178.灼炎と白雪の間
朝の光が、雪を照らしていた。
空は晴れ、前夜の黒い塵が嘘だったかのように、世界は静けさを取り戻していた。
けれど、私の胸の奥では、まだ熱が燻っている。
キッチンからは、いつものようにパンの香りが漂ってくる。
私はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
母は黙って鍋をかき混ぜている。炎は穏やかに揺れ、その音が妙に心地よかった。
「・・・眠れた?」
母が、背を向けたまま言った。
私は頷く。
「・・・うん、少しだけ。でも、ずっと“アンフェール”のこと、考えてた」
「そう。なら、見せた甲斐があったわ」
母は鍋の火を止め、スープを器に注ぎながら続ける。
「“極意”はね。力でねじ伏せる魔法じゃないの。信念が魔力に形を与えた、最も純粋な答えよ」
「信念・・・」
「そう。“こうありたい”という強い想いがなければ、極意は目覚めない。だから、アリア──昨日のあなたの魔法も、十分立派だったわ」
私は、スープを一口すする。
少し熱くて、でもどこか沁みる味だった。
「・・・私、まだ怖い。昨日も、自分の魔法が効かなかったとき、一瞬すごく怖かった」
「当然よ」
母はにこりと笑った。
「怖くない者なんていないわ。私だって、あれを初めて使ったときは、震えが止まらなかった。世界を焼くって、そういうことよ」
「・・・でも」
私はスプーンを置き、そっと言った。
「それでも、私は“答え”を見つけたい。母さんのように。自分の力で、誰かを守れるようになりたい」
母はしばらく何も言わなかった。けれど次の瞬間、私の頭をぽんと優しく撫でた。
「その言葉が、いちばん大切。・・・アリア、あなたはもう、十分強いわ」
「母さん・・・」
胸が、じんと熱くなる。
「でもね」
母は一つ、息をついてから私の目を見つめる。
「これから先、もっと強大な“闇”に出会うわ。昨夜のようなものは、ほんの序章。あなたが“鍵”である限り、邪なる者たちは何度でも手を伸ばしてくる」
その声は、決して脅しではなかった。
ただ、母の知る“現実”を、まっすぐに伝えてくれているだけ。
「わかってる。・・・でも、負けない。サラも、ノエルも、母さんもいてくれるから。私は──私の答えを、見つけるために旅に出る」
私はもう一度、しっかりと頷いた。
母の瞳がわずかに細められ、優しく、けれど力強い声が返ってくる。
「その覚悟があれば、どこへ行っても大丈夫。たとえどんな絶望に触れても、必ず戻ってこられるわ」
窓の外では、光が雪を照らしていた。
まだ、あと四カ月あるが──白く輝く世界の中に、旅の始まりが、確かに見えた気がした。
雪は、まだ降り続いていた。
けれど、それはもう不穏な闇ではなく、冬本来の柔らかな雪だった。
白い吐息を繋ぎながら、私はゼスメリアへと足を運ぶ。
学院の門をくぐると、すぐに明るい声が聞こえてきた。
「アリアさん!」
振り返ると、サラが手袋をはめた手をぶんぶん振って駆け寄ってくる。
制服の裾がふわりと舞い、頬は寒さで赤く染まっていた。
「おはよう、サラ。・・・早いね」
「今日は・・・ちょっとだけ眠れなかったんです。・・・変な夢を見たから」
そう言いながらも、サラの瞳は落ち着いている。昨夜の“何か”を、どこかで感じ取っていたのかもしれない。
けれど彼女は、それを言葉にしなかった。ただ、隣を歩くことで安心をくれる。そういう優しさを、彼女は持っている。
そこへ、ノエルが小走りで近づいてきた。
「やっと来た!二人とも、いつも早いんだから・・・! 寒くて、耳が取れるかと思ったわよ」
「そんなに大げさな・・・」
私は笑いながら言うと、ノエルはぷいとそっぽを向いてからすぐ笑みをこぼす。
「ま、でもよかった。今朝は顔を見て、ちょっと安心したっていうかさ」
言葉の裏に、きっと彼女なりの“何か”を感じていたんだと思った。
言葉にはしなくても、皆どこかで、昨夜の気配に気づいている。
学院のホールに着くと、シルフィンとティナが肩を並べていた。
二人ともいつものように静かに、けれどしっかりとこちらに気づく。
「おはよう、アリア。寒くなったね」
「おはよう。・・・って、ノエル、また手袋忘れてきたでしょ」
「うっ、なんでバレた!?」
ティナに指摘され、ノエルがそそくさとコートに手を引っ込めた。
「まったく・・・そんなんじゃ、旅に出たら凍え死ぬわよ?いくらアリアとサラがいるとは言え」
呆れたように言うティナの隣で、シルフィンが小さく笑う。
「でも・・・こうやって集まって話してる時間も、もうそう長くはないんだなって思うと、ちょっと寂しいね」
「・・・うん」
誰もが、それを感じている。
卒業、そしてその先に待つそれぞれの道。
私たちは、その分岐点に立っている。
そんな空気を破るように、明るい声が響いた。
「やあ、お嬢様方!今朝も見事に凍ってるな、校舎の裏の池!」
ライドが大股で歩いてくる。その後ろには、眠そうな顔のマシュル。
「・・・なんで池の話なんだよ、朝から」
「いや~、なんとなく。凍ってる水面ってテンション上がらない? 割りたくなるというか──って、マシュル!寝てたな!」
「・・・寝てたさ。朝が嫌いなだけだ」
いつも通りのふたりのやり取りに、皆が自然と笑った。
──ああ、こういう時間・・・やっぱり好きだ。
不安も、恐怖もあるけど。
でも私は、確かに守りたいと思ってる。
この人たちと過ごす日々を。このぬくもりを。
いつか終わるものだとしても、今はこの瞬間に、胸を張っていたい。
「アリア、どうしたんだ?しんみりして」
ライドが肩を軽く叩く。
「いや・・・なんでもない。ただ・・・ううん、“今”をちゃんと覚えておきたいだけ」
「ふーん。でもまあ、忘れたくないってのはわかるよ」
彼の笑顔に、私は小さく頷いた。
──鐘の音が鳴る。今日も、授業が始まる。
だけど、それは終わりではない。
この日常の続きに、私たちの“冒険”があるのだから。




