無残①
(……この臭いは何?)
倉庫に入ったリンネが最初に感じたのは、すえたような不快な臭いだった。
部屋の中は、ぼんやりと薄暗かった。
足元を注意しながら少し進むと、部屋の真ん中あたりに、木箱をイスがわりにして一人の男が座っているのが見えた。
かなり大柄な男だ。
目が少しずつ暗闇に慣れてくる。
そしてリンネは、はっとなった。
そこにいたのは昨日街で見た顔に傷のある男――ガイゼルだった。
リンネの体に、一気に緊張が走った。
この男を探すために、リンネはこの街に来たのだ。
だが一方で、こんなにも早く邂逅するとは思っていなかった。
ガイゼルは不遜な笑みを浮かべ、リンネを見ていた。
「……おどろいたぜ。どんな女が来るのかと思いきや、えれえ良い女じゃねえか」
ガイゼルは立ち上がると、無遠慮にリンネに近づいた。
リンネは、思わず後ずさった。
近くで見ると、かなり大きい。
その丸太のように太い腕で殴られたら、華奢なリンネなど簡単に壊れてしまうだろう。
ガイゼルはリンネを見下ろすと、まるで命令するように言った。
「……女、服を脱げ」
その言葉には、有無を言わさぬ圧力があった。
リンネは――何を言われているのか分からなかった。
ガイゼルの言葉に、理解が追いついていない。
ガイゼルは、もう一度言った。
「服を脱いで、さっさと股を開けって言ってんだ。てめえはそのために来たんだろうが」
「な、何を言っている。何の話だ……」
リンネは、ひたすら困惑していた。
(……この男は、何を言っている。私はカリーナさんの取引についてきただけのはずだ。……取引?)
恐ろしい考えが、ふいにリンネの頭をよぎった。
リンネは、カリーナを見た。
カリーナはリンネから少し離れたところに立っていた。
カリーナは、これまで見たこともないような、昏い笑みを浮かべていた。
「ごめんねえ、リンネちゃん。でも、あなたも悪いのよ。私みたいな女に、ホイホイついてきちゃうから」
「まさか……そんな……」
リンネは、カリーナを信じていた。
確かに怪しいと思うところがいくつかあった。
だが、まさか、こんな仕打ちをされるなんて思ってもいなかった。
リンネは、昔から他人を信用しすぎるところがあった。
ここにセイがいれば、おそらくカリーナの企みに気づいていただろう。
セイは、容易に他人を信じない。すべてを疑ってかかる。
だがリンネは、性格的にそれができなかった。
人間は生まれながらにして善であると、リンネは心から信じていた。
イストリム滅亡後、どれだけの悪意にさらされようとも、リンネは人という生物を信じていた。
そんなわけがないというのに。
人は誰しも利己的で、生まれながらにして悪であるというのに――。
ガイゼルは茫然とするリンネを見て、下衆な笑みを浮かべた。
「その様子じゃ、何も知らずにここに来たらしいな。だが、そんなの俺には関係ねえ。てめえの運命はもう決まっている。てめえは性奴隷として、一生ここで暮らすんだよ」
それはあまりにおぞましい宣告だった。
ガイゼルは奥の部屋に向かって声を張り上げた。
「てめえら、もう出てきていいぞ。新しいオモチャのお披露目だ」
ドアが開き、汚らしい笑みを浮かべた男たちがぞろぞろと部屋に入ってきた。
「ひゃは、新しい女だ」
「見ろよ、そそる体をしてやがる」
「早く犯してえ」
リンネはあっという間に取り囲まれた。
男たちは欲望にまみれ、今すぐにでもリンネに襲いかかりそうだった。
「あの……ガイゼル様、そろそろお支払いのほうを……」
カリーナが、小さな声で言った。
「ああ、そういや礼がまだだったな。いいぜ、来いよ。金は屋敷に置いてある」
ガイゼルはカリーナを連れて、倉庫を出ていこうとする。
その前にガイゼルが言った。
「てめえらはその女を裸に剥いて、鎖につないどけ。最初は俺がヤる。抵抗しようもんなら痛めつけていい。男の怖さを思い知らせてやれ」
ガイゼルは、そのまま倉庫を出ていった。
カリーナは、リンネのほうを見ようともしなかった。
「ま、待って――」
リンネは追いかけようとした。
だが男たちがそれを阻んだ。
重い扉が、音を立てて閉じられた。
「ひひ……キレイな顔をしやがって。めちゃくちゃにしてやる」
それは、無残な刻のはじまりだった。
カリーナは屋敷のホールで一人で待たされていた。
しばらくすると、ガイゼルが戻ってきた。
「ほらよ、今回の礼だ。持っていけ」
ガイゼルはカリーナの足元に麻袋を放り投げた。
カリーナはありがたそうにそれを拾った。
「ありがとうございます。ガイゼル様」
だがカリーナは、すぐに違和感に気づいた。
袋が、あまりに軽かったのだ。
カリーナは、その場で中身を確かめた。
そして、愕然とした。
中には、金貨が三枚入っていただけだった。額にして、たったの三万ルーブル。
「あの、ガイゼル様、これだけ……ですか」
「あ? 礼としては十分だろうが。何か不満か」
「そんな……あまりにも少なすぎます。あの子を見ましたよね。あんな綺麗な子、帝国中を探したって見つかりません。貴族様に売れば、きっと途方もない値がつくはずです。それがたったの三万ルーブルなんて、ヒューゴ様ならこの十倍以上は出してくれたはずです」
「それは、売ればの話だろ。俺はあの女を売るつもりはねえ。あの女はここで性奴隷にする。だからてめえにやれるのはそれだけだ」
「そんな……」
カリーナは、絶句した。
リンネをひと目見たとき、宝石のような娘が現れたと思った。
これならヒューゴが高く買い取ってくれる。
カリーナはリンネの信頼を得るため苦心した。相手との距離感をはかりながら、懸命に善き人を演じた。
それもこれも、すべて金のためだ。
それがたったの三万にしかならないのであれば、あの苦労は何だったのか。
「……ヒューゴ様なら、こんなことはしないのに」
それは、思わず漏れでた本音だった。
「何か言ったか、おい」
ガイゼルの顔が、変わった。
ガイゼルはカリーナの細い首を掴むと、ギリギリと締め上げた。
「てめえ、カリーナとかいったな。さっきからヒューゴヒューゴてしつけえんだよ。俺は八剣聖だぞ。本来ならてめえのようなド底辺のゴミが口をきける相手じゃねえんだ。それに、俺はヒューゴからここのすべてを譲りうけてんだ。ここの王は、俺なんだよ。その俺のやり方にケチをつけようってのか、おい!」
ガイゼルはカリーナの耳元で怒鳴り散らした。
「す、すいません。もう言いません。許してください……」
カリーナは、震えあがった。
ガイゼルは女が相手でも容赦しない男だった。
むしろ相手が弱ければ弱いほどより苛烈にいたぶった。
ガイゼルは怯えきったカリーナを突き飛ばした。
カリーナは硬い床にみっともなく転がった。
「ゴミクソが生意気いいやがって、本当にむかつくぜ。いいか、てめえらは俺の奴隷なんだよ。てめえらは俺に媚びへつらって、へーこらしながら生きてればいいんだよ。それがてめえらの人生なんだよ。分かってんのか、おい」
そしてガイゼルは恐怖から縮こまっているカリーナに顔を近づけ、言った。
「今度また俺に逆らってみやがれ。あの宿屋ごと潰すぞ」
ガイゼルはカリーナが金を欲している理由を知っていた。
そしてあの宿が命よりも大事であることも。
――この男には、逆らえない。
カリーナは、それをはっきりと悟った。
圧倒的な暴力による支配と屈服。
それが、ガイゼルという男のやり方だった。




