130.選ばれし者の牢獄
扉の向こうは、深い沈黙に包まれていた。誰もいない空間に何かが潜んでいるような、不気味な重さが漂っている。
私は静かに扉を押し開けた。そこは、円形の魔法陣が刻まれた奇妙な部屋だった。
石床には赤黒く滲む紋様が走り、天井からは無数の結晶灯が淡く光を放っている。中央には、五つの台座。その上に、五人の生徒が倒れていた。
「・・・!」
私は駆け寄る。どの顔にも見覚えがあった。皆、“試験に合格した”と発表されていた者たちだ。
だが、その顔は苦悶に歪み、目は閉じられ、体は微動だにしない。
「意識がない・・・!」
ティナがすぐに脈を取り、呼吸を確認した。
「でも、生きてる・・・まだ生きてるわ!」
母が膝をつき、五人を見つめると、眉を深く寄せて言った。
「これは・・・精神干渉の魔法ね。しかも、かなり深い層まで入り込んでる。自我そのものを、削り取ろうとしてる・・・!」
「そんな・・・!」
ノエルが絶句し、マシュルも顔を強張らせる。
「なんとかして魔法を解かないと、戻れなくなる・・・魂ごと、持っていかれる!」
母の声が低くなる。その手から赤い光が灯り、生徒の額に魔力を送り込む。
「でも、一人ずつ解呪する時間はない・・・このままでは、誰かが・・・」
その時、石床を硬い靴音が叩くように鳴り響いた。
「・・・!」
誰もが身構える中、奥の闇から、一人の人影が現れた。
白と黒を基調にした法衣。無数の金属飾りが縫い込まれ、肩には蛇の紋章が刻まれている。しなやかな体つきの中年の女──その目には、何の感情も宿っていなかった。
「よくぞ来てくれた、諸君」
学院長、ヴァルグス。
その声は、冷たく、氷のように張り詰めていた。
私は思わずリーヴァを構えた。
背後ではシルフィンも炎をまとい始め、ライドが舌打ちする。
「来たな・・・」
ヴァルグスは、私たちを見下ろしながら言った。
「・・・まったく、つくづく惜しい子たちだ。ようやく選別が進み、邪神の意志に適応しはじめたというのに」
「な・・・!あんた、本当に邪神の・・・!」
ティナが怒りに震える。
「彼らはみな、一人の魔法使いよ!生贄なんかにしていいものじゃないわ!」
ヴァルグスは、まるでそれが「理解できない」とでも言うように、首を傾げた。
「・・・だから何だ?一人の“人”であるから、何だ?そもそも、“人”に何の価値があると?」
その言葉に、私の胸が冷たくなった。
「それが・・・あんたの本音か」
私が低く言うと、ヴァルグスは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「人の殻を破り、神に届く可能性があるのなら・・・多少の犠牲はやむを得ない。むしろ、その“生贄”こそが尊い」
それはまさしく狂気的な発言だったが、同時に、この女なりの“信念”でもあった。
ヴァルグスは、狂っていながらも確かに「何か」を信じている。だからこそ──危険なのだ。
「・・・アリア」
母が静かに、しかし重く言った。
「この女は邪なる者。私たちと同じ、“人”ではない。焼くしかないわ」
私は頷いた。元より邪なる者とは、邪神に心を奪われた者。その時点で、もう人ではない。
リーヴァに魔力を流し、先端に炎を灯す。
ヴァルグスの後ろに、再び黒い塵が現れる──今度は、人の顔を模した仮面をつけていた。
黒い塵──いや、仮面をつけた“それ”は、ヴァルグスの背後に立ち、まるで主の影であるかのようにぴたりと寄り添っていた。
「・・・またあれか」
私はリーヴァを構え直し、吐き捨てるように言った。
仮面は無言のままこちらを見つめている。
だが、その目のような“虚”からは、底知れぬ悪意と冷たい意志が漂っていた。
・・・あれはもはや、魔物ですらない。邪神そのものの“触手”──この世界に巣くう腐敗の芽。
「・・・その目。アリア、あなたは見えているのね」
ヴァルグスが唇の端を吊り上げた。
「そうだ。あれは邪神の『使い』・・・私の忠実な監視者。そして、“選別者”。今、君たちを測っているのだ・・・生贄にふさわしいか、見極めるためにな」
「ふざけるなっ・・・!」
ライドが怒声を上げると同時に、雷を纏った拳を構える。だが、母が手を伸ばしてそれを制した。
「落ち着いて。あれは誘っているの・・・怒りに任せて突っ込めば、取り込まれるわ」
「・・・っ」
ヴァルグスは嘲るように笑った。
「さすがに賢いな、セリエナ。だが、時間はないぞ?」
そう言って、彼女は指を鳴らした。
次の瞬間、五人の生徒のうちの一人──少女が、びくりと体を震わせた。
「!」
彼女の目が、ゆっくりと開いた。
だが、その瞳には光がなかった。黒く染まり、虚ろに揺れている。
「“精神干渉の深層”・・・!」
母が険しい声で言った。
「すでに、儀式は始まっている。この子の魂は、直接邪神の封印に繋がれている。いずれは完全に取り込まれ・・・封印を破るための生贄となる」
仮面の“黒い塵”が、まるで糸を操るかのように腕を伸ばした。 生徒の身体が、それに呼応するようにゆっくりと立ち上がる。
だが、その仕草は操り人形のようにぎこちなく、意思のないものだった。
「やめなさい・・・!」
私は叫び、リーヴァを振るった。だが、炎はその生徒には届かず、途中で黒い靄に包まれて消えた。
「・・・さあ、どうする?その子を傷つければ、魂ごと死ぬ。それでもやると言うのか?」
ヴァルグスの声は、悪魔の囁きのように耳にまとわりついた。
「それとも、焼き尽くしてしまうのか?君と母の、正義というやつで」
「・・・!」
私は言葉を飲み込んだ。
この場にいる全員が、息を詰める。
戦えば、彼らを失う可能性がある。しかし、ここで止まれば、それこそ取り返しがつかなくなる。
「母さん・・・!」
私が呼ぶと、母は小さく頷いた。
「やるしかないわ。他に彼らを助ける方法はない」
「わかった!」
私は深く息を吸い、覚悟を決めた。
この戦いに、迷いは許されない。
「──“黒い塵”と一緒に、ヴァルグスを倒す」
「ええ。それが、あの子たちを救う唯一の道よ」
私と母は並び立ち、それぞれの手に紅蓮の炎を灯した。
学院を蝕む闇の中で、私たちは決意の火を燃やす。
「始めましょう、アリア」
「ええ。ここが、地獄の入口なら・・・焼き尽くす!」
炎は爆ぜる。
私と母の、想いと共に。




