始めることにした。
サラに直接聞いても、「何も覚えていない」と首を振るだけだった。だが、彼女の目は怯えていた。
──自分の内側に、見知らぬ誰かがいるかのように。
私は、図書室の地下文献庫にも足を運び、古い魔法理論、封印術、精神干渉系魔法など、様々なことに関する文書を読み漁った。
そこには断片的ながらも、奇妙な記述があった。
《扉を夢に見た者、いずれ自我を喰われ、世界に裂け目を開く》
どうも、扉という語が引っかかる。
転生した後、つまりアリア・ベルナードとしての記憶では見覚えがないが、三春だった前世で、どこかでそんな言葉に触れたような・・・。
まるで何かが、自分の記憶を巻き戻そうとしている感覚だった。
調査を続けるうちに、季節は進んだ。
学院では定期試験が迫り、学生たちはそれぞれの課題に忙殺されていた。
サラの魔力暴走事件は一部の関係者だけの記録として処理され、表向きには何事もなかったように日常が続いていた。
だが、私たちはあきらめなかった。
仲間とともに調査を続け、少しずつ、“扉”と呼ばれる存在の輪郭が見えてきた。
「サラは、もしかすると“呼ばれた”のかもしれない」
マシュルがそう言ったのは、春の気配が漂い始めた頃だった。彼は水属性の観察魔法を応用し、サラの魔力波形を分析していた。
「扉ってのが何かはまだわからない。けど・・・古代の封印術と、精神干渉型の炎魔法、それらが混じり合った形跡がある」
「呼ばれたって・・・何のために?」
「たぶん──開けさせるために、だよ」
そうだとすれば、サラはただの被害者なのか?それとも・・・。
時折、彼女の夢の中に“誰か”が現れるという。その存在がサラを導いているのか、壊そうとしているのか、まだわからない。
そうして、嵐の前の静けさのような日々が過ぎていった。
三カ月後。
春の訪れとともに、ゼスメリアでは進級式が行われた。
私たちは三年生になった。
六年制であるこの学校において、半分の節目にあたる年が始まる。
学院の雰囲気は華やかだったが、私はどうしても心からは浮かれられなかった。
サラの瞳に残る影。
それは、日を追うごとに濃くなっている気がする。
“あの扉が開いたとき、世界に何が起きるのか”。
それはまだ、誰にも分からなかった。




