逃走×追跡
夜明けと共に、リンネは動き出した。
周囲に細心の注意を払いつつ、深い森の中を移動していく。
体は、ほとんど休めていない。
眠りに落ちたのも、ほんのわずかな時間だけだ。
だが泣き言をいっている暇はなかった。
今は一刻も早くガイゼルから距離を取らなければならなかった。
陽がある程度昇った頃になって、ようやくリンネは深い森を抜け出した。
目の前には荒れ果てた街道が続いていた。
「これが……リヒトベルク街道……」
この道をひたすら進んでいけば、やがてリーディアにたどりつく。
リンネはその道中のどこかでセイに合流できると信じていた。
リンネは、歩き続けた。
荒れ果てた街道は遠く彼方にリヒトベルクの廃墟群が見えることを除けば、見通しの良い何もない道だった。
昨夜からの疲れのせいか注意力が散漫になってきた頃、リンネはふいに立ち止まった。
それを見つけられたのは、ほとんど偶然に近かった。
街道のずっと先に見える朽ち果てた馬小屋――そこにほんの一瞬だけ人影が見えたのだ。
リンネはすぐに岩陰に隠れ、様子をうかがった。
程なくして、それが見間違いではないことが分かった。
馬小屋には何人かの男たちが潜んでいて、時おり顔を出し、この街道を通る人間がいないかを確認していた。
男たちの正確な人数は分からない。だが武装しているのは確かだった。
彼らは、ガイゼルが送り出した先遣隊だった。
彼らは昨夜のうちに馬を使い一気に森を駆け抜け、この街道でリンネを待ち伏せしていたのだ。
リンネは、運がよかった。
何も知らずこの街道を歩き続けていたら、彼らにふいを突かれていた。
同時にリンネは、自分の状況に気がついた。
昨夜あの森の中で、ガイゼルはリンネを襲わなかった。
それはできなかったのではない。
あえてしなかったのだ。
深い森の中で一人の女を追うのは難しい。
ならばこの見通しのよいリヒトベルク街道で挟撃する。
それがガイゼルの立てた作戦だった。
事実、ガイゼルはすでに森を抜け出し、徐々にリンネに迫りつつあった。
リンネは、後にも先にも進めなくなった。
このままでは挟み撃ちにされ、捕らえられてしまう。
(だったら……だけど……)
リンネは、決断を迫られた。
岩陰に身を潜めたまま目をつぶり、呼吸を整える。
決断までに要した時間は、一瞬だった。
リンネはそっと岩陰を離れると、男たちに見つからぬよう来た道を戻るように走りはじめた。
リンネは、一つの賭けにでた。
極めて危険だが、上手くいけばガイゼルを撒けるかもしれない。
リンネの視線の先にあるのは――滅亡都市リヒトベルク。
異獣が跋扈する人外魔境の地。
決して立ち入ってはいけないその場所へと向かって、リンネは走り出した。
一方その頃――。
三十名からなる部隊を引き連れたガイゼルは、リヒトベルク街道を進んでいた。
ガイゼルは生あくびを嚙み殺すと腰袋から取り出した干し肉をゆっくりと咀嚼する。
休養は十分だった。
昨夜ガイゼルは、クレスタ側の森の入口付近で夜を明かした。
リンネが森に逃げこんだと気づいた瞬間、ガイゼルは無理に追わないことにした。
深い森の中では部隊を展開できず、この人数もただの烏合の衆と化す。
そのようなバカなことを、ガイゼルは決してしない。
ゆっくりと、時間をかけてもいい。
獲物の体力を削り、精神的に追い詰め、弱りきったところを捕らえる。
これは狩りの基本中の基本だ。
リンネが夜の間、何度も移動していたことを犬の報告からガイゼルは知っていた。
襲撃を恐れるあまり、満足に眠ることもできなかったに違いない。
(バカがよ。誰があんなところでてめえを襲うか)
リンネが逃げ回っている間、ガイゼルたちは酒を飲み、ゆっくりと休んでいた。
リンネが森の中を歩き回っていることを聞き、ゲラゲラと笑いながら。
そうして夜が明けてから、ガイゼルは動き出した。
森を最短距離で抜け、すぐにこの荒れ果てた街道まで出てきた。
森の中を大きく迂回するように進んだリンネとは対称的だった。
「おい、誰か先遣隊の様子を見てこい。途中で女を見つけても襲うなよ。その時は引き返してこい」
ガイゼルがそう命令すると、二人の男が駆けていった。
(くく……あの女を捕らえたらどうしてやろうか。ただ殺すだけじゃ気が済まねえ。あの澄ましたツラをぐちゃぐちゃになるまで叩き潰して、大勢の見ている前で犯してやる。その後はクレスタで公開処刑にするのも悪くねえ)
ガイゼルは残酷な笑みを浮かべた。
無論これはただの妄想ではない。ガイゼルは本当にやる男だ。
そのまましばらく部隊を進めていくと、先ほど送り出した二人が戻ってきた。
どういうわけか、先遣隊の男たちまで連れて。
「おい、何してんだ。なんで全員で戻ってきた」
「ええとですね……」
先遣隊の男がいった。
「女ですが、ずっと見張っていたのですがついぞ現れませんでした。そうしたらこいつらが来て……どういうわけか俺たちにもさっぱりなんです」
「ああ? 何だ、そりゃ」
リンネはこのリヒトベルク街道へと向かった。
先遣隊か先ほどの男たち、どちらかが必ず女と出くわすはずだった。
だがリンネは、まるで煙のように消えてしまっていた。
そんなはずはない。
「おい犬! 犬をここに連れてこい!」
仕方なくガイゼルは犬を呼び寄せた。
犬は地面を這いつくばりながら、何度も鼻をひくつかせた。
「メ、メス……間違いなくここを通った。メスのすけべな匂いが、まだぷんぷんしてる。だ、だけど、この先で方向を変えた……」
犬は鼻をひくひくさせながら、ある方向を指し示した。
その先に見えるのは――リヒトベルクの廃墟群。
化け物の巣くう国。
ガイゼル隊の男たちの顔が、思わず青ざめた。
「し、信じられねえ……リヒトベルクに逃げやがった……」
「い、異獣の巣窟だろ……」
誰もがあの場所を恐れているのは一目瞭然だった。
人間は誰しもが本能的に異獣を恐れる。
幼い頃からそう刷り込まれているからだ。
だが――そうでない者も一人だけいた。
ガイゼルだった。
ガイゼルは、不敵に笑っていた。
「くく……つくづくバカな女だよ。この俺が異獣ごときに恐れをなすと思ったのか」
それは虚勢ではなかった。
ガイゼルにとっては異獣も女と同じ――狩りの対象でしかなかった。
「面白えじゃねえか。そこに逃げこんだのがてめえの運の尽きだ。異獣もろともぶっ殺してやろうじゃねえか」
廃墟と化した街を、リンネが一人で駆けていく。
そこはリヒトベルクの入口。
空は陰り、先ほどから雷鳴が鳴り響いている。
リヒトベルク教国の入口にあたるその街は、かつてファズと呼ばれていた。
街は半壊した建物が密集しひしめき合い、その間をまるで幾何学模様のように狭い通りが走り抜けている。
一度入りこんだら出られない――さながら迷宮のように入り組んだ造りから、その街は迷宮都市とも呼ばれていた。
当然ながら、人の姿はない。
街は静寂に包まれており、時おり雷鳴が鳴り響くだけだ。
(嫌な感じがする……)
迷宮都市ファズに入ったあたりから、肌を突き刺すような、何とも嫌な感覚をリンネは覚えていた。
それが何なのか、リンネには分からない。
ただ誰かに見られているような、そんな気味の悪い感覚だけがリンネにまとわりついていた。
リンネはクレスタに来る前に、この地にあったリヒトベルクについて調べていた。
リヒトベルクは世界でも珍しい宗教を残した非常に小さな国で、国の総面積は中規模レベルの都市程度しかなかった。
だが一方で人口は非常に多く、滅亡する直前にはおよそ十万人がこの小さな国に住んでいたとされる。
遠景からでも分かるこの過度に密集した建物群は、それだけ狭い空間で人々が生活していたことを意味していた。
リヒトベルク教国は王である教皇が治めていた首都セトを中心に、外郭都市のファズがぐるりと円を描くように取り囲んでいた。
迷路のようなファズの構造は奥に進むにつれより複雑になっていくことから、リンネはファズの入口付近にとどまることにした。奥へと進み、もし首都セトまで入り込もうものなら、生きて帰れる保証はないからだ。
今のところ、近くに異獣の姿はない。
だが安心してはいけないことをリンネは知っていた。
異獣は群れで行動することが多く、ひとたび出くわせばあっという間に囲まれる可能性があるからだ。
リンネは周囲を見回し、ひときわ高い建物を見つけた。
半壊した建物は四階建ての構造となっており、リンネは瓦礫の山を踏み越えながら慎重に屋上へと上がっていった。
屋上からは、街を見渡すことができた。
見えるのは圧倒されるほどの建物の群れ、群れ。
迷宮都市ファズは想像以上に広く、そしてあまりに複雑だった。
(奥へと進んだら、たぶん出られなくなる……)
リンネはその場から動かず、じっと身を潜めることにした。
幸いそこからは、リヒトベルク教国の入口も確認することができた。
街道から教国に来るまでの長い道のり、そこを人が通れば、必ずここから見えるはずだった。
どれくらい、そうしていただろうか。
もしかしたらガイゼルは追ってこないかもしれないという淡い期待がよぎりはじめた頃――彼らはやってきた。
ガイゼルと、その大部隊。
(やはり……きた)
リンネは陰からその様子をうかがった。
(大丈夫。きっと見つからない……)
このおびただしい廃墟群の中からリンネを見つけ出すことは、砂の中から針を探すようなものだ。
(ここでじっとしていれば、彼らはきっと諦める……)
だが――。
ガイゼルは入口付近で立ち止まり、誰かと話しているようだった。
そして次の瞬間、ガイゼルがこちらを見た。
まるでリンネがそこに潜んでいるのを分かっていたかのように、はっきりと。
二人は、目が合った。
ガイゼルが、狂ったような笑みを見せた。
「――とうとう見つけたぞ。クソ女」
これだけ距離が離れているのに、リンネにはその声が、はっきりと聞こえた気がした。




