169.闇を裂く焔
記録庫の空気が震えた。
異形の魔物──骸骨のように痩せこけたその影が、こちらへと歩を進めてくる。
瞳孔のない目の奥に、暗い炎のような魔力が灯っていた。
「サラ・ヴェルレイン・・・我らが主の封印を崩す“鍵”よ。戻りなさい、かつての闇へ」
「・・・嫌です。私はもう、昔の私じゃない・・・!」
サラの声は震えていたけれど、確かな意志を含んでいた。
「ならば、力をもって示しなさい。お前にその資格があるかどうか、今ここで、試してやりましょう──」
魔物が腕を広げた。
黒い魔力が、霧のように記録庫中に広がる。
冷たい風が吹き抜け、魔導灯の灯が一つ、また一つと消えていく。
その中心に立つ魔物が、低く呪文を唱えた。
「・・・『ノクス・ディレアータ』」
闇の柱が立ち上がった。重く、ねばつくような魔力が空間をねじ曲げ、あたりを飲み込んでいく。
「っ、来るよ!」
私は即座に手をかざし、魔力を練る。
「『カルド・インフェルナ』!」
燃え上がる炎の柱が、黒の柱にぶつかり、激しく炸裂した。
けれど、完全には相殺できない。残った闇が空中を這い、サラへと向かう。
「・・・!」
サラもまた、両手を前に突き出した。
「『フレア・エミッサ』!」
サラの掌から放たれた炎の矢が、闇の触手を貫いた。
炎が軌跡を描き、記録庫の壁を赤く染める。
「──お前たちは、何も分かっていないわ。鍵が自らを律することなど、できはしない!その魂は穢れ、いずれ封印を裏切る!」
「違う・・・私は、選ぶ!」
サラが叫んだ瞬間、魔物の背後から闇の刃が出現し、こちらへと飛来してくる。
「・・・アリアさん!」
「任せて!」
私は左手を翳し、次の呪文を紡ぐ。
「『イグニス・ヴェイル』!」
炎の障壁が展開され、闇の刃を包み込む。
刃は焼かれ、空中で掻き消えた。
その隙に、私は跳び込む。
接近戦は得意じゃないけど、この距離なら──
「サラ、援護を!」
「はい!」
二人の魔力が同時に放たれる。
「『フレイム・ランサー』!」
「『カルド・インフェルナ』!」
炎の槍と火球が交差し、魔物の胸部に直撃する。
その瞬間、魔物の体が裂け、内側から黒い蒸気が噴き出した。
「ぐぉぉぉぉ・・・!・・・我が主は、目覚める・・・鍵も、扉も、いずれ・・・!」
呻き声と共に、魔物はゆっくりと崩れ落ちた。
静寂が戻る。
記録庫の空気が、少しだけ軽くなった。
「・・・終わった、の?」
サラが問いかける。私は頷いた。
「うん。たぶん・・・でも、これで全部じゃない。まだ、続きがある。きっと、もっと深くまで」
私たちはしばらくその場に立ち尽くした。
焦げた床、揺れる灯り、そして消えた魔物の残滓。
サラが“鍵”であること。
私が、“扉”を選ぶ存在であること。
この戦いは、きっと始まりにすぎない。
「・・・行こう。また、探そう。今度は、“鍵”の記憶じゃなくて、私たち自身の未来のために」
「はい・・・アリアさん」
その手を、私はもう一度、強く握り返した。
記録庫の重たい扉を閉じ、私たちは再び静まり返った廊下へと戻った。
──地上へ戻る。あのときとは違う。
私たちは、何かを見つけた。
戦い、恐れ、そしてそれでも進むと決めた。
階段を上がるごとに、空気が少しずつ温かくなるのを感じた。
やがて見えてきた学院の中庭の光景に、私は小さく息をのむ。
「・・・終わってる」
サラが呟いた。
学院の敷地は荒れていた。
地面には黒い焦げ跡が残り、ところどころに魔法の焼き痕が刻まれている。
倒壊した校舎の一角では、教師たちが魔法の障壁で修復作業をしていた。
けれど、空は青く、風は穏やかに吹いていた。
すべてが終わった直後の、静かな午後だった。
「サラ!アリア!」
声がして、私たちは振り返る。
駆け寄ってきたのは、ソリス先生だった。
変わらぬ厳しさをたたえた表情で、それでも少しだけ、安堵の色を浮かべていた。
「ご無事で・・・何よりです」
「・・・学院長先生。戦いは、終わったんですか?」
「ええ。残っていた魔物たちは、教員たちですべて退けました。あなたたちが、記録庫で何と遭遇していたかは・・・こちらでも一部察知していました」
「・・・ごめんなさい。勝手に動いたこと、叱られると思ってました」
私の言葉に、ソリス先生はわずかに目を伏せ、そして静かに言った。
「確かに、あなたたちの行動は勝手なものです。けれど──あなたたちは、自らの意志で“知る”ことを選んだ。そして、乗り越えた。・・・それは、ただ守られる生徒にはできないことです」
サラが、そっと口を開いた。
「先生・・・“鍵”のこと、知っていたんですね?」
「ええ。あなたがそれを知るときが、必ず来ることも分かっていました」
先生は歩み寄り、サラの頭に手を置いた。
「あなたの中にある力は、確かに恐ろしいものです。けれど、それ以上に大切なのは──あなたがそれを、どう使うか。過去がどうあれ、今のあなたはこの学院の生徒。一人の、魔女です。守られるだけでなく、誰かを守ろうとした。それを、私は誇りに思います」
サラの目に、涙が浮かんだ。
「・・・ありがとうございます」
「それと、アリア・ベルナード」
私も思わず、背筋を伸ばした。
「あなたは、“選ぶ者”としての立場に、徐々に近づきつつある。・・・いずれ、“鍵”たちと“扉”を巡る、本当の決断の時が来るでしょう」
「・・・はい。分かってます。でも、私は──この手を、離しません」
私はサラの手を握ったまま、はっきりとそう言った。
「私たちは、一緒に進みます。誰かに決められた未来じゃなくて、自分たちで選んだ未来へ」
ソリス先生は、その言葉に小さく頷いた。
「・・・その意志を、どうか忘れないでください。それが、すべてを決める鍵となるのです」
その日、学院の空はいつになく高く、澄んでいた。
魔物の襲撃は去り、瓦礫の中から、誰もが新たな朝を迎えようとしていた。
けれど、私たちは知っている。
本当の戦いは、まだ始まってもいない。
“鍵”と“扉”──そして、その向こうに眠るものの正体が何であるかを。
でも、今はそれでもいい。
私たちは確かに、自分の意志で立ったのだから。




