146.母の記憶、炎の記録
帰り道、胸の奥はまだ熱を帯びたままだった。
クラリッサの残した言葉が、喉の奥でくすぶり続けている。
(母さんの“最後の罪”って、どういう意味だろう・・・?)
私は玄関を開け、家に入った。
夕暮れの光が差し込むリビングでは、母がいつものように椅子に座っていた。
炎の大魔女──セリエナ・ベルナード。かつて“八大魔女”の一人としてこの世界を救った、偉大な魔女。
けれど、今こうして目の前にいるのは、ただの優しい“母”の顔をした女性だ。
私の気配に気づいたのか、彼女が顔を上げた。
「おかえり、アリア。・・・今日の授業、どうだった?」
私は一瞬、言うべきかどうか迷った。
でも、誤魔化せるような話じゃない。だから、正直に言った。
「・・・クラリッサ・アルバートって先生が来た。闇魔法の講師。覚えてるよね?」
母の微笑が、ほんのわずかに固まった。
「・・・ええ、覚えているわ」
「母さん・・・本当は、知ってたんじゃない?私の前に現れることを」
「予感はあったわ。まさか、教師として来るとは思わなかったけれど」
母は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いていく。
その背中は、どこか昔の戦場を思わせるような、静かな緊張感を纏っていた。
私は口を開く。
「彼女、言ってた。『あの女にすべてを奪われた』って。・・・母さん、あの人と何があったの?」
母は窓の外を見つめたまま、小さく息を吐いた。
そして静かに、過去を語り始めた。
「──私とクラリッサは、同い年でね。私はルージュ、彼女はヴィオレの組だった。最初から、何かと衝突していたわ。ゼスメリアに入学した時からずっとね」
「仲、悪かったの?」
「悪かったというより、火と氷みたいなものだったわ。彼女は冷静で理論的。私は感情で突き進むタイプ。魔力の発動から呪文の選び方まで、いちいち対照的だったもの。何かと張り合っては、口を利かない日が続く・・・そんな日常だった」
母は懐かしむように笑ったけれど、その笑みの奥に、わずかな痛みがあった。
「五年生の春。ルージュに、彼が現れたの」
「彼・・・?」
母は少しだけ目を細めた。
「──レオナール。レオナール・クレイヴァン。彼のことは、昔話したわよね?」
「うん。あまり詳しくは聞かなかったけど」
「彼は、アルフィーネからの転入生だった。
光魔法の使い手で、妙に気さくで・・・でも、芯はまっすぐな人だったわ。最初に出会ったのは、ルーン魔法の講義だった」
「レオナール・・・」
その名は、どこかで聞いたことがあるような、でも掴めない響きだった。
「彼は、すぐに私たちの間で話題になった。もちろん、クラリッサも興味を持った。・・・というか、最初に彼に好意を示したのは彼女だったのかもしれない。でも──」
母の声が、すっと静かになる。
「彼が選んだのは、私だった」
「・・・」
「クラリッサは、あからさまに失望した表情を見せたことはなかった。でも、わかってはいたわ。彼女は、私を・・・ずっと許していなかった」
窓の外、陽が沈みかけている。
母の横顔が、その光の中で少し寂しげに見えた。
「その後、私とレオナールは正式に交際を始めて、卒業後も一緒に行動することが増えた。私が“八大魔女”として邪神と戦った時も、彼はずっと私のそばにいた。・・・そして、私たちは夫婦になったの」
母は微笑んだ。
その目は、遠い記憶の中にいるようだった。
「あなたが生まれる前、私は・・・とても幸せだった。レオナールは、世界の誰よりも私を支えてくれた。私の炎を怖がらずに、ただそばにいてくれた」
でも、と母は続ける。
その目に、僅かに涙がきらめく。
「私の出産が近づいたある日、彼は突然命を落とした。邪神の呪いだって、後でわかったけど・・・私は、彼の死とあなたの誕生を同時に迎えた」
私は言葉を失った。父のことは、以前少しだけ聞いたことがあったが・・・やはり、いつ聞いても悲しい話だ。
「クラリッサは・・・今でも、彼の死に“私が関わっていた”と思っているのかもしれない。自分から奪ったうえに、死まで招いた女だと。・・・だから、わざわざあなたに試練を与えに来たのよ」
「・・・じゃあ、私は“父の罪”の証人でもあるってこと?」
「違うわ、アリア。あなたは、愛から生まれた子よ。私と彼・・・レオナールが選び取った未来。誰に否定されようと、それは決して変わらない」
母の手が、私の手にそっと触れる。
「クラリッサの目には、あなたの中に“私”が見えるのよ。だから、彼女はあなたを試す。でも・・・気をつけて。彼女の想いは、未だに炎のように燻っている。その炎は、あなたのものとは違う、“嫉妬”という名の火よ」
私は、母の目をまっすぐに見返した。
「母さん・・・私は、あの人に負けない。私の炎で、全部を照らしてみせる」
母は、静かに微笑んだ。
「ええ。あなたなら、きっとできるわ。私がそうだったように──いいえ、それ以上にね」
そして、窓の外に目を向けながら、そっと呟いた。
「・・・レオナール。あなたの娘は、ちゃんと前に進んでる。安心して」




