第165話 悪魔の気配
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下位の吸血鬼なら一瞬で灰になってしまいそうな日差しの中、迷いに迷ってようやく辿り着いた外周の壁の上に立つ。手をかざすと、丘をいくつか越えた先に白を塗りつぶす黒の群れが見えた。
ひーふーみーよー、いつ、むー、なな……うん、なんかいっぱい。この町の戦力を滅ぼすには十分そうだね。あんなの来たらお昼ご飯どころじゃなくなっちゃう。
というわけで、だ。
「殲滅しようか」
宙に足をかけ、一気に飛翔する。目標は約二キロ先。空を翔けるなら一瞬だ。
「やあ、元気?」
「なんだっ!?」
おーおー、これだけ魔族がいると壮観だね。眼下に見える範囲だと八割がたが魔人かな。
とはいえ強そうなのはいない。今の私でも、消滅させるだけなら大規模の魔法をいくつか打ち込むだけで十分だろう。
でもまあ、静かに片付けよう。せっかく町の人間達は平和に日常を暮らしてるんだ。それを壊すこともあるまい。お昼ご飯の完成が遅れるのも嫌だしね。
「ハロハロ。初めまして。八雲ハロだよ」
「なっ、お前が!?」
「それじゃあ、さようなら」
落下しながら愛用の白槍を顕現し、巨大化させる。
そして着地、同時に横薙ぎ一閃。全滅はさせられなかったけれど、半数が真っ二つだ。ってありゃ、いくらか生きてる。大抵の生き物なら即死なのに、しぶといなぁ。
じゃあ、燃やそうか。
「終の焔、迦具土」
大地が炎と化した。見渡す限りを紅蓮が包む。町から見えない範囲に調整はしたけれど、それでも十分すぎるほどに広大な範囲が灼熱の野となる。いつかの昔、令奈が見せた大魔法だ。
とは言ってもこれはあの時の現象をそのまま情報として込め、具現化したに過ぎない。きちんと手順を踏めばもっと威力は上がるだろうし、言霊だけの簡略版だって今の令奈ならもっと強力に発現させるはずだ。
まあ、死に損ないの魔族たちを灰に変えるには十分だけど。ついでに槍の範囲外にいたやつらもいくらかは片付けられた。
生き残った十か二十程度の魔族へ歩み寄れば、その中の一人、明らかに他より格上と分かる個体が忌々しげな視線を向けてくる。睨んでいると言っても良い。でもそんなに怯えなくてもいいのにね。
「化け物め……!」
「化け物、ね。そんな異形の姿をして、悪魔やらなにやらって呼ばれてる貴方たちがよく言うね」
もっとも、特定の時代を除けば悪魔ほど人間に近しい姿で描かれるんだけど。逆に天使の方が異形の姿に描かれてることも多いし。
「貴方たちがどういう意図で動いてるかは知らないけどさ、私のお昼ご飯の邪魔はさせないよ?」
ホントは目的もだいたい分かってるけど。
「……引くぞ、お前ら。もう十分に役目は果たした」
ふぅん? それで本当に引くんだ。
じゃあ私に追う理由はないね。めんどくさいし、お腹空いたし、さっさと戻ろう。道に迷っちゃったせいで約束の時間ギリギリだし。
「ただいま。ごめんよ、道に迷っちゃってさ」
あ、良い匂い。これはオリーブオイルにニンニクだね。白身魚やタマネギの甘い匂いもする。それと、じゃがいもかな?
ファウロスは、まだキッチンか。
「お、おかえりなさい。どうでした?」
「活気があったね。良い町だと思うよ」
少し酸っぱい匂いが混ざった。瞳孔は僅かに開いてるし、若干声も振るえてたね。
「そっちは何も無かった?」
「えっ、いや、何も無かったですよ。料理してただけですからね」
「そりゃそうか。しかし、建物の中は涼しくていいね。外はあんなに暑いのに」
ふむ、ファウロスって嘘が苦手なのかな? 話を変えた瞬間そんなあからさまに息を吐くなんて。
「でしょう? 外壁が白いからだそうですよ。……よし、完成です。今並べますね」
「手伝うよ」
まぁあまり突っついても可哀想だし、ご飯に集中しようか。彼も多少は戦えるっぽいけど、この程度にどうこうされはしない。つまりは些事だ。そんな些事で十全に楽しめないだなんて、美味しいご飯に失礼というもの。というわけで、悪趣味なあれこれは忘れることにする。
「美味しそうだね。これはなんて料理なの?」
「鱈のビアンコとそら豆のオイル煮ですよ。パンはおかわりもあるので、足りなければ言ってください」
「うん、ありがと」
ビアンコっていうとパスタのイメージがあったけど、そうじゃないのもあるんだ。白って意味の名前どおりの見た目だね。オリーブオイルとニンニクの香りの中にほんのりレモンも香っていて美味しそうだ。
「じゃあ、いただきます」
ファウロスは一瞬きょとんとしていたけど、何か察した様子で食前の祈りを始めた。文言からしてキリスト教のそれだ。思っていた以上にしっかり信仰が残ってるのかもしれないね。
さて、彼の祈りも終わったみたいだし、冷めきる前にいただこうかな。まずはビアンコの鱈から。
「ん、美味しい」
煮物だと思うんだけど、蒸し焼きみたいに仕上がっててホクホクだ。鱈自体の甘みとじゃがいものデンプンが溶け出したソースもよく合う。とろみが強いぶんしっかり絡んでるし。乳化も上手い具合にされてて、レモンのさっぱり感と合わさってしつこさは感じないね。
で、これが口の中に残ってるうちにパンをパクりと。うむ、やはり正義だったか。じゃがいもや白身魚の甘みとオリーブや胡椒の香りってなったら、合わない筈がないのだよ。口内調理の文化がある地域では無かったような気もするけど、その辺でとやかく言われる場でもあるまいし。
次はそら豆のオイル煮だね。こっちもオリーブオイルを惜しみなく使った料理だね。豆はさやに入ったまま。色味の鮮やかなところを見るに、味に影響しない範囲でレモン果汁を入れるか何かしてあるんだろう。下茹でしてるのは見ていたし、灰汁は抜かれてるはず。
どれどれ……。ん、こっちはかなり優しい味だね。うっすらハーブが香ってて青臭さは感じない。豆とタマネギの甘みを邪魔するものがないから、安心して楽しめる。それに若い豆を使ってるみたいで鞘も柔らかいから、なかなか食べやすい。
これは満足度が高いぞ。当たりだ。下拵えが手慣れてる感じだったから元々期待はしてたけど。ていうかお酒が欲しいな?
「お口に合ったみたいで良かったです」
うむうむ、もうバッチリ合いましたとも。
明日か明後日には出立するつもりだったけど、もう少しのんびりしても良いかもしれない。
――お?
「お父さ、けほっけほっ……」
「イリニ! 寝てないとダメじゃないか!」
ファウロスが慌てて駆け寄ったのは、小学生くらいの女の子だ。母親似なのだろう。茶髪に濃褐色の瞳で、どことなくファウロス面影も見えるという程度。言われなければ親子と気付かれないこともありそう。彼女は寝室に繋がっているらしき扉を半開きにしたままドア枠の部分に寄りかかっていた。
「大丈夫。今日は、ちょっと調子いいから。こほっ……」
「薬を飲んだばかりだろう? もうじき眠気がくるから、横になってなさい」
察するに、流しにあった使用済みの食器は彼女が使ったものかな。煮込んでる間に食べさせたんだろうね。
「うん。……お客さん? 変わった服」
「イリニちゃん、だったね。お邪魔してるよ。これは着物っていう、ずっと遠くの国の服だね」
目線を合わせて微笑みを作るついでに、瞳を覗き込んでみる。くっ、可愛い。……ではなくて。
――ふぅむ、なるほどね。これは厄介。そして悪趣味だ。
「さっき話した、お父さんを助けてくれた人だよ」
イリニちゃんはファウロスにしがみ付いたまま、お礼を言ってくれた。本当になんなんだこの可愛い生き物は?
抱えられて寝室に戻るイリニちゃんを見送りながら、匙を手に取る。食事を再開してみたけれども、思考に没頭してる分さっきよりは味気ない。
「すみません、食事中だったのに」
「いや、大丈夫だよ。……先に言っておくけど、あれは私じゃ治せない」
多少なりとも期待はしていたんだろう。僅かにではあるけど、落胆が表に出ていた。今のファウロスを見て気付かない人は鈍い部類だろう。
「そう、ですよね」
私は病理や呪いに類いするものに特別明るくない。そこらの一般人よりは詳しいだろうけど、専門にしてる人には遠く及ばない程度だ。魔力量、つまりは内包し自身の支配下においた魂力量的に、呪い自体受けないし、肉体的なあれこれは頑健さや強引な再生でどうとでもなるから。
だから呪いという情報を魂力がどんなプロセスで具現化するかまでは分からない。できるのはせいぜい、その内にある情報、症状や条件なんかを読み取ることくらい。
「ただまあ、あのままでも死ぬことはないよ。あれは宿主を苦しめ、同時に生かそうとする、そういう呪いだ」
本当に悪趣味だよね。
「逆に言えば、解呪できないと一生苦しみ続けることになる」
「そんなっ! あの子はまだ六歳ですよ!?」
私に言われても困るけど、そう言いたくなる気持ちも分かる。イリニちゃんに聞こえないよう防音結界を張ったのはまあ、サービスだ。
さて、そろそろ話すことを話してもらおうかな。
「どうすればいいか、分かってるんでしょ?」
「……っ!?」
ファウベルの目が見開かれ、呼吸が浅くなる。なんか追い詰めてるみたいで、私が悪人みたいな構図だね。
「……実は、先ほど、ハロさんが出ている間に、外套に身を包んだ不審な男が来たんです。そいつは、悪魔だって名乗って、それから言いました」
娘を助けたくば神の酒を得、薬と為して飲ませよ、か。
「そいつは神の酒がある場所と、薬のレシピを残していきました。黙っていてすみません……」
「まあ、客人に言う話じゃないしね。それで、その神の酒はどこにあるの?」
だいたい分かるけども。
「デロス島の、かつてディオニューソス神の神殿があったと伝えられる場所、そこにできた迷宮です」




