第191話 虚と実と
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ディオニューソスの魔力が高まって、神杖テュルソスに集まり、増幅される。振り下ろし? 高威力の魔力放出か? いや、それじゃディオニューソスっぽくない。となると――
「高出力の精神感応か!」
精神固定、というか脳内物質の分泌を安定させる魔法を使い、さらに魂力支配による情報の希釈を試みる。
このクラスの戦いじゃあまり使わない技術だけど、こういうのには有効だね。
ぐらっと視界が揺れた。吐き気がする。ディオニューソスの姿が複数に分裂して見えて、そのいくつかの顔がぐにゃりと歪んだ。
けっこう薄めたんだけど、それでもこれか。きついねぇ。虚実の区別がつかないや。
これ、配信だとどう見えてるのかね? たぶん、同じように見えてるんだろうね。
まあ、全部避けたらい――
「まったく、どういう仕組みでやってるのか知らないけど、それは私には悪手だよ」
『誰だ、この女』
『だれかのお母さんか?』
『つまり眼鏡人妻!?』
期せずして配信側の見え方が分かったね。まぁ、これは答えなくていいかな。答える意味がない。
私が私じゃなかった頃の、八雲ハロじゃなかった頃の母親なんて、リスナーは知らなくていいでしょ。
ただ、それはリスナーたちにとっての話。私は別だ。その顔を見ていると、色々と思い出すんだよ。ふつふつと湧きだしてくるんだよ。黒いものが。
「あーあ、せっかく楽しもうと思ってたのに」
『どしたん話きこか?』
『突然どうした』
『なんかぞわっとしたんだけど気のせい?』
無数の荊が迫ってくる。ただの蔓ばかりじゃなかったか。まあ、なんでもいいか。
「『黒死炎』」
視界が黒に染まった。ディオニューソスの姿もその内に呑まれて消える。同時に身体が重くなって、疲労感を覚えた。伊邪那美さんの炎だ。
でも百七十階層台でつかった時よりは消耗マシかな。一度使って名前による情報定義を行ったからだと思う。
黒の内から荊が飛び出してきた。これは幻。本物は燃え尽きて、ここまで届かない。ディオニューソスも同じく炎に包まれているだろう。
魂力の支配域を犠牲にして発動させた魔法だけど、このダメージでまた取り返せた。
でも思ったより少ないね。さすがに防御されてるか。
追撃に雷撃でも撃ち込んどこう。燃やしてる感覚的に、ここかな?
手ごたえ無し。どこまで感覚誤魔化されてるか分からないね。じゃあ、次は水攻めだ。どこにいるのか分からないなら、全範囲を纏めて砕けばいい。
宙へ舞い、黒炎を水へと変じて、渦と為す。奈落の業火の次は大海の力を酒と豊穣の神にぶつける。
『よ、容赦ねぇ』
『なんか怒ってない? 気のせい?』
『いや怒る理由なくね?』
怒ってはないさ。怒ってはね。
ん、抵抗する余裕はあるか。そこらへんは腐っても神だね。たぶん私が初めて魂力を支配して戦う領域に入った時と、対して力の差はないだろうに。
荊が伸びてくる。狙いは腹か。でも、流れの影響を受けてない。これは幻。ほら、すり抜け――
「カハッ……!」
幻の実体化能力!
そういうのもあるか!
また視界がゆがむ。水上に何人ものディオニューソスが見える。その顔は、やはりあの人だ。
たぶん幻惑との入れ替わりもできるんだろう。じゃあ渦潮は意味がないか。
渦潮を消し去り、再び元の白大理石の広場に戻す。床は穴だらけだけど。
しかし、ああ、怠い。黒炎の消耗だけじゃないね、これは。荊に毒でもあったか。
まあいい。治す必要もない。その前に殺せばいい。
再び雷の雨を降らせて本物を炙り出す。
「全部幻?」
猪口才な。ていうことは、後ろ!
「はい正解!」
空を切る音が耳元をかすめた。テュルソスの一撃だろう。
魂力支配によって情報を希釈すると、景色が揺らいで優男が現れた。抜き手を躱して槍を振るう。テュルソスを持つ彼の右手が宙を舞って鮮血をまき散らす。
このまま首を……ってわけにはいかないか。躱したはずの左手が獅子へと変じ、食らいついてきた。右腕が捥がれて着物が赤黒く染まる。
痛み分け、だと思ってるのかな。でもそれは、油断だ。
さらに一歩踏み込んで、頭突きを食らわせ、胸へと槍を突き立てる。
「っ……!」
足の痛みは、荊か。また視界がぶれてディオニューソスが増える。そうすれば当然顔はあの人になっているから、ますます遊ぶ気が失せる。どうやってでも、こいつを殺したくなる。
勢いのままに壁へ縫い付け、口内に魔力のチャージ。下がる間に飛んできた荊の幻は一応躱して、十分に距離をとる。
「これで終わりだよ。愚かな神、ディオニューソス」
チャージ時間は、十五秒。今のあれにはこれで十分だ。
幻が私を貫いた。実体化して、血が噴き出す。内臓をやられたみたいで血を吐いてしまった。
どうでもいい。もう終わりなんだから。
白大理石の広間が、よりいっそう純粋な白に染まる。音が消え去って、幻も飲み込まれ、そして塗りつぶされる。
この世に終わりが来るとしたら、もしかしたらこんな光景なのだろうか。もしそうなら、美しいとすら思える。だって、この白はあの人も、私も、全部塗りつぶす白だから。
世界に色が戻るに合わせて地上へ下り立てば、もうそこには私しか残らない。彼のいた証は壁に残った人型の跡ばかりだ。
部屋の中央に魂力の揺らぎを感じた。気が付けばそこには黄金のゴブレットがあって、その内から琥珀色の酒が湧きだし続けていた。琥珀色は、見る間に溢れて真っ白な床を濡らしていく。
ヘパイストスの階層にあった白ワインなんて比較対象にもならないほどの力を感じる。なるほど、大蛇の火酒すら凌駕しているのはさすが神酒、ネクタルか。
これなら私が飲んでも効果があるんじゃないかな。大迷宮でもないのに、驚きだよ。
「ハロさん、終わったんですか……?」
「ああ、うん。終わったよ」
ついでにちょっとだけスッキリした。スッキリしてしまった。
まったく、嫌になるね。思ってた以上に燻ぶってたらしくて。
とりあえず、配信終わらせちゃおうか。もう見せるものはないから。
「というわけで、今回の配信はここまで! いやぁ、ほんと性格悪くてめんどくさい神様だったねぇ。次の配信は、まあ、気が向いたら! じゃあねー」
『おつハロー』
『唐突な終わり!おつはろさまでしたー』
『おつおつ』
『生きてる間に次があると嬉しい』
はい終了っと。
ふぅ、これで依頼は完了か。長かったねぇ。
「神酒はあれだよ」
ファウロスに背を向け、ゴブレットを指さしてやる。
「たぶん、拾い上げたら酒の放出も止まると思うか、ら……?」
不意に感じた痛み。その出所、胸の辺りを見下ろすと、見覚えのあるナイフが生えているのが目に映った。




