第179話 なかなか思うようにはいかないもので
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ディオニューソスの迷宮、その百三十階層に戻ってきたのは、翌日のことだった。本当ならもう一日ゆっくり休んでから再開するつもりだったんだけど、イリニちゃんの呪いが悪化しちゃったからね。じっとしていられるファウロスじゃない。
「さて、行こうか」
配信開始の挨拶もそこそこに、今もソワソワしてる彼を促して百三十一階層へ進む。昨日までの余裕は消え去っていて、一桁階層の頃のような硬さが戻ってしまっていた。違うところを挙げるなら、気がはやってるところ。今も私より前に出ようとしたのを制する必要があった。
落ち着けと言ってどうにかなるものでもないし、ペースアップでいくらか安心させてやるしかないかな。
――なんて思ってたんだけどもなぁ。
『これは、船の上?』
『甲板だな 船員はいなさそう』
『海だー!』
『ハロさんの魔法と相性良さそうですね』
まあ、戦闘って意味じゃ相性は良い方だろうね。海神である宗像三女神の力を取り込んでるわけだし。
問題なのは、船の上ってことと、この階層のルール。
龍の目にはそのルールを生み出す魔法が船の周囲にはっきり見えてるんだけど、他の人たちにも分かりやすくしてあげた方が良いかな。
というわけで、愛槍を取り出しまして、甲板の中央辺りまで行きまして、ほいっと。
『なぜに急にやり投げ?』
『魔物でもいたのかって、え、』
『今後ろから?』
『見間違いじゃないよな 後ろから飛んできたよな』
『ナイスキャッチだけども、説明がほしい』
単純な話だ。この船から一定距離離れると、反対側に転移させられるようになってる。空間がループするようにねじ曲げられてるんだ。
「つまり、ここから先は迷宮の定めた通りのスピードでしか進めない」
スペックでごり押しできないなんてねぇ。しかもこの感じ、船に内部は存在しない。つまり甲板エリアしか存在しないわけで。そうなるとファウロスを避難させることも、地の利を活かして無駄な戦闘を回避する事もできない。
「仕方ない。何かあるまでお喋りでもしてようか。ファウロスも座ってな」
「っ! ……はい」
何か言いたげだね。いや、気持ちは分かるよ。一刻も早く進みたいのにこの状況はね。私だって想定外だ。
あー、めんどくさい。人に気を遣うって、本当にめんどくさい。
それから数日。定期的に魔物が襲って来る以外は特に何事もなく、座ったまま魔法を撃つだけの日々が過ぎた。時折妙に風の強いタイミングがあったけど、それも魔法で無理矢理どうにかできる範囲。ただの船旅。コメント欄で何度そう言われた事か。
ファウロスは、やっぱり落ち着きがないね。船を進む先をチラチラ、こちらをチラチラ。時折縋るような目を向けられちゃあどうにかしてあげたくはなる。でも、どうにもできない。全力が出せる状態ならあの魔法も突破できなくはないだろうけど。
幸いなのは、ご飯はちゃんと作ってくれることかな。ちゃんと美味しいヤツ。食材は向こうから来てくれるし。まあ、そうやってどうにか平静を保とうとしてるのかも。
「今何階層なんでしょう」
「んーっと、百三十九階層かな。もうすぐ百四十階層」
一応区切りはちゃんとあった。これまでと同じように光と魔物だけ遮断するような空間の断絶みたいなのが。ファウロスが寝てる間に通り過ぎたものもあったから、分からなくなるのも仕方ない。
「これ、いつまで続きますか?」
「さあ、どうだろうね。運が良ければ次の守護者で終わりだと思うけど」
森があれだけ続いたことを思うと、正直期待はできない。
どうしようか。船旅が終わるまで眠ってて貰うのも手かな? 娘の命が掛かっていて、時間をかけるほどに長く苦しませるなんて状況、彼のような只人には相当なストレスだろうし。
なんて考えてる間に船首が消えた。百四十階層に入るらしい。守護者の領域だ。倒したら一回ご飯食べないとかな。お酒も欲しいけど、さすがにファウロスの胃に穴が空いちゃいそうだから。
まあいいや。船上階層で数少ない時短ポイントだ。ちゃちゃっと倒して精神安定剤代わりにしよう。
「ファウロス、そこにいて。片付けてくるから」
このタイミングなら一瞬置いていくくらい平気だ。障壁だけは張っておいて先んじる。既に百四十階層に入った船首の上へ立つと、三日月型になった島の入り江の中央へ進んでいるのが見えた。
島には木々が生い茂っていて、小高くなってる地形も見える。魔法の内側に全て収まってるから、足場にしろってことだろう。広さは、入り江部分だけで野球場くらいはあるね。そうとう大きな守護者がいそうだ。
船はまだ甲板部分が少し入ってるだけ。中央の足場って意味で船が止まるのを待つのが正解だろうけど、精神干渉の範囲にファウロスを入れたくないし海上へ躍り出る。
穏やかな海面、入り江の中央付近に降り立つと、足下深くから迫り来る気配があった。
「おー、大きなイルカ……、いや、それってもう鯨じゃない?」
『たしかに』
『でもまあディオニューソス関連だしイルカなんだろうなぁ』
『これはちょっと可愛くな、いや、可愛い。。。?』
スジイルカ、かな? 全体的に灰色っぽい体のお腹側半分が白っぽくて、赤い目のあたりから胸びれの方にかけて緑色の筋が二本ある。体長はちょっとしたビルくらいありそうだ。それが飛沫を上げながら飛び出してこちらを睨むんだから、可愛いという感想は浮かびづらいかもしれない。
海中の魂力は全てあのイルカが支配しているみたい。ここから陣取り合戦を始めなきゃいけないわけね。
まあ、余裕ですが。
再び海中へ消えるのを見送りながら、水深数十メートルまでの支配権を一気に奪い取る。そして魔法発動。その内の全てを氷へと変える。
理の上書きではなくて単純な氷結だ。当然体積は増加し、山となって聳え立つ。大イルカの姿は、その氷山の中央にあった。
忌々しげにこちらを睨む様は、なるほど、己の運命を察したか。
「――っ!」
『なんか口パクパクさせてね?』
『わ~ すずしそ~』
『うるさっ』
『相変わらずでたらめw』
ふむ、今の音は聞こえてない人の方が多いか。イルカだし、超音波くらいは使うよね。ただの超音波でなくて精神に干渉するものみたいだけど。
「ごめんけど、もう対策済みなんだ」
十階層でも私に一部影響を与えるくらいの力はあったんだから、当然だ。人にかけられるようなものではないけども。
「そろそろファウロスが入ってくるね。じゃあ、終わらせようか」
魂力の性質を利用した、物理的な影響範囲の拡張魔法。それを槍を対象に発動して、構える。そして、一閃。
拡張された斬撃は氷山を断ち、イルカの守護者を両断して、その向こうの丘すらも二へ分かつ。残ったのは、穏やかな地中海の入り江と氷山。そして今し方入ってきた弱々しい命の気配ばかりだ。
氷を水へと還し、徐々に減速しながら近づいてくる船を迎える。もう障壁は解除済み。ファウロスも戦闘が終わっているのは察してるだろう。わざわざ意識的に圧勝したんだし、多少は落ち着いてくれたらいいんだけど。




