漆黒の襲撃者③
タニヤは廃坑の中を、落ち着きなく歩き回っていた。
セイが出て行ってからというもの、ずっとそうしている。
初老の男は、その理由を何となく察していた。
「……タニヤ。彼についていってもよかったんだぞ」
男がそういうと、タニヤの顔が一瞬で赤くなった。
「な、何いってんだよ。何であたしがあいつについていくんだよ」
「別に恥ずかしがることはない。彼はいい男だったし、年も近かったろう。お前が好意を寄せてもおかしくない。お前がついていきたいといえば、彼はつれて行ってくれたんじゃないか。今から追いかけたっていいんだぞ」
タニヤは今年で13になる。セイは見たところ成人したての15か16といったところだろう。
「ああ、もう、やめてくれよ。そういうのじゃないんだ。ただあいつが頼りなさそうだったから、道に迷っていないかとか、そういう心配をしていただけだよ」
そういいながらも、タニヤは耳まで赤くしていた。
その時、ふと、入り口のほうから物音がした。
誰かがこちらへ近づいているようだ。
タニヤの顔が、とたんに明るくなった。
「あいつ、戻ってきたのかな」
タニヤは小走りにかけていく。
しばらくすると、暗がりから男の顔がぬっと現れた。
タニヤの顔が、一瞬でこわばった。
――あいつじゃない。
そこに現れたのはガンツだった。ガンツはタニヤを見て、にやりと笑った。
「……見つけた」
ガンツはすかさず笛を鳴らした。すると暗がりから次々と兵士たちがなだれ込んでくる。
――やばい、逃げないと。
だが、もう遅かった。タニヤも、他の者たちも、あっという間に兵士たちの手でねじ伏せられてしまった。
「おうおう、汚ねえウジ虫どもがウジャウジャいるぜ。まったくこんなところに隠れてやがったとはな」
ガンツはタニヤたちを見下ろし笑っていた。その手には、昨晩タニヤが使った爆薬の欠片があった。
タニヤの顔が、一気に青ざめた。なぜここがバレたのか気づいたのだ。
爆薬――あれを使ってしまったことで、この鉱山一帯を調べられたのだ。
「……見つけたのか」
身なりの良い痩せぎすの男が、最後に入ってきた。
ガンツたちがすぐに直立不動になる。
「ザシャ様。鉱山から逃げた奴隷たちです」
「ふむ……」
ザシャは組み伏せられた奴隷たちをつまらなそうに見た。
「……それで、昨晩取り逃がしたという男は?」
ガンツたちはセイを探した。だがどこにもいない。
タニヤがはっと笑った。
「残念だったな。あいつはもう出ていった後だ。とっくに街を離れちまってるよ」
「このクソガキが。ザシャ様に舐めた口をきくんじゃねえ――」
ガンツはタニヤを蹴りつけようとした。
だがそれをしなかった。
ザシャが、そのギョロリとした目でタニヤを見ていたからだ。
「……女。イストリム人の女……まだ残っていたのか」
ザシャはタニヤの髪を無造作につかみあげると、そのまま引きずっていこうとする。
「い、痛い。やめろよ、はなせ」
タニヤの顔が苦痛にゆがむ。男たちがタニヤを助けようともがいた。だが兵士たちに押さえつけられ身動きがとれない。
「……その者たちは処刑し、晒しものとせよ。逃げた男は……もういい。興味を失った」
ザシャの目は、タニヤだけに注がれていた。
ガンツは聞いた。
「ザシャ様。その娘はどうするので」
「……イストリム人の女を見つけたのだ。久しぶりに……楽しませてもらうことにする」
感情の薄いザシャだが、この時だけは、愉悦からその唇が歪に吊り上がっていた。
その夜のこと。
ガンツは酒場で軽く飲み、ほろ酔いのまま一人で人気のない通りを歩いていた。
空には半月が浮かび、うすく霧がかかった街を照らしていた。
多少酔っているが、ガンツの足取りはしっかりしている。
その口元はどこかにやけていて、機嫌がよさそうだ。
奴隷たちの処分は、ガンツに一任された。
どのように殺してやろうか。それを考えるだけで、今夜はうまい酒が飲めた。
ガンツは大通りから裏路地へと入った。
そこは、霧がいっそうに立ちこめていた。
ガンツはそこで、ふと、足を止めた。
霧の中に、まるでガンツを待ち伏せするように、一人の男が立っていたのだ。
「……女たちのことを、教えてもらおうか」
男がいった。どこかで聞いた声だった。
(何いってやがんだ)
ガンツは顔をしかめた。
風が吹き、霧がゆっくりと消えていく。
そこにいたのは黒髪のイストリム人――セイだった。
「屋敷の中にいるんだろう。詳しく話してもらおう」
セイがゆっくりと近づいてくる。
ガンツは鼻で笑った。
「誰かと思ったら、てめえかよ。奴隷どもを囮にしてうまく逃げたと思ったら、バカだねえ。まだこんなところにいたのかよ」
「……何の話だ」
セイが低い声でいう。
「あのウジ虫どもだよ。てめえが逃げた後、全員捕まったぜ。男どもは明日まとめて処刑だ。女のほうは……くくく、今ごろザシャ様に可愛がってもらっていることだろうぜ」
ガンツはせせら笑っていた。
ガンツの位置からは、セイの表情が影になって見えない。だがそんなことはどうでもよかった。
ガンツは剣を抜いた。
「バカな野郎だよ、てめえは。あのままトンズラしてれば良かったのに、わざわざ俺の前に現れたんだからよ。せっかくだから、一足早く処刑してやるよ」
ガンツは剣を手に駆け出した。
(体中なます切りにしてやる。たっぷり痛めつけてから殺してやる)
セイは、動こうとしなかった。その顔をずっとうつむかせていた。
ガンツの剣の間合いに、セイが入る。
セイの口元がわずかに動いた。
「……馬鹿は、お前のほうだ」
黒い影が、ガンツの視界をよぎった。
何かが宙を舞っていた。
それは切り飛ばされたガンツの両腕だった。
「あ……あああ、俺の腕があ!」
ガンツは膝をつき叫び声をあげた。何がどうなってやがる。状況がまるで理解できない。
セイの手には、いつの間にか漆黒の刀が握られていた。
「……あの時お前を殺すことなどたやすかった。だが殺さなかった。なぜだか分かるか。我が民の行方が分からなかったからだ」
セイは、ガンツを見下ろしていた。
ガンツは、そこでようやく気付いた。
セイの全身に、赤い螺旋状のアザがはっきりと浮かび上がっていることに。
「まさか……そんな……てめえが……」
ガンツは、判断を誤った。逃げるべきだったのだ。セイを見た瞬間、脱兎の如く。
そこにいたのは、人の姿をした死神そのものだった。
セイは、ゆっくりと刀を振り上げた。
刃が、研ぎ澄まされた月に反射する。
「もうお前を生かしておく理由はない」
刀が振り下ろされた。
ガンツが最後に見たのは、芯まで凍りつくような冷たい目をした男の姿だった。
――ザシャの屋敷。
そのうす暗い寒々とした部屋にザシャとタニヤがいた。
タニヤの周囲には無残に引き裂かれた衣類が散らばっていた。
裸にされたタニヤを、ザシャはワインを片手に眺めていた。
「……イストリム人は下等な民族だが、やはり女だけは美しい。そなたのような奴隷がまだ生き残っていたとは知らなかったぞ」
ザシャは冷たい笑みを浮かべながらワインを口に含み、ゆっくりと舌で転がす。
タニヤは耐えがたい羞恥心を覚えながらも、何とか気丈にふるまおうとしていた。
「……あたしをどうするつもりだよ」
まだ子供のタニヤは、裸にされることの意味を分かっていない。だが激しい嫌悪感だけがあった。
「勇ましい物言いだ。まるで少年ではないか」
「ふざけんなよ、こんなことしやがって。いいからあたしの母ちゃんと姉ちゃんに会わせろよ。知ってるんだぞ、この屋敷にいることは」
「ほう……母と姉とな」
ザシャの眉がぴくりと動く。そして、タニヤをじっと見た。
タニヤは思わず身をすくませた。
その異常な目で見つめられ、にわかに恐怖を抱いたのだ。
何かを思い出したのか、ザシャの口角が吊り上がった。
「……知っておるぞ、そなたの顔。もうしばらく前になるが、そなたに似た娘がここに連れられてきた。その娘も私にいった。母に会わせてほしいと。私は、その願いを聞き入れてやった。私は慈悲深いのだ。二人は、今も共にいる。並んで、仲良くな」
それを聞いて、タニヤの中で希望が芽生えた。
母たちはやはりここにいるのだ。
「……会ってきてよいぞ。二人はこの部屋にいる」
「え……?」
タニヤは眉をひそめた。
薄暗く広々としたその部屋にいるのは、ザシャとタニヤの二人だけだった。
ほかに人の気配はない。
ザシャが含み笑いをした。
「……分からぬか。では、明かりを灯してやろう」
ザシャが片手をあげた。
その瞬間、壁際の蝋燭に次々と火が灯っていった。
暗がりで見なかったものが、タニヤの目に飛び込んできた。
「あ……」
タニヤは、言葉を失っていた。
その目は驚愕に見開き、顎がガクガクと震えた。
壁一面には、イストリム人の女たちがところせましと並んでいた。
串刺しにされ、剥製となった姿で。
苦悶。そして絶望。その表情が、生前の苦しみを物語っていた。
「あ……あ……母ちゃん、姉ちゃん……」
タニヤは悲痛な叫び声をあげた。
「……どうだ、美しい花々であろう。そなたもこれからそこに並ぶのだ。母と、姉のとなりにな」
ザシャの目は狂気に染まっていた。
「この娘に合う杭を持ってまいれ!」
入り口のそばに控えていた兵士が走っていった。
タニヤは、逃げる気力を失っていた。
ずっと会いたいと思っていた母と姉は、とっくに殺されていたのだ。
タニヤの目から涙がつたった。
幼いころに奴隷にされ、この国に連れてこられた。母を殺され、姉を殺され、そして自分も死ぬ。辛いだけの人生だった。
その時、入り口のほうから足音が聞こえてきた。
ザシャは振り返った。
「持ってきたか」
そこには、兵士がいた。
だが彼は何も持っていなかった。
ただひどく怯えた様子で、口をパクパクと動かした。
「ば、化け物――」
その瞬間、兵士の首がはね飛ばされた。
暗闇から人影が現れる。
そこには黒髪の昏い目をした男――セイが立っていた。
「……お前が、ザシャだな」
セイはその目でザシャを見すえ、いった。
「その命、もらいにきた」
セイが、ゆっくりと部屋に入ってくる。
部屋には裸にされたタニヤと、無数の女たちの剥製があった。
セイの中で、静かなる怒りがこみあげる。
ザシャが抑揚のない声でいった。
「……イストリム人。そうか、もしや貴様だな。ガンツが取り逃がした男というのは」
「……その通りだ」
セイは短く答える。
「そして、お前が探していた男だ」
それは、これまでの襲撃事件の犯人がセイであったことを意味する。
セイが、ゆっくりとした動作で刀を構えた。
「……覚悟するがいい。お前の命はここで終わる」
「私を殺す……だと」
ザシャがくっくと笑った。
「何がおかしい」
「いや……あまりにも貴様が哀れでな」
ザシャは鷹揚と両手をひろげた。その瞬間、それぞれの手から炎と電流が発生した。
「無知とは罪なものよ。かの戦争で『殺戮者』と恐れられたこの大魔導士を相手にそのような口をきけるのだからな」
ザシャがセイに向け右手をかざした。炎が燃えさかる槍へと変化する。
『ファイア・ランス』
優れた資質を持つ者だけが作り出せる炎。
「心臓まで焼けただれるがよい」
炎の槍が猛烈な勢いでセイに襲いかかった。セイは身をひるがえしそれをかわした。だがザシャはまるで予期していたかのように今度は左手を振るった。激しい電流が床を削りながら駆け抜ける。セイは舌打ちをするとそこから飛びのいた。
「くく、よけるのが精一杯か。その程度で私に挑もうなど片腹痛いわ」
ザシャの右手が動き、刹那の溜めをつくる。
次の瞬間、巨大な炎が生み出された。
セイの体を飲み込むほどの大きさ――先ほどとは明らかに威力が違っていた。
「死ぬがよい」
炎が、セイに向かって放たれる。直撃すれば間違いなく死ぬ。だがセイは、そこから動かなかった。
「よけられぬなら――切り裂くまで」
刃が閃光のような速さで振りぬかれた。
巨大な炎が一瞬で両断され、霧散する。
立ちこめる煙の中、セイの体に変化が起きていた。
まるで刻印のように、その全身に赤く輝く螺旋状のアザが浮かび上がっていた。
セイは再びザシャに向け、刀を構えた。
「お前のマナは俺には通用しない。いくぞ――」
タニヤは茫然と、二人の戦いを見ていた。
あの炎を切り裂く瞬間、セイの体に赤いアザが浮かびあがっていた。
それが何を意味するのか、タニヤには分からない。
イストリム人でも、そのような者は見たことがなかったからだ。
「なんと奇怪なアザだ。だが……それがどうしたというのだ」
ザシャは再び周囲に無数の炎の槍を生み出すと、セイに向け一斉に放った。
だがセイはそこから微動だにしない。もはやよけるまでもないというように、次々と燃えさかる槍を切り裂いていく。
「ならば、これならどうだ」
ザシャが左手をかざした。強烈な電流がほとばしり、一直線にセイへと駆け抜ける。
だが結果は同じだった。
当たると思った瞬間、空気をも切り裂くような一太刀が電流をなぎ払っていた。
「すごい……あいつ、あんなに強かったんだ……」
タニヤは思わず呟いていた。
タニヤから見たセイは、どこか頼りない印象だった。
だが、それは違っていた。
すさまじい勢いで放たれ続けるザシャの攻撃を難なく切り裂いていくセイは、タニヤがこれまで見てきた者たちと比べても明らかにレベルが違っていた。
セイは、ザシャの懐に飛び込む隙をうかがっていた。
その攻撃がひとたび止めば、セイは一瞬の内にザシャの首を狩りとるだろう。
だが――タニヤは名状しがたい不安を覚えていた。
ザシャが、まるで動じていないのだ。
その顔には、不敵な笑みのようなものが張りついていた。
「なるほど……イストリムに伝わる『魔切りの刀』か。まさかその剣の使い手がまだ生き残っていたとはな。雑兵ごときでは相手にならなかったわけよ」
「お前も奴らと同じ運命をたどる。もうすぐな」
セイは冷たく言い放った。だがそれを聞いてザシャは笑った。
「くく……その言葉、そっくり貴様に返してやろう」
ザシャの右手が、不気味な輝きを発した。その体内に宿るマナが、右手に集中しているのだ。
「では……見せてやろう。『殺戮者』の本当の力をな」
ザシャが、右手をひろげた。輝きは赤い炎と化し、セイの周囲を円を描くように取り囲んだ。
「あがいて見せよ……『無限炎壁』」
ザシャが右手を握りつぶす。それが合図であるかのように、セイの周囲に燃えさかる炎の壁が出現した。
セイは、それらをぐるりと見る。その表情に変化はない。
セイは刀を握りしめると、これまでと同様、難なく目の前の炎の壁を切り裂いた。
炎は霧散したかのように思えた。
だが次の瞬間、新しい炎がセイの前に吹き上がった。
「無駄なことよ。その炎は私のマナが枯乾しない限り燃え続ける。貴様らウジ虫どもを幾度となく焼き殺してきた私の大魔法だ」
炎の壁は、セイを焼き尽くそうとしていた。
タニヤのところまでも、その熱が伝わってくる。中は地獄のようになっているはずだった。
(ああ……駄目だ。あいつ……殺されちまう)
セイは、強かった。ザシャを相手に一歩も引かなかった。
だがザシャは、それよりも一枚上手だった。
ザシャはイストリム人との戦い方を知り尽くしていたのだ。
炎の中で、セイが膝をついた。
何かを呟いている。
だがよく聞こえない。
ザシャは、ただ笑っていた。
戦いは、もう終わった。あとは愚か者が焼け死ぬのをワインを飲みながらゆっくりと眺めてやろう。それが済んだら、次は小娘の番だ。いたぶり尽くしたうえで殺してやる。
周囲に異変が起こり始めたのは、その時だった。
どこからともなく不協和音が響き始め、大気がゴゴゴと音を立てて振動をはじめた。
――何事だ?
ザシャは眉をひそめ、周囲を見た。
ふいに――炎の中から声がした。
「……やはりお前らの使うマナなんて、こんなものか」
ザシャは、ようやくそこで気が付いた。
異変が、セイを中心に起こっていることに。
「"神威の力"よ。この炎を喰らい尽くせ」
その瞬間、セイから発せられた青い炎が、ザシャの作り出した炎の壁を飲み込んだ。
ザシャの炎は、一瞬にして消滅した。文字通り、まるでセイの炎に貪り喰われるかのように。
「私の炎が……な、何だ、その力は。貴様……いったい何をしたのだ」
感じるのは、おぞましいほどのマナの波動。
セイの体からは、目に見えるほどのマナがあふれだしていた。
それは、畏怖すべき力。
立ち昇る陽炎の中、セイがゆっくりと歩き出した。
「"神威の力"だよ……この地に眠るマナを呼び起こさせてもらった」
それを聞いて、タニヤははっとなった。
――"神威の力"。王の一族に伝わる神羅万象を操る力をそう呼ぶ。
(あいつ……まさか……)
だがその力は、タニヤが想像していたものとはまったく違った。
目の前のそれは、凶悪な力そのものだった。
「神威……だと。何だ、それは。何者なのだ……貴様は」
底知れぬ圧力を前に、ザシャはうろたえることしかできなかった。
セイは、冷たく笑った。
「……俺を、覚えていないか。俺は、お前を知っている。お前が我が祖国にしたこともすべてな。ずっと探していた。あの時の誓いを、ここで果たしてやろう」
「な、何を……」
その時ザシャは何かを思い出した。
「ま、まさか、あの時の……信じられん。生きていたのか」
「お前の敗因は、あの時俺を殺し損ねたことだ。お前は、手始めにすぎない。お前も、『八剣聖』の奴らも、皇帝ヴェネディクトも、すべてこのマナで喰らい尽くしてやる」
セイはザシャの正面に立つと、その手をかざした。
獰猛なる力が、その手に集中していく。
ザシャは、金縛りにあったかのように動けない。
そしてセイは、滅びの言葉を言った。
『灼熱』
その瞬間、青い炎が一気に解き放たれた。
数千度におよぶ業火が渦を巻きザシャに襲い掛かる。
ザシャはなすすべなく飲み込まれた。炎は轟音と共に火柱となり天井を突き破った。
炎の中、ザシャの断末魔の叫びが聞こえた。
だがそれも束の間、ザシャの体はあっという間に焼き尽くされた。
灼熱の炎は、ザシャからすべてを奪い去った。
この世にいた痕跡すらも、すべて。
夜が、あけようとしていた。
セイはイストリム人の奴隷たちと共に、街のはずれにいた。
遠くには、わずかに炎が上がっているのが見える。ザシャの屋敷はまだ燃え続けているようだ。
やがて、跡形もなくなることだろう。
奴隷たちは、茫然としていた。
セイに助け出されたことは分かっていたが、まだ状況を理解できていないようでもあった。
セイは小さな皮袋を取り出すと、初老の男にそっと握らせた。
「ここよりはるか南、人を寄せつけぬ霧深い峡谷の先に、我らイストリム人だけが暮らす名もなき村がある。そこに行けば、そなたたちを温かく迎えてくれるだろう」
皮袋の中には、わずかばかりの金が入っていた。
セイはそれだけをいうと、背を向け、いずこかへと去っていこうとする。
男は茫然と皮袋とセイの背中を見ていることしかできない。
「あ、あのさ――」
タニヤが、たまらず声をかけた。
タニヤは、ついていきたかった。連れていってほしかった。だが、続く言葉が見つからなかった。
ザシャの前で見せたセイの素顔、それは修羅の道を歩む者の貌だった。
戦う力のない自分は足手まといでしかない。タニヤは分かっていた。それでも――タニヤはついていきたかった。
セイが、立ち止まる。タニヤは勇気を出して踏み出そうとした。
だがその前に、セイがいった。
「幸せになれ、タニヤ。これからは静かに、平穏に暮らしていくんだ。そのほうがいい」
それが、セイの答えだった。
セイはタニヤがついてこようとしていることに気づいていた。
だから、その前にいったのだ。
タニヤの足が、止まった。そこから動けなくなってしまった。
何となく、心のどこかで分かっていた。ついていくことはできないのだと。
「あのさ――」
タニヤは顔をあげた。泣きたい気持ちだったが、それでも何とか笑顔を作ろうとしていた。
「……あんたの名前を、教えてくれよ」
考えてみれば、タニヤはセイのことを何一つ知らなかった。その素性はおろか、名前すらも。
セイは、一瞬の逡巡のあと、いった。
「……セイリッド。俺は名はセイリッド・ザナドゥだ」
やはり、とタニヤは思った。
それはイストリム人であれば誰もが知っている名であった。
だが他の者たちはその名に驚き、慌てて地面に膝をついた。
「……セ、セイリッド王子。そんな……まさか生きておられたとは」
セイは、どこか寂しげな顔をした。
「……国は、もう滅んでいるのだ。今の俺は王子でも何でもない……」
セイはフードをかぶると、そのまま何処かへと旅立っていった。
タニヤたちは、その姿が見えなくなるまで見送り続けた。
その戦いがいつか終わることを祈りながら――。
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