153.記憶は眠らない
扉の向こうは、夜の静寂に包まれていた。
月が高く昇り、雲間からこぼれる光が石畳を淡く照らしている。
学院の裏手にある管理区域。
書庫の秘密の出入り口は、人目につかぬよう囲まれた中庭の陰に隠されていた。
私たちは誰も口を開かず、ただ無言で並び立っていた。
ようやく地上に出られたという安堵と、持ち出した一冊の重み。
そして、この先に何が待ち受けているのかという、言葉にできない予感。
それらが、胸の奥で渦を巻いていた。
「・・・ここからは、各自で帰ったほうがいいね。さすがに目立つ」
最初に口を開いたのはティナだった。
その声は小さく、けれど確かな響きを持っていた。
時計塔の針は、すでに午後九時を回っている。
当然ながら、もうとっくに下校時刻は過ぎていた。
「じゃあ・・・ここで解散?」
「うん。あの本、アリアが持ってて。内容、ちゃんと調べてみて」
シルフィンが私を見て、静かに頷く。
「うん、わかった」
私は本を胸に抱き直し、みんなの顔を順に見渡す。
ノエル、ティナ、マシュル、ライド、シルフィン──疲労がにじむ表情の奥には、それでも確かな覚悟が見えた。
──この本の中身次第で、私たちはもっと深く“何か”に関わることになる。
けれど、誰一人として、それを恐れていない。
「・・・気をつけて帰って」
私はそう言って、小さく手を振る。
「アリアもね。変なやつに尾けられたりするなよ?」
ライドが肩をすくめながら冗談交じりに言う。
「こら。そういうこと言うと、ほんとに変なやつが出るんだから」
ティナが眉をひそめ、それを聞いた皆が、ふっと笑った。
そうして──私たちはそれぞれ、夜の街に溶けるように散っていった。
月影が舗道に伸び、風が遠くで木々の葉を揺らしていた。
私は自宅の方角へと歩き出す。
夜の通りは静まり返っていた。
街灯の光が交互に足元を照らすたび、私は本の存在を確かめるように腕に力を込める。
(・・・誰にも見られてないよね)
背後を振り返る。けれど、気配はない。
今夜の街は、ただひたすらに穏やかだった。
やがて、自宅の前にたどり着く。
時間的に、母はもう寝ているはずだった。
灯りは落とされ、家の中に気配はなかった。
──今日に限ったことではない。母は、私が遅く帰ることがあるのを知っている。
かつて母自身もゼスメリアで、先生に隠れていろいろやっていたらしい。
だから、そのあたりは理解してくれているのだろう。
私は静かに扉を開け、そっと中へと足を踏み入れる。
靴を脱ぎ、息を整えてから自室へ。
そのまま机の前に座ると、私はあの本をそっと広げた。
──クラリッサの記録。
装丁は古びているが、ページはしっかりしていた。
おそらく、魔法的な補強が施されているのだろう。
最初の見開き。
筆跡は不揃いで、ところどころ震えていた。
まるで、感情がそのまま文字に刻みつけられているかのようだった。
どうやらこれは、元々はある研究者の極めて私的な手記だったらしい。
学術記録ではない。言うなれば──日記。誰にも見せるはずのなかったもの。
私は静かに、ページをめくっていく。
> “この魔法は、視界の奥にある“輪郭”を操作する。
他者の記憶から自分の姿を消すのは理論上不可能だ。
だが、“見た”という実感を削れば、それに近い効果は得られる──”
図式や式が乱雑に描かれたページ。
「視界操作」「記録の抹消」・・・確かに、それらの技術が並んでいた。
(やっぱり・・・これは、ただの魔導書じゃない)
──この魔法は、何のために生まれたのか。
クラリッサは何を隠そうとし、あるいは、何から消えようとしたのか。
考えが渦を巻く中、私はあるページで手を止めた。
> “私は彼女に似ていた。能力も、顔も、感情の壊れ方も──
だからこそ、あの子を実験には使いたくなかった。
けれど私は、もう・・・“そういうこと”を躊躇できる立場じゃなかった。”
「彼女」──誰のことだろう?
文脈は語らない。だが、そこには確かに、何かが越えてはならない境界線を越えていた痕跡があった。
私は深く息を吐いた。
(クラリッサ・・・やっぱり、あんたは──)
知るべきなのだ。
過去に何が起きたのか。誰が傷ついたのか。
そして、それでもクラリッサが今、教師としてゼスメリアに立っている理由を。
私は本のページを戻し、もう一度読み直しはじめた。
──夜はまだ、終わらない。
そして、私の問いもまた、まだ始まったばかりだった。




