124.学院に降る影
季節は巡り、秋が深まりつつあるゼスメリア魔法学院。
夏の余韻がすっかり消え、街路樹の葉は紅に染まり始め、吐く息が白くなりはじめた。
私たち五年生にとっては、もう卒業がそう遠くないという現実をじわじわと意識させられる季節──なのだけれど。
その穏やかな空気は、ある朝、唐突に打ち砕かれた。
「・・・学院長が変わった?」
誰もがその報せを耳にしたとき、最初は悪い冗談だと思った。
前学院長のソリス先生は温厚で、寛容で、何よりも“魔法は生き方である”という哲学を持った人だった。
それが突然、病気を理由に退任し、すぐさま新たな学院長が着任したというのだ。
その名は、ヴァルグス・エラグレイン。
強い魔力量を持つことで有名な、古の魔術一家に連なる人物で、かつて王都の魔法統制局なる場所で教導官を務めていたという。
けれど、私も、周囲の生徒たちも、その名を聞いても誰一人として顔が思い浮かばなかった。
そして、その日の午後。
講堂に集められた全校生徒の前に現れたその女は、想像していた“魔法学者”の印象とは程遠かった。
鋭い銀色の目。闇に溶け込むような黒い衣。佇まいには軍人のような硬さがあり、話し方は冷徹そのものだった。
「ゼスメリアの生徒諸君。諸君の力は、まだまだ甘い。理論だけで満足しているような半端者に、未来を託すことはとてもできない」
最初の言葉からして、そうだった。
そして、彼女は続けた。
「私の下で、新たな試験を設ける。“瘴気進行試験”とする。これは、実戦において不可避となる“瘴気”環境下での精神的抵抗力、ならびに魔力制御の有無を見極めるためのものだ」
みんなはざわついた。
瘴気──それは本来、“邪神”に関わる危険な力。一般の魔法使いや人間は、触れるだけでも精神を蝕まれる可能性がある。
母も、「迂闊に関わってはいけない力」と言っていた。
それを、訓練として体験させる?そんなの、狂ってる。
でも、ヴァルグス学院長は、まるで当然のように話を進めた。
「試験は全学年において義務とする。指定された結界空間にて、瘴気の濃霧を進み、指定ポイントに到達せよ。なお、正当な理由なき拒否、遅延、不服従は、“教育的矯正”の対象となる」
“教育的矯正”。それが何を意味するのか、最初は曖昧だった。
でも、私たちはすぐに、それを目の当たりにすることになる。
翌週のある日、私たちの目の前でそれは起きた。
第一回の瘴気試験を拒んだという、三年生の少女──名をエルナといった──が、講堂の中央に立たされ、学院長自らの手で魔力の杭に貫かれた。
なんでも、彼女は光に適性がある魔法使いなのだが、暗く蠢くような瘴気に恐怖を感じ、怖気づいたのだという。
だが、学院長は無慈悲だった。
エルナの意思、言葉に関係なく試験を受けることを強制し、尚もそれを拒んだ彼女に手を上げたのだ。
「逃避は弱さを助長する。弱さは魔法の敵だ。これは、その教育の一環だ」
静かに、そう言いながら。
エルナの身体は痙攣し、膝を折った。悲鳴も上げられないまま、うつ伏せに倒れる。
「やめて!!」
私の声が、講堂に響いた。
同時に、隣にいたシルフィンが立ち上がる。
「そうよ、やめなさい!こんなの、ただの暴力よ!」
けれど、ヴァルグス学院長は私たちを一瞥し、冷笑するように呟いた。
「ならば、君たちも試験から逃げればよい。代わりに、同じ“教育”を受けてもらうまでだ」
それがどういう意味なのかは、言葉にしなくても分かった。
私は震える手でリーヴァを握りしめる。
この女は、“教師”ではない。そして、“学者”でもない。
というか、“人”ですらない。
「・・・なんてことを!」
「こんなの、教育者のすることじゃない・・・!あんたの行為は、ただの暴力よ!」
思わずそう口走ると、学院長はこちらに手をかざし、結界で私たちを覆ってきた。
どうやら、このまま結界を叩き割るつもりのようだ──そうすれば、結界の中にいるものは手痛いダメージを受けるから。
すぐに炎で結界を壊そうとしたが、上手くいかなかった。
やはり、大人の魔法を破るのは無理か・・・
そう思った瞬間、私たちは突如としてワープした。
「・・・!」
次に気がついたのは、どこかで見覚えのある部屋。
そして私は、隣にいたシルフィンともども無傷だった。
「ここは・・・?」
その時、目の前に誰かが現れた。
虚空からいきなり現れた、妖艶な体つきの先生・・・メジェラ先生だ。
「・・・メジェラ先生!」
「・・・まったく、口が過ぎる女だ。そんなところまで、母親に似たか」
先生は、私を見てきた。
「身の程を弁えろ。この世には、正面衝突では敵わぬ相手というものがいるのだ」
「はい・・・」
つまりこの人は、学院長には逆らうなと言いたいのか。まあ、そんなものだろう。
所詮は普通の教師、学院長を否定するなんてできるわけない。
「一時の感情に任せて動くのは、愚か者のすることだ。賢い者は、然るべき時を待って行動する」
そのセリフには、何か引っかかった。
続けて、先生はこうも言った。
「私は闇の魔女だ、君たちの気持ちはわからん。だが、少なくとも私が君たちなら、こう思うだろう・・・『あの女、必ずこの学院から追い出してやる』と」
・・・そういうことか。
この先生は表立っては言わないけど、ちゃんと私たちの気持ちをわかってくれている。
というか、思えば学院長の体罰をギリギリで受けずに済んだのは、この人のおかげだ。
この人が、私たちをワープさせて助けてくれたのだ。
「先生、もしかして・・・!」
シルフィンが喜んだように食いついたが、メジェラ先生はその口を塞いだ。
「・・・静かにしろ。今は、動くべきではない。・・・今はな」
意味深な言い方から察したのか、シルフィンは黙って頷いた。
外は冷たい風が吹き始め、落ち葉が舞っている。
もうすぐで、雪の降る冬が訪れるが・・・この冬は、壮絶な戦いになりそうだ。
あの女・・・学院長の皮をかぶったケダモノ、やっつけてやる。
私とシルフィンと、ライドとマシュル。それにノエルと、今年新しく友達になったティナで。
しかも、幸運にもメジェラ先生も協力してくれる。
学院でもっとも曰く付きの、だけど確かな実力を持つ先生が、味方してくれるのだ。
これは負ける気がしない・・・というか、負けてはならない。
“教育”、“試験”という名の押し付けをみんなに強制し、しかも暴力まで正当化するなんて、そんな横暴、絶対に許せない。
とはいえメジェラ先生の言うように、今は動くべき時ではない。私たちはまだ、準備ができていない。
何しろ、相手は学院長なのだ。ここからは、慎重に動かねばならない。
絶対に失敗しないように。また、誰も犠牲にならないように。
きっとこれまでにないほど厳しく、苦しい戦いになる。でも、私は逃げない。
私だけじゃない、シルフィンも。
これは、“闇”との新たな戦いのはじまりだ。




