プロローグ-ノート・スカーレット-
「……ト」
「…-ト」
「ノート!」
見覚えのある少女が満面の笑みで俺の名前を呼んでいる。
(ああ、これは夢だ)
俺はすぐにこれが夢であると悟った。
「ちょっと!聞いてる!?」
少女はぷんすかと頬を膨らませて近づいてくる。
俺はその場でその様子を見ることしかできない。
何か行動を起こしたくても、身体が動かないからだ。
「まったくもう!」
やがて少女が目の前まで来た。
手を伸ばせば届く距離だ。
しかし俺の身体は動かないから、何の反応を示すこともできない。
「はやくいこ?」
少女が俺の手を取った。
初春のような温かさが、手のひらから伝わってきた。
「…」
言葉を発しようとしたが、やはり身体が言うことを聞かない。
夢ならば、俺の願望をかなえてくれてもいいだろうに。
「ノート」
鈴のような声音で少女に呼ばれる。
さらさらと、砂のように少女の輪郭が崩れ始めた。
「ま、待ってくれ」
そこでようやく身体が動くようになった。
口も。
砂人形のように崩れ去っていく少女に向かって手を伸ばす。
しかし少女に手が届いたのは、それが人であったことすらもわからなくなるほどに崩れ去った後だった。
「君は――ッ!」
すうーっと視界が白んでいく。
俺の意思とは関係なく夢の世界から引き上げられる。
手のひらに乗った少女だった最後の一粒が、ふわりと風に乗って消えていった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「――待って!」
ガバッと音を立てて俺はベッドから身を起こした。
虚空へと伸ばした手は何の温もりも感じることなく、むしろ朝の冷気が纏わりついている。
「はあ、はあ」
ドクンドクンと心臓が主張激しく活動していることを自覚しつつ、荒くなった息を落ち着けるために枕に腰を預けた。
額に手の甲を置くとぬるりと汗が付く。
随分寝汗をかいてしまったようだ。
シャワーぐらい浴びたほうがいいだろうか。
「君は」
夢の中で最後まで言い切ることができなかった言葉。
それを受け取るはずだった少女は、もういない。
「――誰なんだ」
その言葉を聞いているのは、俺だけだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
記憶柱。
国の中央広場に屹立する六角形の柱には、夥しいほどの人名が刻まれていた。
その中に見知った名前はないし、何かしらの感情が沸き上がることもない。
何故ならここに刻まれているのは既に亡くなった者たちであり、誰も彼らを覚えていないからだ。
俺は、特に意味もなく周囲を見渡した。
早朝ということもあってだろうが人通りはほとんどない。
たまに歩き去っていく人も、記憶柱には目もくれずどこかに去っていく。
つーっと記憶柱の表面をなぞってみる。
知らない名前だ。
だがそれは、俺の知り合いでないという確証にはなり得ない。
死者の記憶は抹消され、生きていた証跡としてこの記憶柱に名前が刻まれる。
争いが絶えない今の世界で、大切な人を失った悲しみに囚われないようにという人神の祝福だという考えを聞いたことがあるが、なんとも趣味の悪い祝福があったものだと思う。
いつの間にか人が増えてきた。
記憶柱目当ての人は見当たらない。
ただの通り道なのだろう。
「やべ、もうこんな時間か」
時計を見ると、長い針がてっぺんを指していた。
授業開始が三十分からということを考えると、大分ギリギリになりそうだ。
慌ただしく人々が行き交う中を、俺は足早にすり抜けていった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「おーい、ノート。今日もギリギリだな」
帝立指揮官養成学校。
その名の通り、指揮官としての能力を有する少年少女を育成し、やがて戦争へと駆り出される学校だ。
何故か能力は年頃の男女しか発現せず、能力が認められたものは否応なしにこの学校にぶち込まれる。
それだけ戦力不足が深刻だということだろうが、当人の意見を尊重する姿勢も持ち合わせてほしいものだ。
とは言いつつ、この学校のほとんどの生徒は戦争への参加を快く承諾しているのだが。
指揮官の能力発現と何か関係があるのかもしれない。
ちなみに指揮官の能力が発現するのは、千人に一人と言われている。
つまりここにいるのは皆選ばれし者たちということである。
選ばれたかったどうかは別として。
そんな学校の二年Cクラス。
俺が自席に腰かけようとすると、目の前に座るディル・ウォーカーが机をバシバシと叩いてきた。
筋トレは趣味というだけあってガタイが良く、爽やかな笑みが特徴的で友人が多い。
「寮を出るのは早いんだけどな」
「また記憶柱見に行ってたのか?」
「まあな」
「かー、物好きだねぇ。まあ何にせよ、今年もよろしくな」
ディルがニカッと快活な笑みで手を差し出してくる。
はいはい、と俺はディルの手を握り返した。
今日は年度が替わって初日、俺は二年生になった。
今年も、という言葉の通り俺とディルは二年連続で同じクラスだった。
ちなみに全三クラスでAからCまで存在する。
「やっと来たのね。新年度初日から遅刻するのかと思ったわ」
横から聞こえてきた声に視線を向けると、形の良い眉をしかめたエレナ・ロファスが不機嫌そうな顔をこちらに向けていた。
ディルと同様昨年も同じクラスで、俺はこの二人と行動を共にすることが多く自然と仲良くなっていた。
端正な顔立ちでスタイルもよく隠れファンが多いらしい。
本人が少し気にしている切れ長の瞳だが、『エレナ様に睨まれ隊』というグループが出来上がっていることを彼女は知らない。
俺はエレナに向かって苦笑を浮かべた。
「悪い悪い、心配かけたか?」
「し、心配なんてしてないけど…」
「…そうか?」
エレナはプイッとそっぽを向いてしまった。
かと思えばチラチラとこちらを窺うように視線を送ってくる。
しかし、エレナの方を見るとまた視線を逸らされてしまった。
(まあ、何かあれば向こうから言ってくるだろ)
そんなことを考えていると、始業時間を知らせるチャイムが鳴った。
同時にガラガラと前方の扉がスライドする。
「諸君、おはよう」
教壇に立ったメガネの教師には見覚えがあった。
去年もクラス担任だったアン・クライベルだ。
無表情で少し怒っているような雰囲気を感じさせるが、何か相談事があれば親身に寄り添ってくれるため、生徒からの評判も良い。
アンからの挨拶に対してぽつぽつとクラス内から挨拶が返ると、アンは一つ頷いた。
「皆無事に登校しているようで何よりだ」
去年と同じクラスの友人たち、担任の先生。
代わり映えのない日常。
「さて、諸君らは当然知っているだろうが、今日は重要なイベントがある。諸君らも二年になったため、神徒の所有が許可された。よって、これより神徒召喚を行う」
そしてこれから始まるのは、今までとは全く違う世界だ。