159.記憶のしおり
夜の廊下は静かだった。
木の床が小さく軋む音だけが、私の歩みに合わせて響いている。
部屋を出てからも、しばらく私は立ち止まれずにいた。
クラリッサと母さん──二人の間にある、過去の傷。
それは誰のせいでもなく、それでも誰かが痛みを背負ったまま、今も終わらずに残っている。
(じゃあ、私が・・・)
思考ではなく、感情が先に走った。
誰も悪者じゃない。なのに、誰も幸せじゃないなんて、おかしい。
私は、このまま見てるだけなんて嫌だった。
夜の風が窓から吹き込んで、カーテンが静かに揺れる。
私はその音を聞きながら、ポケットにしまっていた小さな栞を取り出した。
例の“記録の本”に挟まっていた、赤いインクの走り書き。
──「信じたかった、ただそれだけだった」
震えるような筆跡だった。けれど、どうしても伝えたかったという想いだけは、真っ直ぐに滲んでいた。
誰かにわかってほしい、でも届かない、そんな叫び。
「・・・クラリッサは、自分で抱えすぎてるんだ」
だから、誰にも触れさせない。母さんにも、他の誰にも。
それがどれだけ孤独か、私にはわかる気がする。
(なら、私が)
彼女の憎しみでも、後悔でもない。
残った“揺らぎ”にだけ目を向けるなら──私だけは、踏み込めるかもしれない。
私は、次の日にやるべきことを静かに思い描いていた。
あの人の沈黙に、私の声を届けるために。
あの人の手に、誰かの温度を思い出させるために。
(私は、二人の間に立つ)
母さんの過去を否定しない。
でも、それだけじゃ救えない人がいるなら、私はその手を、もう一度握る。
小さく息を吐き、私は窓辺のカーテンを閉じた。
夜が深くなる。けれど、明日はきっと来る。
その光を信じて、私は静かに目を閉じた。
翌日の放課後、私は人気のない裏庭へと向かっていた。
この時間、クラリッサはよく一人でそこにいる。生徒たちにとっても“近づきがたい場所”として有名で、誰も寄りつかない。
けれど私は、まっすぐにその足音のほうへと向かっていた。
背の高い木々に囲まれた、苔むした石畳の広場。その一角、壊れた石壁のそばに、やはりクラリッサはいた。
黒いローブの裾が風に揺れ、木陰の中でその髪もまた静かに揺れていた。
「・・・また来たの?」
こちらが声をかける前に、クラリッサがそう言った。
振り向きもせず、手にしていた杖の先で落ち葉を払いながら。
「ええ。話がしたくて」
私は正面に立つ。
けれど、彼女の目は私を見ようとしなかった。
「昨日の生徒のことでなら、済んだ話よ。処分も報告も必要ないし、同情も受けたくない」
「・・・違う。あなたの話がしたいの。先生のじゃなくて、“クラリッサ”の」
わずかに、彼女の眉が動いた。
「あなたが、あの人と“過去”を持っていたこと──そして、今もその傷を隠しきれていないこと」
「・・・また母親に吹き込まれたの?」
低く冷たい声。
けれど、その下に潜んでいるのは苛立ちというより、呆れと疲れだった。
「違う。自分で読んだの。“記録”を。そして、自分で見たの。あなたが、昨日あの子を怒るとき──本当は、迷ってた」
「・・・あの程度の揺らぎで見抜いたつもり?自惚れないで」
クラリッサはようやく顔を上げた。
その瞳が私を射抜くように見つめる。だが、私は逸らさない。
「自惚れじゃない。あれは、“誰か”に似てた。あの記録にいた“赤い髪の少女”に」
その言葉に、クラリッサの視線が一瞬だけ泳いだ。
でもすぐに睨みつけるように戻ってくる。
「それで何?あんたに何ができるの?」
──その声に、私は一瞬だけ言葉を失った。
けれど、胸に浮かんでいた思いを押し出すように、言った。
「・・・何もできないかもしれない。でも、私はあなたを“先生”だとは思ってない」
「ふん・・・知ってるわ。あなたの態度で、ね」
「でも、あなたが“ジオルの母親”ってだけで嫌いになるほど、私は子どもじゃない。ジオルは・・・たしかに好きになれない。でも、それとこれとは別」
クラリッサの瞳が、すっと細くなった。
「・・・なら、何?」
「“ジオルの母親”としてじゃなくて、“赤い髪の少女”として、私はあなたに向き合ってる。・・・その先で、何か変えられるかもしれないって思ってるから」
クラリッサは、ふっと目を逸らした。
その視線の先には何もない。ただ、風に揺れる草木があるだけ。
沈黙が落ちる。
私も、それ以上言葉を重ねなかった。
しばらくして、クラリッサがぽつりと漏らした。
「・・・その“赤い髪の少女”は、もう死んだのよ」
私は静かに首を振った。
「違う。隠してるだけ。黒く染めても、髪の奥に赤は残ってる。・・・あなただけが、それを忘れようとしてる」
クラリッサは何も言わなかった。
でも、彼女の手が、指先が、ほんのわずかに震えていた。
私はそれだけを確かに見届けて、背を向けた。
「・・・今日はそれだけ。無理に聞かせようとは思ってないから」
振り返らずに言って、歩き出す。
でも、その背後でクラリッサが言った──低く、絞り出すように。
「あんたは、いつか後悔するわ。そんな甘さじゃ、この世界では・・・」
それでも私は、立ち止まらなかった。
「その時は──“私”が全部引き受けるよ」
そう返して、私は夕暮れの影の中へと戻っていった。




