第183話 底なしの湖
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五日ほどが過ぎて、百八十階層、守護者の間。主人のいなくなった森の中で伸びをして、固まった体をほぐす。ファウロスは、ちょうど起きたみたいだね。まだ意識がはっきりしてないみたいだけど。
この百八十階層に到達して守護者を倒したのが昨日。その守護者はエーゲ海の島々をいくつも跨げそうなくらい大きな蛇だったけど、強さ的には特筆するようなものじゃなかった。神話的に聖獣だろうし、それに見合った魂力支配能力は持ってたけど、百五十階層の獅子程じゃない。百六十階層や百七十階層の守護者もそう。たぶん、出雲大迷宮の八岐大蛇のような特殊な立ち位置だったんだろうね、あの獅子。
そんなわけで若干不完全燃焼気味ではあるけれど、まあ、そのお陰もあってサクサク進めてるから良し。何よりファウロスの精神が安定してるし。
安定してるというよりは覚悟を決めた感じもするけど。どういった覚悟なのやら。
「おはようございます、ハロさん……」
「おはよう。眠そうだね」
精神的な疲労を思えば当然かもしれないけど。殆ど抱えて移動してるから肉体的疲労は、自分の足で歩くよりはマシだろう。でも、彼からすれば死の具現に等しいほど強力な魔物達が跋扈する中にいるんだ。精神的な疲労は計り知れない。
「なんだったらもう少し寝ててもいいよ? 朝ご飯は私が作るからさ」
「いえ、大丈夫、です」
ふむ。まあいいか。
とりあえず水を出してやって顔を洗わせる。若干呂律の怪しい礼だったけど、幾分かマシな顔つきになったね。
「ハロさん、昨日の蛇って食べられるんですよね。出してもらってもいいですか?」
「あいよ」
朝だし、五キロ分もあれば良いかな。時間も掛かっちゃうだろうし。
下処理はテキトーに手伝うとして、あとはお任せだ。手持ち無沙汰だし、色々確認しておこうかな。
夜墨からは、特に何も無し。イリニちゃんの体調は良くも悪くも変わりないらしい。配信周りでも気になる話はないし、あいつが動いてる様子もない。
ふぅむ、何にも無いね?
何かあるとも思ってなかったけど。
ん、もう良い匂いがしてきた。相変わらず手際が良い。炒めて何かのソースを絡ませただけのシンプルな料理とはいえ、蛇なんてそうそう使う機会ないだろうに。
「そういえば、蛇には特に忌避感とか嫌悪感とかないんだね」
「薬に使うこともありますからね」
「それもだけど、宗教的にさ」
キリスト教で蛇の類いといえば、悪魔に属するようなものだし。そういう意味じゃ、龍である私も良くないものになるんだけども。
「ああ。昔はどうだったか知りませんけど、今はそんな印象ないですね。寧ろ、いい印象の方が強いです。アスクレピオス神様の杖にも巻き付いてますし」
「なるほどね」
食前の祈り的にキリスト教文化が強いのかと思ったけど、信仰としてはギリシャ神話の神々に向けるものの方が強いわけだ。少なくとも、あの町ではだけど。
なんて言ってる間に焼き上がったみたい。味は、淡泊だけどしっかり甘いとても素晴らしいものだった。
腹ごしらえも済んだところで、いざ百八十一階層へ。半透明の階段を上り、空間の途切れた先に顔を出すと、また同じような森と大きな湖が見えた。周囲の森は、殆ど幻のようなもののようで、空間的な広がりは感じない。
ふむ、危険はなさそう。とりあえず配信始めようか。
ファウロスを呼んで、配信開始っと。
「ハロハロ。今日もまきでいくよ。昨日の続き、百八十一階層から」
『ハロハロ。早起きだなぁ』
『はろー。森に、でっかい湖か』
『こんにちは ディオニューソスで湖ってなると 母親を助けに行く話ですかね?』
例によって凄まじい勢いで流れる挨拶コメントに軽く目を通しながら湖の方へ向かってみる。木々や花々を映し太陽の光に煌めく綺麗な湖だ。
水面を覗きこんでみると白髪の女性が金の龍眼で見つめ返してきた。いつもの無表情で、独りでに笑うなんてことはしない。底は、見えないか。
コメントでも来てたけど、ディオニューソスがその母親、セメレーを助けに冥府へ行く話に準えた階層だろう。
「これさ、やっぱ潜らないとだよね?」
『神話の通りならそうだな』
『底なしの湖に潜って冥府に行ったんだっけ』
私はともかくとして、ファウロスは大丈夫かな? パニックになられたら面倒なんだけど。
「えっと、大丈夫です、たぶん」
ガン見してたら目を彷徨わせられた。ただの人間ならこれが正常な反応な気がしないでもない。
「息はできるようにするし、なんなら体全体を空気の膜で包むけど、どうする? 抜けるまで寝ててもいいよ」
個人的にはそっちの方が楽かも知れない。
『寝る=気絶な気がして生らない』
『それは 本当に 寝てるんですか?』
「気絶の方が眠ってる時間長そうだし、簡単に起きないだろうし、させるのも楽だよね」
ファウロス、どうして頬をヒクつかせてるんだい?
あ、起きてる。そっか……。
まあ起きてるというのなら仕方ない。空気の膜で包んでやって、いつも通り抱える。いわゆるお姫様抱っこだ。
「それじゃ、行くよ」
「は、はい……!」
水の冷たさを感じると共に気泡の踊る音が耳元を覆う。全身に感じる確かな浮力は、たぶん、幻ではないだろう。
瞬膜越しに見える水中はまだ光が届いていて明るい。これだけの透明度なら視覚での索敵も難しくない。ファウロスの精神衛生上良いことだ。
『すり鉢状?』
『けっこう水草もあるね』
『あ、魚 普通の魚ぽいな』
『すり鉢状っぽいなぁ、この先が冥府か』
予想通りならね。思い込むのは危険だけど、ディオニューソスの神話は素直だし、たぶん間違ってない。
下に行くほど当然暗くなってるし、この環境での戦闘となると大変だろうね。魔法も使うものを選ばないと自爆しかねないし、うっかりファウロスを巻き込んで死なせちゃうなんてこともありそう。
まあどうとでもするけども。




