閑話⑤ 王虎憲
あれは運命という他なかった。天命を受けたような心地さえした。いや、今やあの方こそが天だ。文字通り、天は我に味方セリと言うべきなのであろうな。
もっとも、あの時点ではあの方は私の味方となる気が一切なかったが。
初めてあの方が配信をした時、私は父と二人執務室にいた。厳密にはそば仕えの者もいたのだが、彼女らが皇帝である父の前で口を開くことは許されていなかった。
「配信、か……。くだらぬ。虎憲よ、何かあれば報告しろ」
「御意に」
この時の私はライブ配信というものが何かは分かっていなかったが、父は知っているようだった。それ故に興味を失い、私に任せた。
運命の分かれ目がどこだったかを問われたのならば、この時を示すことになるのであろう。それほどの幸運であり、そして父にとっては、不幸であった。
領地に帰る馬車の中で見たその配信は、驚きの連続であった。まず眼前に映る女性が、この国の人間でなかったことだ。明らかに人でないところにも驚きはしたが、国境を越えて力を維持できる人間がいることには及ばない。
さらには言語の壁を越えさせた魔法の技術力、会話の内容から伺える文明水準の高さ、どれをとってもこの国にとっては脅威でしかない。
彼女自身が見せた実力も無視できないものだった。あの時点では量れていない部分も多かったが、父を討つ希望を見出すには十分すぎた。
彼女をどう引き込み、そして利用するか、それを考え始めるのに然程時間は要らなかった。
そうして観察している内に、ふと違和感を覚えた。その正体にすぐに気づけなかったのは、後姿しか見えていなかったからだろう。……いや、あの方は基本的に表情に乏しい。顔が映っていたとしても同じことか。
ともかく、その意味に気付いた瞬間、彼女を味方に付けること自体が王手となるのだと確信した。
狴犴の目は善悪を見通す。後になってあの方より魂力を直接視認する力と聞かされたこれは、相手の感情をこの目に映すはずだった。
しかし彼女のそれに感情を示す色は無い。つまりは内包する魂力や周囲の魂力に与える情報を完全に制御しているということだ。
当時の私はその理屈や為されていることがどれほど高度かを理解していなかったが、それが父でさえ不可能な御業であり、眼前に浮かぶ女性が父より格上であるとだけは認識できた。
何より、真なる龍である事実。馬車を飛び出すのに迷いはなかったよ。黒龍殿ほどの速度は出せずとも、馬車よりもずっと早く件の村に辿り着けるのだから。
初めて会った時の感想は、そうだな、想像以上、といったところか。力の殆どを振るえない状態というのが信じられない覇気に、全てを見透かされているような瞳。二十歳やそこらにしか見えない美しい女性に、まさかああも気圧されてしまうとは思わなかった。
それを表に出さぬのが精一杯であったな。
あらゆる面で次元が違いすぎた。家臣たちでは実力差に気付けなかったのも無理はない。空がどれほど広いか、井の内からでは分かろうはずもないのだから。
だが、そうだな、これが太平の世での出会いであったなら、叶わぬ恋に身を焦がすことになっていたかもしれぬな。
あの時に限らずより多くの会話を望んだのは、単に心の見えぬ相手と言葉のみを交わすことを楽しみたかったにすぎぬが、好意ゆえにと思われても仕方あるまい。
ともあれ、この時の会話で今後すべきことは明確になった。急いだ甲斐があったというものだ。
それから暫くは、配信で状況を確認しながら備えを進めた。父が私を、私たち兄弟のことを信用していないのは分かっていたゆえ、あの方の危険性に気付かれるのは時間の問題だったが、そこに焦りはなかった。むしろ、何か動きを見せてくれないかと願っていたほどだ。
しかし父が動きを見せる気配はなく、先にあの方が牛音兄上の治める街に辿り着いた。これもまた、好機であった。
配信では兄上に接触する様子は映っていなかったが、少なくとも存在は確認されている筈だ。そう思って会いに行けば、案の定であったよ。
おかげで兄上二人の協力を取り付けることができた。あの方一人の存在が故に全てが良い方向に向かっていた。
あとはあの方自身の協力を得るだけ、なのだが、一向に機会が来ない。このままではあの方がこの国を去ってしまう。
さすがに焦りを覚え始めていたころ、父から呼び出しを受けた。
「例の配信の様子はどうだ」
父は、私を試しているようだった。
「様々な情報が得られました。こちらに纏めてあります」
予め予想はしていたゆえ、全てを正直に報告した。文明水準の差や、あの方が真なる龍であること、その実力の高さ。ある程度の印象操作を交えはしたが、殆どそのままだ。ただ、私でしか知りえない、予想しえない情報は省いた。
「ふむ、なるほど……。配信自体についてはどうだ」
「はい、非常に有用かと。意思伝達速度の向上、収入の大幅な向上、その他いずれも国家基盤をより強固なものとし、陛下の治世をより盤石なものとし得ると推測いたします」
嘘は言っていない。実際に上手く使えば、そうなり得るであろう。
だが、直前に渡したあの方に関する資料とあわせると父がどう行動するか。明白なことだ。直接に宣戦布告するよう進言すれば怪しまれてしまうが、そこまでする必要はなかった。
かくして、あの方と父が敵対する未来は確定した。
黒龍殿の来訪があったのはそれから然程経たぬ頃だ。こう言っては失礼だが、可愛らしい蛇の姿で都の宮殿へいらっしゃった。
思えば、あれだけ様々な感知の術が張り巡らされた宮殿内に易々と侵入されたのも恐ろしい。お二方の話では日本には同格の存在があと三人はいるらしい。もし父が日本に侵攻していたなら、この国はあっさりと滅ぼされていた。
ともかく、怪しまれぬよう父へ発見の報告をした上で、襲撃に向かうこととなった。一度は剣を交える必要があったわけだが、正直な話、不可思議な高揚感を感じていた。己の力が如何程か試せることに、久しく忘れていた武人としての血が騒いだのだろう。狼戦兄上程ではないが、兵たちに合わせて牛の歩みを続けることに多少の苛立ちを感じていることを自覚するほどだった。
そうして待ちに待ったひと時は、僅かばかりの自信を打ち砕くとともに、忘れ難い羨望をこの魂に刻んだ。
能力値の面では然程変わらなかっただろう。それなのに、私たちはただ翻弄され、或いは指導碁を受けるがごとく導かれた。ただ無造作に槍を振るう様さえ美しさを覚え、そして怜悧さの中に何かを期待するような熱を感じた。
半時ほど後に契りを結んだ時などは、今この瞬間こそが我が人生で最良の時なのではないかとすら考えた。
そうだな、桃園の誓いにならい、あの契りにも名を与えたい。何が良いだろうか。
……あの夜は、たしか月の美しい夜であった。満月の映った盃を各々が掲げ、夜明けを誓った。
あのお方の注いだ神酒の中で、四つの月が波を打つ、誓いの宴……。『四光の誓い』、はどうだろうか?
悪くないように思う。いや、良い名だ。この名で記そう。
――続けよう。誓いを結んで以降のことだ。
正直なところを言えば、決戦までの数か月間は記憶から消してしまいたい。それほどまでに恐ろしい、過酷な業であった。
迷宮の攻略をさせられたのは良い。最下層まで行くことは珍しいにせよ、以前より時折行っていたことだ。
だが時間制限とそれを達成できなかったときの処罰が酷かった。私たちの実力では紙一重で間に合わない目標時間を過ぎれば、翌日の指南は肉体や武具などにかかる重さ、重力というらしいそれを数倍にした状態で行われる。
ただ動くだけで骨が軋み、筋肉がはち切れそうになった。己が身の重きに折れそうになった。地獄とはあのような場所であるのだろうな……。
加えて守護者の力も、私たちが勝てるかどうか際どいほどに調整するのだ。何度死を覚悟したかわからない。
だが常に考え、活路を見出すには良い訓練であった。ああして無理矢理に培った経験が無ければ、おそらく蛇文から勝ちを拾うことすらできていなかっただろう。
もう二度とご免ではあるが、刻まれた傷以上に深い感謝を抱いてもいる。甲斐あって、蛇文もこの上なく協力的だ。
そしてあの戦いが始まった。後世に語り継ぐべき、神話の如き戦いが。
武術の駆け引きには辛うじて付いていけた。それすらも傍から見ていたが故であり、対峙するどちらか一方が私であったなら瞬きの間に勝負は決していただろう。能力値で並んだとしても変わらない。それほどの絶技の応酬であった。
父が龍器の力を発動して以降は近づくことも叶わず、目で追うのがやっと。気を抜けば巻き込まれて死にかねないような戦場と化した。黒龍殿に拾われなければ、本当に死んでいたかもしれない。
全く次元の違う戦いだった。父は私たちの戦いを余興と言い、それに憤りもしたが、これを前にしては余興でなんら間違いのないものであったと思えた。
だがそんな戦いですら序の口だった。
父が真なる龍の正体を露にしたのだ。龍ゆえの巨体に天変地異と見紛う魔法の数々。終世の光景であった。
一見すればひとりの女性が必死に天に抗う姿。父の強さを見誤っていたのではないか、そんな懸念が胸中を支配した。
「案ずるな。ロードはまだその気になっておらぬ」
俄かには信じられなかった。既に異次元の強さを見せつけられていたのだ。信じられるわけがなかった。
不意にあの方と目が合った気がした。瞬間、背筋の凍るような怖気を覚えた。同時に、一瞬だけ見えたものがあった。あの方が初めて自ら発する魔力の内に感情を見せたのだ。
「ねえ貴方、黄龍となるのにどれだけのspを使った?」
その正体が落胆だと気付く前にそんな問いが聞こえた。
「答えてやる筋合いなどない!」
それはそうだろう。あの冷淡な声が何を抑えつけていたかなど、父の気にするところではない。
あの方が何に落胆していたかは結局与り知らぬままだが、その後の問を思えば、父が龍となった方法に関係あるのだろう。
何にせよ、あの方がその気になってしまったのが分かった。まるでその空間の殆どをあの方が支配してしまったかのような感覚がした。
父の生み出す天変地異がもはや児戯にしか思えない程の厄災の数々、それをあの方は息をするように顕現させた。拳一つであの巨体を叩き落とす様などは、暴虐の化身と称すになんら不足の無い光景だった。
そして、終末を告げる光が、あの方の吐息という形で放たれた。直前に父の放ったそれとは一線を画すような光は、私の中の羨望を畏怖と崇拝に変えてしまった。まさしく神の所業であった。
今あの方は、何処の空にあらせられるだろうか。
その身を案ずることは、あの日蛇文が口にしたように、杞の憂いとなろう。
空は落ちぬ。そのような暇があるのなら、私は強くならねばならぬ。神の身に並べるかは分からぬが、黒龍殿のお言葉通りならば、それこそがあの方の望みを叶えることに繋がるのだから。
「ふぅ……」
筆を置き、一つ息を吐く。それを見計らったように、部屋の外に人の気配を感じた。いや、奴ならば実際に狙ったのだろう。
「兄上、調子はいかがです?」
覇龍記と記された手元の書に目を落として、首を振る。
「どうやら私には、然程の文才は無いらしい」
「それはそれは。まあ、どのようなものであったとしても、虎龍帝自身が記したということが肝要なのですから」
「ああ、そうだな」
これ以上は文官たちの仕事か。仕事を与えるのもまた、上に立つ者の責務だ。
私は私にしかできない仕事を片付けよう。少しでも早くこの国を豊かに、強くせねば。でなければ、あの方にいただいた虎龍帝の名が泣いてしまう。
まずは山のように積み重なった書類の確認だな。さて、床に就けるのは何日後になるのやら。




