160.信じたい、ただそれだけ
数日が過ぎた。
あれからクラリッサとは顔を合わせていない。授業はいつも通りだったけれど、目が合うことも、会話もなかった。
でも、私は焦っていなかった。
少しずつ、彼女の中に沈んでいた“赤”が、あの日の風で揺れたのなら──それで、十分だ。
放課後、私は図書室で資料を探していた。
ページをめくる指を止めたのは、突然、後ろからかけられた声だった。
「──また、変なことしてんのか?」
低く、どこか引っかかるような声。
振り返ると、そこにジオルが立っていた。
乱れ気味の紫髪、軽薄な笑み。だけど、その目は笑っていなかった。
彼は、私をじろじろと見下ろすようにして言う。
「おまえ、母様に何を言った?」
声に張りがあった。
明らかに、何かを探るつもりだった。
「何のこと?」
「とぼけるな。最近、母様の様子が変だ」
ジオルはテーブルに手をつき、顔を近づけてくる。その距離の取り方がわざとらしいほど近くて、不快だった。
「おまえが母様を焚きつけたんだって、バカでもわかる」
「焚きつけたなんて思ってない。・・・話をしただけよ」
私が静かに答えると、ジオルは鼻で笑った。
「“話”ね。・・・そうやって、おまえの母親も、昔母様から男を奪ったんだ」
ぞっとするような言葉だった。
けれど、私は眉一つ動かさなかった。彼が言う“男”が誰なのか、私はもう知っている。
「・・・母さんが何を選んだかは、本人たちの問題よ」
「違う。“奪った”んだよ。母様はずっと言ってた。セリエナは、“信じるふり”をして、人を裏切るってな」
彼の声が少しずつ熱を帯びていく。
けれど、それは“怒り”ではなく──きっと、“刷り込まれた痛み”だった。
「おまえも、そうなんだろ。“赤い髪と瞳”だし、きっと中身も同じだ」
私は、言葉を返さなかった。
けれど、視線は逸らさなかった。
「・・・それが、あんたの本心なの?」
「・・・なに?」
「母親が言っていたから、ってだけで、あんた自身は何を思ってるの?」
ジオルの表情がわずかに揺らいだ。
私の言葉が予想と違ったのか、それとも、“自分の感情”を問われることが、初めてだったのか。
沈黙が一瞬、流れる。
「・・・関係ない。僕は、母様の味方だ。それだけだ」
ジオルは言い放って、背を向ける。
「でも覚えとけよ。──おまえが母様に触るたび、僕はちゃんと見てるからな」
吐き捨てるようにそう言って、彼は足早に図書室を出ていった。
その背中には怒りもあった。でも、それよりも──どこか、必死なようにも見えた。
私はページを閉じた。
風もないのに、指先が少し震えていた。
(・・・母だけじゃない。息子まで、傷を背負ってる)
誰も悪者じゃない。けれど、誰も癒されていない。
その呪いのような連鎖を、誰かが止めなければならない。
(・・・私がやる。やらなきゃ)
目を伏せて、小さく息を吐く。
この闇の奥にも、確かに“赤”は残っている。
それが私を照らす限り、私は引き返さない。
昼下がりの中庭は、いつもより静かだった。
レンガの縁に腰掛けて、私はシルフィンとパンを半分こしていた。
「・・・アリア、最近難しい顔してる」
ちぎったパンを口に運びながら、シルフィンがちらりと横目で私を見る。
「・・・うん、ちょっとね」
曖昧に笑って返した、その時だった。
石畳の向こうから、聞き慣れた声が不快に響いた。
「おまえら、昼間っからベッタリだな。・・・暑苦しい」
ジオルだった。ポケットに手を突っ込んだまま、飄々とした足取りで近づいてくる。
「また来たの?」
私は呆れ混じりに言ったが、ジオルの視線は私ではなく、シルフィンに注がれていた。
「そうだ、おまえら二人は仲良しなんだったな。もっとツンツンしてるかと思ったけど、意外と“かわいげ”あるんだな、おまえも」
シルフィンの手がぴたりと止まった。
「・・・何それ。どういう意味?」
「褒めてるんだよ。ほら、女の子らしいって意味で──」
ジオルのニヤついた顔が、言い終わるより早く──
「黙れ」
低く、地を這うような声が響いた。
シルフィンの掌に、炎が灯る。
橙色の魔力が風に踊り、その目は怒りで燃えていた。
「おまえ、アリアを侮辱した」
「は?何怒って──」
「もう一度言わせる気? ・・・消えろ、今すぐ」
揺らめく炎が、一瞬だけ形を変える。
ジオルが後ずさるほどの迫力だった。
「シルフィン、やめて!」
私は立ち上がり、思わず叫ぶ。
彼女の力は本物だ。止めなければ、取り返しがつかない。
「・・・でも!」
「私は平気。・・・だからお願い、手を下ろして」
沈黙の末、シルフィンはぐっと奥歯を噛みしめ──指先の炎を、しぶしぶ消した。
「・・・アリアが言うならやめる。でも次は、言い訳できない・・・いや、させないから」
鋭い警告の言葉に、ジオルは鼻を鳴らした。だが、目だけは冷えていた。
「・・・やれやれ。面倒な女ばかりだな、おまえは」
そう吐き捨てた、そのときだった。
「その“女”たちの一人が、おまえの母親だとわかって言ってるの?」
静かで、それでいて鋭い声が響く。
三人が振り向くと、そこに──クラリッサが立っていた。
黒衣のまま、日陰から姿を現す。
その瞳は、ジオルを冷たく射抜いていた。
「母様・・・!」
ジオルの声に、クラリッサは歩を止めることなく続けた。
「何度も言ってるはずよ。学院内では、私もあなたも“ただの個人”──親子であることを言い訳にするなら、出直しなさい」
「・・・僕は別に、そんなつもりじゃ」
ジオルの目が逸れた。
「なら行きなさい。言い訳をする前に、なすべきことがあるでしょう」
「・・・はい」
彼はしぶしぶ、だけど従順にその場を後にした。
母親の言葉を拒絶しきれない、少年の背中だった。
残された私たちに、静かな空気が流れる。
やがて、クラリッサがこちらを向いた。
「・・・なぜ、止めたの?」
「彼を傷つけても、何も変わらないから」
私が言うと、クラリッサは薄く笑った。
「・・・甘いわね。痛みでしか学べない子もいるわ」
「それでも、痛みは──恨みに変わるだけのこともある」
静かに返すと、クラリッサは視線を伏せる。
それは否定ではなかった。
むしろ、肯定すらできずに戸惑う誰かの表情だった。
「・・・どうして、そんな目で見るの。何を私に期待してるの?」
「あなたが、“誰かを信じてもいい”って思えるまで──私は、あきらめない。ただ、それだけよ」
風が揺れる。
クラリッサの黒い髪が、さざ波のように揺れた。
彼女は立ち去らなかった。
ただ、言葉のひとつひとつを、胸の奥で確かめるように受け止めていた。




