162.静穏の崩れ
その朝、風が妙に重かった。
空は晴れているのに、どこか色を失ったような空気が、学院の校舎を淡く包み込んでいた。鳥の声も、普段より少ない気がした。
「・・・この感じ、なんか嫌な気配」
シルフィンは教室の窓辺で、腕を組んだまま外を見ていた。 赤い瞳が、遠くの森をじっと見据えている。
「どうかしたの?」
私が声をかけると、彼女は小さく首をかしげた。
「ううん、まだ言葉にはできない。でも・・・空気の層が、いつもと違うの。魔力が、どこか淀んでる」
それはきっと、炎の魔法使いとしての直感。
私には感じ取れないが、とにかくそれを彼女ははっきりと察していた。
「・・・気のせいだといいんだけど」
私はそう言いながらも、胸の奥に小さな不安が灯るのを感じていた。
その日の午後──
図書室の奥でひとり資料を読んでいたサラが、ふいに手を止めた。
ぱさり、とページがめくれ、彼女の指が震える。
「・・・また」
誰に向けたわけでもない、独り言だった。 サラの瞳は虚空を見つめている。遠くを、未来を、まだ来ぬ“景色”を──。
「赤い月・・・人が、倒れてる……アリアさん・・・?」
その映像は曖昧で、意味を結ばない断片ばかりだった。 けれど、確かに“何かが近づいている”という確信だけが、胸に残った。
「・・・先生に、言わないと」
小さく息を吐いて、サラは立ち上がる。だが、どこか足取りは重く、迷いがあった。
(でも・・・こんな夢の話、“子どもの幻想”だって思われるだけかも)
彼女は知らなかった。既に、それは“幻想”ではなくなりつつあるということを。
その翌日、異変は表面化する。
「クラリッサ先生が・・・?」
「今朝から姿が見えないらしい。授業も、休みになったって」
「無断欠席・・・?そんなこと、先生がするわけないじゃない」
生徒たちの間でささやかれ始めた噂は、すぐに広まった。 けれど教員たちは、浮き足立つ生徒たちを落ち着かせるばかりで、本格的な対応は取られなかった。
「まさか、この学院に敵なんて来るわけがないだろう」
そう言ったのは、ある古参の教員だった。 彼の言葉には根拠があった。ゼスメリアは強力な結界魔法に守られており、“外敵”の侵入はあり得ないとされていた。
──だが、それはもう幾分前に破られた“常識”に過ぎなかった。
夜、学院の周囲にある聖堂区画。
そのさらに外縁、古の森の奥にて。
「ようやく来たか、クラリッサ」
黒い外套をまとった人影が、月明かりの下に佇んでいた。 その口元は笑っているようで、しかし瞳は深淵のごとく冷たかった。
「・・・好きでおまえに会いに来たわけじゃない。用件があるなら、さっさと言って」
クラリッサは静かに、しかし警戒を隠さずに杖を握っていた。
「わかっておろう?あの・・・セリエナの娘のことだ。君には、あの小娘の始末を任せていたはずだ」
「ええ。でもね・・・そう簡単には行かないのよ。何しろ、セリエナの子だからね」
「ああ・・・そういえば、セリエナは君の、かつての盟友だったな」
その言葉に、クラリッサの眉がわずかに動く。
「私とあいつは、大した関係はない。もちろん、あんたたちともだ。私はもう、あの輪には戻らないと決めた」
「それでも、君は来たじゃないか。“予兆”を感じて。・・・君の中にも、まだ残っているのだろう。かつて、仲間を救えなかった後悔が」
「っ・・・!黙りなさい・・・!」
怒気と共に、クラリッサの足元に黒い焔が立ち上る。 しかし、彼はまるで子どもをあやすように、緩やかに首を振った。
「我々の主は、もう目覚めかけている。この学院は、近く崩れるだろう。その時までに、小娘を始末しろ。──クラリッサ。君の覚悟、見せてもらう」
そのまま、彼は霧のように姿を消した。
残されたクラリッサは、目を伏せて唇をかむ。
──何かが、動き出している。
かつての“封印”。八大魔女の“戦い”。
そして、今を生きる者たちの手に託された“未来”。
空には、いつの間にかふわりと黒い雲がかかっていた。




