148.視界の裏側
夜は更け、月が静かに雲間から姿を覗かせていた。
ベッドに横たわっても、私はなかなか眠れずにいた。
クラリッサ──かつての邪神の下僕にして、“母の仇敵”とも呼べる存在。そんな女が、今、同じ学院にいる。教師として。堂々と。
そして、次は“私”を見据えている。
(・・・何があっても、負けない)
静かに拳を握ったときだった。
窓の外で、ふと微かに風が揺れた気がした。
どこか、ざわついている。そんな感覚があった。
翌朝学院に向かうと、廊下にはいつもと違うざわめきが漂っていた。
「ねえ、昨日のクラリッサ先生の授業、受けた子たち・・・ちょっと変じゃない?」
「うん、昨日までは普通だったのに、急に無口になったり、目が虚ろだったり・・・何かあったのかな」
私の足が自然と止まった。
昨日、私と一緒に“視界干渉”を見学していた数人の生徒──その顔が、思い浮かぶ。
あの魔法は、心の深層に触れる。だとすれば、場合によっては・・・。
(・・・壊れる)
その瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
足早に次の授業の教室に向かうと──そこにいたのは、やはり異様な空気を纏った数人の生徒たちだった。
目を伏せ、口元を固く結び、まるで“何か”に囚われているかのように。
その中の一人、ミュリエルというヴィオレの少女が、机に座ったまま呟いた。
「・・・見えたの。ずっと、閉じ込めてたものが」
私はその声に、ぞっとした。
「・・・ミュリエル?」
問いかけると、彼女の肩がびくりと震えた。
「だめ・・・見ちゃいけなかった。あれは、わたしの記憶じゃない。けど、確かにわたしの中にあって・・・誰かが、植えつけたんだ」
その言葉に、教室内がざわめく。
「彼女・・・何言ってるんだ?」
「植えつけた・・・?」
「わたしの中の“わたし”が、わたしを見下ろして笑ってたの・・・あれって、本当に・・・」
そこで言葉が途切れ、ミュリエルは頭を抱え込んだ。
私は急ぎ、彼女に駆け寄る。
(これは・・・明らかに異常だ。クラリッサの“視界干渉”は、記憶に干渉する魔法。だけど、それ以上に何かが・・・?)
そのとき、扉の外から声が響いた。
「おや・・・お困りのようですね?」
静かに現れたのは──クラリッサだった。
「彼女は少し、深く潜りすぎてしまったようです。けれど大丈夫、私が対応しますわ」
微笑を浮かべながら、彼女はミュリエルの前にしゃがみこむ。
「・・・心配しなくてもいいの。あなたの見たものは、あなたの中にあったもの。でも、見たくなかったのでしょう?」
クラリッサの声は甘く、柔らかく響く。
だがその響きは、どこか“深い井戸”を覗き込むような、冷たい底を持っていた。
「さあ、目を閉じて──もう一度、私と潜りましょうか」
「やめてください」
私は一歩踏み出していた。
その声に、クラリッサがゆっくりと振り向く。
「これは生徒の安寧のための処置です。それとも、教師に楯突くおつりかしら、アリアさん?」
「それって、“指導”の名を借りた操作じゃないですか? 心の中まで弄るなんて、教師のやることじゃないわ」
一瞬、教室の空気が凍った。
クラリッサは目を細め、しかし笑みを絶やさずに言った。
「・・・ええ、あなたのように強靭な魂を持った子なら、そうも思うでしょうね。でも、全ての子があなたのようであるとは限らないのよ。中には、導きが必要な子もいる。心の闇に、手を差し伸べてあげる者が」
まるで正義の味方のような口ぶりに、私は言葉を失いそうになる。
けれど、飲まれてはいけない。
この人は、“闇を癒す”ために手を差し伸べてるんじゃない。闇の中に引きずり込むために、“触れている”。
その時、クラリッサの目が一瞬だけ本性を覗かせたように見えた。
それはまるで──獲物の反応を観察する狩人の視線。
そして、静かに言う。
「お気をつけなさい、アリアさん。・・・あなたの炎が照らす影には、あなた自身も含まれるのよ」
そして彼女は、ミュリエルを伴って静かに教室を去っていった。
──影は、既に学院に入り込んでいる。
私は教室に残された、わずかな“闇の残滓”を見つめていた。
(次は・・・誰が、引きずり込まれる?)
クラリッサは止まらない。
そして私は、もう見過ごすことはできない。
誰もが傷を抱えて生きている。でも──その傷を“武器”に変えるようなやり方は、絶対に許せない。
だから私は、戦う。
母の意志でも、誰かの期待でもない。
私自身の──灯火のために。




