122.第六式・封魔輪
夏の陽射しがまだ残る、九月の初め。
ゼスメリア魔法学院の門をくぐった瞬間、懐かしい空気が全身を包んだ。
校舎の石壁は、太陽の光を反射して白く輝いている。風に揺れる掲示板には、新学期の案内や研究科の募集、進級試験の成績などがずらりと貼られていた。
「・・・戻ってきた、んだ」
私は鞄の中に手を入れ、リーヴァの感触を確かめる。
あの湖の夜から数日、工房で手渡された再生された杖は、以前よりもほんの少し、軽く感じられた。
──リーヴァ。これから、また一緒に進もうね。
木の階段を上がっていくと、見慣れた面々がすでに廊下に集まっていた。
「おーっ、アリア!」
先に気づいたのは、マシュルだった。大きな声とともにこちらに駆け寄ってくる。
「よう、おれたちの最強の炎使い! 元気そうじゃねーか!」
「ふふ、ありがとう。マシュルも、なんだか日に焼けた?」
「だろ? 今年は実家の農場、めちゃくちゃ手伝ったからな!」
それを聞いて、後ろからライドが歩いてくる。
「つまり、筋肉痛でほとんど魔法の練習してないってことだよ。アリア、あんまり信じない方がいいよ」
「おい、言いすぎだろ、ライド!」
変わらないやりとりに、自然と笑顔がこぼれる。
その後ろから、ティナとシルフィンも現れた。
「アリア! わあ、元気そうでよかった!」
「なんだっけ・・・杖、調整したんだよね。見せてくれる?」
「うん、もちろん」
私は鞄から丁寧に取り出し、丁寧に再調整された杖を両手で抱えるようにして見せた。
私の杖ことリーヴァは、芯となる黒檀の素材はそのままに、装飾や細部の意匠が少し変わっていた。
握りの部分には、月を模した銀の細工がはめ込まれていて、魔力の流れをより繊細に伝えてくれるような造りになっていた。
「きれい・・・」
シルフィンがそっと杖に手を触れる。
「うん。なんだか、前よりも・・・アリアに似てる」
「似てる?」
「うん。柔らかくて、でも強い。ちゃんと“戻ってきた”感じ」
私はその言葉に、胸の奥が温かくなった。
「ありがとう、シルフィン」
「ねえ、リーヴァの名前の意味って、“再び灯る火”って言うんでしょ?」
ティナが尋ねる。
「うん。失われたものが、もう一度輝きを取り戻すときに灯る火・・・母さんと一緒に決めたの」
みんなが優しく頷いた。
そのとき、学院の中庭に、透明な鐘の音が響き渡った。
「・・・始業の鐘だね」
ライドが腕時計をちらりと見て言う。
「そろそろホームルームか。よし、気合い入れて行こうぜ!」
「おーっ! 初日から寝坊したらダメだぞ!」
マシュルの一言にみんなが笑い、私たちは校舎の中へと歩き出した。
その足取りは、夏の間に蓄えた光と、未来への確かな手応えで、今まで以上にしっかりとしたものだった。
──新しい季節、新しい気持ち。
リーヴァと共に、私の学院生活もまた、静かに、でも確かに再び動き出したのだった。
実技棟の奥、魔力制御の強化結界が張られた地下教場は、ひんやりとした空気に包まれていた。
黒曜石の床と、厚い魔封壁に囲まれたこの教室では、「邪悪な魔法への対処術」の授業がある。
これまでは別の、専用の教室で行われていた授業だが、今年からこの教室に移転して行われている。
そんなわけでここは、今や学院の中でも特に緊張感の走る授業が行われる場所と化している。
私はリーヴァを胸元に抱えて、一歩教場の中に入る。
他の生徒たちも、静かに着席していく。ティナはやや不安げに、マシュルは逆に妙にやる気満々で、ライドは冷静な顔で黒板の構造を観察していた。シルフィンは私の隣に座り、ちらりとこちらに目をやる。
「・・・メジェラ先生か。昔よりはマシになったけど、緊張するよね」
「うん。なんか・・・高圧的だよね」
私がそう答えた瞬間、重い扉が静かに音を立てて開いた。
入ってきたのは、長く流れるような紫の髪と見事な胸を揺らし、銀縁の眼鏡をかけた女の先生。
冷たい紫の瞳が教場を一望し、その場の空気が一瞬で引き締まる。
「・・・席につけ。始める」
メジェラ・ロイゼン先生。私たちが入学した時からいた、ヴィオレの担任。
属性は闇。そして──かつて“邪神ガラネル”に仕えた下僕、邪なる者の一柱だったという。
今の彼女は、ゼスメリアが定めた“贖罪と再生の誓約”に基づき、一応は学院に忠誠を誓う身。
理知的で冷酷に見えるが、その教えは極めて実践的で的確。そのことは、生徒の間でも評判だ。
「・・・改めて言うが、この授業では、あらゆる“不正な魔法的干渉”に対する初期対応と制圧技術を習得する。君たちが、街で突然邪悪なものの息がかかった子どもと遭遇した時、生き残れるかどうかは、この授業での学びにかかっている」
教場内に緊張が走った。
黒板に彼女が指先で触れると、黒い霧のような魔力が奔り、浮かび上がったのは異形の魔法陣。そしてそこから立ち上がる、“何か”の幻影──うねるような影の腕と、目を持たぬ顔。微かに聞こえるささやき声。
「──これは、かつて私が属していた邪神の軍が使っていた支配術のひとつ、『瘴印』の幻影だ。今は無害化されているが、本物は人の魂を捕食し、理性を奪う代物だ」
「ひっ・・・」
ティナが小さく悲鳴を漏らす。
すると、先生は彼女の方を見た。
「安心しろ、これはあくまで教材だ。だが、似たものは現実に存在する」
先生はそう言い、次に黒板の横に置かれた結界球を指さした。
「この中に、『瘴印』の擬似魔力反応を封じ込めてある。君たちはこれから一人ずつ、それに対して“封印結界”を展開し、汚染を抑える手順を実践してもらう」
「え、もう実技なんですか?」
マシュルが小声でぼやくが、先生は鋭くこちらを見る。
「当然だ。実技なき理論はただの空論。では──アリア・ベルナード。最初は君だ」
「・・・はい!」
私は立ち上がり、リーヴァを握りしめて結界球の前に進んだ。
中では、黒い瘴気が渦を巻いている。まるでこちらを見ているかのような圧があった。
──大丈夫。私はもう、怖れに縛られない。
深く息を吸って、リーヴァに魔力を通す。
「『第六式・封魔輪』」
杖の先から、銀の魔法陣が咲くように広がる。月の細工が淡く輝き、リーヴァがそれに応えるように脈動した。
術式が瘴気の縁を包み込み、黒い霧がぴたりと動きを止める。
しばしの沈黙の後──
「・・・ふむ」
先生が、興味深そうに眼鏡を押し上げた。
「制御は悪くない。杖は──再調整品か。芯の魔核が、きちんと宿っている・・・君自身も、何かを乗り越えたようだな」
「・・・はい」
「ならば、もう一歩先へ進むのだ。『闇を制する者は、己の影と向き合える者』。それを忘れるな」
私は小さく頷いた。
席に戻ると、みんなが拍手して迎えてくれる。マシュルがグーサインを出し、ティナが安堵の笑みを見せた。
「さすがアリア・・・かっこよかったよ」
シルフィンが、そう言って微笑む。
リーヴァの中で、魔力が静かに流れていた。
──闇を恐れず、光だけに頼らず。
この世界のすべてを、まっすぐに見つめるために。
“邪悪な魔法”との対話は、決してただの恐怖ではなく、「理解」から始まるのだと。
私は、メジェラ先生の瞳の奥に、ほんの少しだけ、そういう優しさを感じた気がした。




