135.白炎、我を赦す
柵の前に立つ“私”は、誰の声も届かない場所にいた。
周囲は、まるで音を吸い込むように静まり返っている。
風が吹く。夕暮れが影を伸ばす。
私はその後ろ姿に、言葉を投げかけようとして──息を飲んだ。
その瞬間、視界がぶれる。
──落ちる。
私は、“あのときの私”の中にいた。
足元の感覚が消え、重力だけがすべてを支配する。
「やめ──っ」
叫びは風に呑まれ、誰にも届かない。
視界に、空が。校舎の屋上が。遠ざかっていく。
風を切る音。急降下する重力。胃がひっくり返る感覚。
そして──激突。
世界がひび割れた。
骨が砕ける音が、自分の中から響いた。
痛い、痛い、痛い──
でも、一番痛かったのは、胸だった。
(ああ・・・私、本当に・・・終わったんだ)
血の味。冷たくなる指。
目は開いているのに、空が遠くなっていく。
私は、自分の死を感じていた。確かに──。
・・・怖い。誰か・・・助けて・・・。
遅すぎる後悔が、ようやく溢れ出してきた。
本当は、生きたかった。どうして、あのとき・・・誰にも、言えなかったんだろう。
・・・なんで、私だけが。
誰か、誰か──。
そのときだった。
焼け焦げた空の向こうから──声がした。
「なら、立て。今度はもう、逃がさない」
「・・・え?」
重力が消える。痛みが引いていく。
私は、柵の前に立っていた“私”の身体から、意識を抜かれるように抜けて、再び現在の“私”へと戻っていた。
手が、震えていた。
足が、すくんでいた。
でも──
「私は・・・今度こそ、乗り越える」
拳を握る。胸の奥から、熱が灯る。
泣き叫びたいほどの痛みも、孤独も、絶望も──今の私が受け止める。
「ごめんね、こんなに弱くて」
「いいの。私はもう、あなたを責めない。だって・・・あなたがいたから、今の私がいる」
目の前の私は、静かに涙をこぼした。
「今の私には、仲間がいる。力がある。母の背中がある。そして、私は──私自身を許す」
その瞬間だった。
内側から、何かがはじけた。
──ズン、と地が鳴った。
焼け焦げた世界の空が、割れたように音を立てる。
私の身体から、炎があふれ出す。
赤ではなく、朱でもない。
それは──白炎。
空気を震わせ、現実すらも焼き変える、純粋な意志の炎。
すべてを焼き尽くし、なお残る“生きたい”という、燃えたぎる意志の炎だった。
「・・・これが・・・母を超える炎──!」
髪が宙に舞い、瞳が紅蓮よりも深く、静かに燃えていく。
足元の大地が裂けるように、私の内面から現れた炎が世界を侵食していく。
白炎が空を染めた瞬間、封域の地がわずかに震え、焼け焦げた空に初めて風が吹いた。
焼け焦げた空に浮かぶ校舎が白炎に包まれ、灰となって風に溶ける。
それを見送る私の目に、涙が一粒だけこぼれる。
過去を焼き、記憶を焼き、それでも残った“私自身”が──そこに立っていた。
“精神の扉”が、静かに音を立てて閉じていく。
そして、世界は崩れた。
──私は、次の瞬間、封域の石床の上に立っていた。
背後では、ルシウス先生が黙って佇んでいた。
「・・・おかえり、アリア。君は、超えたようだな」
私は頷いた。
「はい。母の背中を・・・少しだけ、追い越せたような気がします」
空を見上げる。
それは、かつてないほど透き通っていた。
まだ、試練は終わっていない。
けれど確かに、私はあの日の私を乗り越えた。
燃やし尽くして、それでも残った“今の”私を──信じて。
封域から戻った直後。
学院の結界が、突如として不穏な震動を発した。
「・・・外で、戦闘が起きている!」
ルシウス先生の声に重なるように、警鐘が鳴り響く。
轟音。炎。空を切り裂く雷撃。
学院の周囲を囲む森が、燃えていた。
そして──その中心に立つのは、一人の仮面の魔法使い。
「・・・久しいな、セリエナの娘よ」
くぐもった声が私の耳を刺す。
とは言え、面識のある声ではない。
「誰?」
「名乗るほどの者ではない。ただ、君を“壊す”ために来た」
強い・・・というか尋常ではないほどの魔力が、世界を圧迫する。
封域に入る前の私なら、気圧されただけで膝をついていただろう。
だが、今は──。
「面白いことを言うね。私を壊すって?・・・ごめん、それはもう、私がやったの」
風が止まり、空が沈黙する。
次の瞬間、私の周囲に白炎が広がる。
赤でも朱でもない、光に近い“純白の炎”。
それは、あらゆる属性の干渉を拒み、空間さえも燃やす力。
「なっ・・・この魔力、まさか・・・!」
仮面の魔法使いは、一歩引いた。
私は静かに両手を掲げる。
その手のひらから、白炎が剣のような形に凝固していく。
「これは私の意志。私の誓い。誰にも、何にも──踏みにじらせたりしない!」
仮面の魔法使いが詠唱を始め、雷が空から奔る。
「『雷槍・黒月』!」
だが、私は臆することなく炎の剣を振るった。
「『煌炎陣』──!」
白炎が空を切り裂き、雷の槍を飲み込み、真っ二つにする。
重なった魔力がぶつかり合い、世界が軋むような音を立てた。
──そんな中、最後に立っていたのは、私だった。
「信じられん・・・我が雷を、消し去った・・・?」
仮面がひび割れる。
中の男が膝をつきながら、私を見上げた。
十中八九、この男は邪神に心を奪われた者。邪な魔法使いだろう。
「まだ、終わってない。これは始まり。あなたのような者がいる限り──私は、立ち続ける」
私が剣を掲げると、白炎が舞い、空に紋章を描く。
「──『白炎封印』」
仮面の男が悲鳴をあげ、空間ごと白炎に呑み込まれていく。
数秒後にはただの灰と化して、風に溶けた。
戦いの後、私は静かに剣を消す。
「もう二度と、私は私を殺させない」
その言葉は、自分への誓いだった。
かつて自ら死を選んだ少女ではなく、“今”を生きるアリア・ベルナードとしての、魂の宣言だった。




