第166話 ゲストを連れて
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ディオニューソス。バッカスの名でも知られ、インド神話のソーマと同一視されることもある神格。主神ゼウスの子であり、ミノタウロスの神話で知られるアリアドネーの夫が彼の神だ。
時にはヘスティア神よりその座を譲られ、オリュンポス十二神に名を連ねたとされることもある。その司るところは、神々の仲間入りをするまでの逸話から、豊穣と葡萄酒、そして酩酊なのだそう。私たちの求める『神の酒』を所有する存在として、なかなかに相応しいんじゃないだろうか。
うん、ファウロスに手を貸すことにしたんだ。正直私には関係ない話なんだけど、神の酒、ギリシャ神話ならばネクタルだろうそれに興味があったから。
なんてのは半分建前。無垢な子供は割と好きなんだよね。その子供の方は夜墨に面倒を見てもらっているから、今この場にいるのは、私とファウロスの二人だけだ。
「ここがそう?」
「はい」
灰褐色の草が生い茂り、白い砂の地面や石垣の残骸が顔を覗かせる中、突然現れたのは、白い石造りの神殿だった。入り口まで続く道にはディオニューソス神や雄鶏を象るレリーフの施された石柱が連なっていて、その上に男の人のアレをモチーフにした石像が鎮座している。
ここが噂に聞くディオニューソス神殿らしい。
「それじゃ、配信始めるよ。さっきも言ったとおり、諸々は私が対応するから緊張しなくて大丈夫」
「わ、分かりました」
ダメだこりゃ、ガチガチ。まあ、やってるうちに慣れるでしょ。
とりあえず始めちゃおう。ギリシャ神話エリアでの初配信だ。
カメラの位置は正面、他の設定は、変えなくて良いね。よし、配信開始っと。
「ハロハロ、八雲ハロだよ」
『お、はじまった』
『ハロハロ。今回はどこだ?』
『こんちゃ。そこはかとない地中海臭。』
『てか後ろの人誰』
ふむ、同接はだいたいいつも通り。コメント欄の顔ぶれも同じく。エリア初配信の反応ではないか。
「地中海で正解。ギリシャのデロス島ってところだよ。後ろの彼は、今回の依頼人というか、実質、護衛対象かな」
ほれ、自己紹介したまえ、と目線で伝えてやる。伝わるかな? あ、伝わった。
「ファ、ファウロスです! おせ、お世話になります!」
『うむ、初々しいぞ』
『よろよろ』
『裏山。まあ、ハロさんに全部任せておけば大丈夫』
案外否定的なコメントは少ないね。いくつかはあったけど、これは、私がアイドル売り的なことしてないから、かな。良き良き。
「というわけで、今日攻略する迷宮はここ。かつてディオニューソス神殿があった場所にできた迷宮だよ」
『ディオニューソスってあれか、酒の神』
『知らん神だ。酒って聞くとソーマとかバッカスくらいしか知らん』
『バッカスとディオニュソスは同じだぞ。あとソーマと同一って説もある』
『毎度毎度みんな詳しすぎん???』
本当に詳しいよね。説明しなくてもいい分凄く楽だし、これからも解説してほしい。リスナーがコメント欄どれくらい見てるのかって問題は、みんな私が説明サボりがちって知ってるから……。別スレッド作って纏めてくれてる人もいるし。なおモデレーターではない模様。
さて、導入はこれくらいにしようか。カメラを後ろに回してっと。
「じゃあ行こうか」
石柱の間を抜け、神殿の内に入る。思ったほど華美な装飾はない。ヘレニズムらしくはあるけど、どちらかといえば殺風景な方だろうね。ヨーロッパの美術館的な感じ。ファウロスのコツコツという足音ばかり響いてるところも含めて。
迷宮の入り口は、中央にある大階段の先みたい。下からじゃよく見えないけど、空間の途切れたような気配を感じる。
「右後ろあたり歩いてて」
「分かりました。この辺りでいいですか」
「うん、ばっちし」
一応、彼の利き手側が空いてる方がいいでしょう。ぶっちゃけ大して変わらないだろうけど。
階段を上るに従って視線が高くなると、柱の先に渦巻き状の装飾が見えた。イオニア式だったっけ。世界史の教科書で見た覚えがある。
「げっ」
うん、まあ、予想していて然るべきだったか。思わず声出しちゃったけど、ディオニューソスの神話が元になっているだろう迷宮なんだから。
『森か』
『森だな』
『森が見えるね。ハロさんドンマイ』
まあ仕方ない。適当なところまでファウロスは抱えていこうかなんて考えてたけど、諦めよう。迷子になるから時短にならないや。
「あの先が迷宮だよ。いつ魔物が出てもおかしくない。けどまあ、緊張しすぎてももたないからね。ある程度気軽にいこう」
「気軽に、ですか……」
さすがに難しいかな?
「私の感覚から逃れられるようなのはいないだろうから、大丈夫大丈夫」
大迷宮には及ばないくらいみたいだし。とはいえ、それに準じる程度の難易度はありそうだ。それに、私自身弱体化している。先の魔族戦のおかげでいくらかspは稼げたけど、それでもまだ四割には届かない程度の力しか出せない。油断せずにいこう。
境界を越えた瞬間、静謐だった空気を濃い緑の香りが満たす。ファウロスの革靴が出すのも柔らかい音に変わって、風に葉の擦れる音へ紛れてしまった。
次の階層の入り口がある方向は……。やっぱりはっきりは分からないか。勘で進むしかなさそう。
「どっちに行きたい?」
「えっ。じゃ、じゃあ、こっちで」
ふむ、やや右よりの正面か。たしかに他の方向よりは少し明るい。草木が深く生い茂っているのは変わらないけど。ていうか日照条件と樹木の分布ってちゃんと再現されてるんだ。他より陽樹の低木が多い。ゆっくり観察することが少なかったから気付かなかったよ。
まあ、魂力の性質から生じたものではあるだろうし、再現されてない方がおかしいか。
「どうかしましたか?」
「ああいや、何でもないよ。進もうか」
ちょっとぼーっとしちゃった。ファウロスは散歩気分ってわけにはいかないだろうし、不安だよね。
でも魔物の気配も遠いし、しばらくは本当にお散歩かな。




