172.過去と未来、母と娘
数日後の放課後、私はティナとノエルを中庭に呼び出した。
薄曇りの空の下、木々の隙間から漏れる柔らかな光が、地面に淡い模様を描いている。
「話って、何?」
ティナが首を傾げる。
ノエルは黙って隣に立ち、私の顔を見つめていた。
私は息を整えて、ゆっくりと切り出した。
「・・・卒業したら、旅に出るつもりなんだ。“封印”の痕跡を探して。八つの封印と、“主”と呼ばれる存在を・・・邪神を追うために」
ティナの瞳が、少し揺れた。
「・・・やっぱり、行くんだね」
「うん。シルフィンたちには断られた。みんな、自分の道を見つけたから。でも私は──私自身の“答え”を探しに行くって決めたの」
ノエルが、何も言わずに一歩、こちらへと近づいた。
「・・・私も、行く」
迷いのない声だった。
「ノエル・・・」
「違う。私はかつて、“伊原美紗”として、あなたを・・・鈴木三春をいじめてきた。それは一生許されないことだって、分かってる。でも、だからこそ・・・」
ノエルは小さく拳を握りしめる。
「だからこそ、今の“ノエル”として・・・アリアのためにできることがあるなら、なんだってやる。苦しくても、怖くても、罪を償えるものなら、全部受け入れる。あなたが必要って言うなら、迷わずついていく」
私はその言葉を、ただまっすぐに受け止めた。
確かに、前世で私はノエル・・・いや、美紗に苦しめられていた。けれど今の彼女は、かつての美紗ではない。
痛みを知り、苦しみを知り、向き合おうとしている。
それは、誰にでもできることじゃない。
「・・・ありがとう、ノエル。正直・・・驚いたけど、すごく嬉しい」
「こっちこそ、言ってくれてありがとう」
ノエルの声には、微かな震えが混じっていた。
少し遅れて、ティナが静かに口を開いた。
「・・・私は、行けないよ。ごめんね」
「ううん。分かってたよ、なんとなく」
ティナは転生者ではない。けれど、その光の魔法で、幾度となく私たちを守ってくれた。
彼女にだって、大切にしたいものがある。自分の場所がある。
「・・・私は、進学して、光の魔法を極めたい。誰かの盾になるような、誰かの希望になるような、そんな魔法をもっと身につけたいと思ってるの」
「ティナらしいね。優しくて、強い」
「そんなことないよ。むしろ、怖いくらい。でも、アリアがどんな道を選んでも、私は・・・信じてる。きっと、帰ってくるって。笑って、また会えるって」
私は頷いた。
「・・・私、たぶん、怖いんだと思う。あなたたちが向かう場所が、どんなに遠くて、危険なのか、分かってるから。でも・・・それでも、あなたが選んだ道を信じたい。だって、アリアだから」
「ええ。必ず、帰ってくる。だからそのときは・・・また、ここで話そう。光の魔法の話も、未来の話も」
「うん。約束だよ」
ティナは微笑み、そっと私の手を握ってきた。
そして、ノエルと私の間にも静かな視線が交わされる。
過去を赦すわけではない。けれど、共に歩むという選択は、もう始まっていた。
──こうして、旅立ちの仲間がまたひとり、決まった。
静かに、確かに、運命の歯車が回っていく。
それは過去を越え、未来へ向かう小さな決意の連なり。
封印の在処も、“主”・・・邪神ガラネルの復活の真相も、まだ何一つ分かってはいない。
けれど、私は進む。選んだから──“自分の道”を。
木漏れ日の下、私たちはしばらく言葉少なに、風の音を聞いていた。
この日交わした沈黙は、きっといつまでも胸の奥に残る、静かな誓いだった。
その夜の帰宅後、私は食卓を囲む母と向き合っていた。
夕食は温かいスープと香ばしいパン。
母の料理は、いつも変わらず優しい味がした。けれど今夜の私は、その味をほとんど覚えていない。
スプーンを置き、私は深く息を吸い込む。
「・・・母さん、話があるの」
母・・・セリエナは、ゆったりとした動作で手を止め、私の瞳を見つめた。
「・・・顔を見れば、分かるわ。ずっと考えてたのね」
私は頷いた。母の目は、全てを見通しているようだった。
「──卒業したら、旅に出ようと思ってる。“主”の封印を探して。八つの“封印”の痕跡を辿って、邪神ガラネルの復活を止めるために」
言葉にすることで、その決意が胸の奥で音を立てて定まっていく気がした。
「私が“扉”なら・・・きっと、その先に進まなきゃいけないんだと思う。誰かがやらなきゃいけないのなら──私は、それを選びたい」
セリエナは一度まぶたを閉じ、静かに椅子にもたれかかるように背をあずけた。
「・・・そう」
その声は穏やかで、けれど深い水底のように重たかった。
私は続ける。
「サラは、ついてきてくれるって言ってくれた。ノエルも。・・・それで、母さんにも、来てほしい」
言ってから、自分の中に震えがあることに気づく。
私はずっと、母が“炎の大魔女セリエナ”であることを意識してきた。けれど、それ以上に──一人の母親として、いつも私を支え続けてくれた人。
その人を、危険な旅へ誘うということが、私の中でどうしようもなく怖かった。
でも、それでも言いたかった。
私は、母と一緒に未来を見たいのだ。
長い沈黙の後、セリエナは静かに笑った。
「・・・私に、“母”として答えてほしい?それとも、“大魔女”として?」
私は戸惑いながらも、正直に言った。
「どちらでもない。母さん・・・あなた自身の“意志”で決めてほしい」
セリエナは瞳を細め、ふっと息を吐く。
「ずるいわね。あなた、もうすっかり一人前の魔女だわ」
立ち上がった母は、窓際に歩み寄る。
夜空に浮かぶ月を見つめ、独りごとのように言った。
「邪神の気配は、私にも届いている。かつて私たちが施した封印は、確実に軋み始めている。もはや、誰かが立ち向かわなければならない時期なのよ」
私は、言葉を待った。
「──アリア。あなたが行くというのなら、私も行くわ。だってあなたは、私の“娘”だから」
振り返ったセリエナの目は、静かに炎を宿していた。
「・・・ただし、“守るため”ではない。“共に戦う”ために。私も選ぶわ。魔女として、この時代に生きる者として。あなたと共に、封印の謎に挑む」
私は、まぶたが熱くなるのを感じた。
「・・・ありがとう、母さん」
セリエナは微笑み、私の額に手を伸ばす。
「なにを言ってるの。感謝すべきは、私のほうよ。こんなにも強く、まっすぐに“運命に向かおうとする娘”を育てられたのだから」
母はほっと一息つき、改めて言い放つ。
「・・・私も、あなたと共に戦うわ、アリア」
その声は、かつて邪神を焼き尽くし、封印した大魔女の威厳と、たった一人の娘を信じる母のぬくもりを、どちらも宿していた。
母の手が触れたとき、幼い頃から何度も感じてきた温もりが、今までとは少しだけ違って感じられた。
──これは、“仲間”の手だ。
共に歩む者としての、私の母の手だ。
夜空には、星々が瞬いていた。
その光の奥に、“封印”へ続く道があるように思えた。
旅立ちの日は、もうそう遠くない。
私はそれを、恐れることなく迎えられる気がしていた。
──私はもう、ひとりじゃない。
家族と、仲間と、贖罪を背負う者たちと。
それぞれの想いが、やがてひとつの炎になる。
そしてその炎こそが、“扉”を開く鍵になる。




