セピア色の物語
桂子はいま、行きずりの男に抱かれて数時間を過ごし、その男の部屋の、使い古したセミダブルのベッドに横たわっていた。
木造のいまにも朽ちかけそうなアパートの、古くて建てつけが悪くなり、隙間だらけの六畳間。その部屋にあるのは、何とか画が出るテレビと目覚まし時計。それにこの草臥れたベッド。どこを家探ししてもひとかけらの夢さえ感じられないこの部屋の所有者が、いかにも満足したような寝顔を桂子のほうに向け、規則正しい寝息をたてている。
午前四時。桂子の頭の片隅には、まだ酔いが居座り続けていた。桂子の隣で健康そうに眠っている男とは、五、六時間前までは顔も見たこともない、まったくの他人だった。
家出同然に田舎を後にして上京した桂子は、女子高時代の友だちを頼り、その彼女に誘われるままに水商売の世界に飛び込んだ。ある駅前の繁華街の一角。夜の闇に包まれると同時に、その一帯は煌びやかなネオンを着飾り、瞬く間に装いを変える。
キャバレー、サロン。いかがわしい袖看板が路上に乱立し、客引きが至るところに立ち、露骨な言葉を羅列して、店のホステスがするサービスの見境なさをアピールし始める。そんな通りの横丁の隅にある店に、桂子はホステスとして働き始めた。そこはピンクサービスが唯一の売り物のサロンだった。
桂子をその店に誘った友だち朱美はその店の中ではスターだった。本名は秋元邦子。そんな平凡過ぎる名前に合わせたように、学生時代にはまったく目立たなかった彼女が、卒業して二年。どのような軌跡を辿ったのか、いまはあのころの面影など微塵もなかった。
桂子はピンクサロンに働きはじめてからまだ二日しか経っていないが、がなりたてるような早口でまくし立てる男スタッフのマイクの声が、邦子の源氏名である朱美という名を何度となく呼び立てるのを否応なしに聞かされて、桂子は邦子の売れっ子ぶりに呆然とするばかりだった。
何が邦子をここまで変えたのかは知らない。桂子の隣のボックスで、平然と客の股間に顔を埋め、指で男を弄びながら、それを客には見せない無表情で口に頬張り、不意に、唯々、呆然としている桂子のほうに顔を向け、さらに舌を男そのものに駆使しながら、桂子に向けた眼だけで微笑む邦子を見て、桂子はそのとき、突然溢れ出てきた泪を堪えることが出来なかった。
私もあのようなことをしなければならないのだろうか、と。
桂子はこの二日間、客の隣に置き石のように座っているだけだった。仙台の街で桂子は好きなように飼育しようとする男の求めに応じて、邦子が今、眼の前で客にしていること以上の好意をした体験はあったが、初対面の男に、しかも饐えた匂いがするような男の躰への厚意、と思っただけで、全身に虫唾や悪寒が走り回りそうだった。
「様々な男の匂いを嗅ぎ続けているうちに、過去の男の思い出や記憶など、いつの間にか消えてしまっているものよ」
それがこの二日間、桂子の泣き言に対する邦子の口癖だったが、桂子には、私だけは決して、あの男を忘れることなど出来ないだろう、と言う愚かでしかない確信めいたものがあった。
あの男の手で、桂子自身、落胆するほどに開発され開花された肉体を持て余し気味ではあっても、他の男との触れ合いでは、死に絶えた貝殻のように、炎熱した男の肌の下に 転がっているだけだろう、と桂子は漠然と想像していた。
私の心身を燃やす、唯一無二の男。ついさっきまで、自分は仙台での男にしか反応しない女なのだ、と信じていたのだった。
桂子の隣で眠っている男は、昨夜、店にフリで遊びに来た客だった。店のユニホームであるネグリジェを纏い、客の隣に侍る。それだけでも桂子にとっては勇気のいることなのに、客の手が無遠慮に乳房を掴み、股間にのびる。
そんな光景が暗闇のあちこちでストロボ光線の中に浮かび、立ち眩みするような異様な匂いが店内に充満する中で、指名客のない桂子は、店の指示で、フリの客のテーブルに着かされていた。
「まだ、この商売に馴れてないようだね」
桂子は客の言った言葉にうなずきながら、「今日で三日目なの」と正直に応えた。薄手で半袖のブルゾンを着て、穿き古したようなジーンズ。それに黒のスニーカー。髪は短く、鋭い眼が暗い店内を見回していたが、少し斜に首を傾けて桂子に語りかけてくるときの眼は、その鋭さの奥にはっきりと判る優しさのような光を含んでいるようだった。
「あんたも、あんなこと、してくれるのかな?」
その男が顎で指すほうを見ると、斜め向かいの席に着いていた邦子が、客の股間に顔を伏せ、盛んに頭を上下させていた。桂子はそれを見て、一瞬、息を飲んだ。そんな桂子を男は笑って見ていた。暗闇の中で、歯の白さが印象的だった。キャビンの紫煙が桂子の眼の前を流れ、見ていた邦子の仕事を霞ませる。
「ごめんなさい、私」
「判ってるよ。別にして欲しいわけじゃない」 男はそう言って苦笑する。
「男、かい?」
「えっ?!」
「あんたがこんなひどい店にいなければならない理由さ」
そうした男の唐突な質問に、桂子は束の間、対応する術を思いつかなかった。
「図星のようだな。でも、気にしないでくれよ。悪気があって、あんたの過去を勘繰ったわけじゃない」
「いいんです」
桂子の一言は、無意識に男の指摘を肯定していた。
店は時間制になっていて、客は四十分を一区切りにして席を立つ。だが、男はその都度新たに金を払い、その夜は最後まで桂子を指名し続けてくれた。
「着替えたら、ちょっと付き合えないか。すぐそこの角を曲がったところにイーグルというサパークラブがある。そこで待ってる。気が向いたらおいでよ」
帰り際、通りまで送って出た桂子の耳元に、男はごく自然に囁いた。そして今、桂子はその男のベッドに裸で横たわっている。行為の後、痣のようにあちこちに浮かんでいる天井の染みを見ながら、桂子はごく近い過去を振り返り、棄てられた男に燃えた自分と、たった今、一夜だけ拾われた男の愛撫に嘘のように狂った自分を重ね合わせて、不思議な感覚の中にいる。
男が情事後、何の疑いもないように眠りに就いた後も、それは依然として続いていた。邦子の口癖のように、どこか吹っ切れた感じもないではない。けれど、やはり、仙台の男との過去のほうが、桂子にはまだ重かった。
何故なら、こうして行きずりの男の腕に抱かれてもいい、と決めたのも、あの男への反発がさせたものだったから。
二年前、女子高を卒業した桂子は、仙台では多少名の通っているデパートに就職し、配属された紳士服売り場で働いていた。両親と弟との四人家族で、父と母は所々に白髪が目立つようにはなったもののまだまだ若く、二つ下の弟は健康過ぎてヤンチャではあったが、グレているのではなく、ごくありふれた家族構成だった。
桂子はそんな家族に満足し、幸せを感じてもいた。毎朝、母に起され、朝食のパンを齧りながら駅まで走る。
発射間際に電車に飛び乗り、吊り革に掴まって一息つく。朝はその繰り返しだった。時代遅れだった桂子が乗る電車の車体の配色も明るく今風になり、宮城野原辺りでは解き放たれた猟犬のように唸りをあげて走るのに、仙台駅に近づくと、内気な子供のようにとぼとぼ走るのさえとても可笑しく、そんな他愛もないことに含み笑いする自分の幼さに呆れながら、再び、他に何か笑える現象はないものか、と思い周囲を見回す。
そんなふうにも桂子はこの二年間、躰だけは成長していても、精神状態は子どもから抜け切らないままに十代を散策気分で歩いていた。
電車内で会うイケメンな男に惹かれたり、中学のときの初恋の男の子の顔を思い浮かべたりと、殆どの同年代の女の子が味わうような悦びや切なさも、バランスよく桂子の内部には育っていたはずだった。
けれど、二十歳を三か月ほど過ぎた四月のある日、それまでは多分、同年代と比較しても平均的に保っていたはずの情緒のバランスが、根元から崩れ去っていくような衝撃が、桂子を襲った。
その日、仕事は通常通りに終わった。勤め始めたころにはすべてが物珍しかった職場内の光景も、そのころになると何の変哲もないありふれたものにしか見えず、次第に気が動転するような変化を日常に認める自分への答えがなかなか見つけられない時期ではあった。まだ、同僚たちが自慢気に語る、男との嵐のような愛を知ることもなく、淡々と家と職場とを往復する日常に、少しずつ倦怠感を覚え、それが急速に桂子の内部に重々しい量となっていることに気づきかけたころ、ほんの偶然ではあるけれど、あの男は桂子が引きずる不満の糸に手繰り寄せられたように、桂子の前に姿を現した。
月に一、二度、気の合う同僚の女の子たちと仕事帰りに立ち寄る駅前のスナック。桂子を含めた数人の同僚だけで上司の陰口をたたく秘密の場所だった。
そんな桂子たちのグループに、これも仕事帰りらしいサラリーマン風の男たちが声をかけてきた。三十歳? いや、もう少し上だろうか。桂子たちから見れば立派なおじさん年齢ではあったが、その誘いを断らなければならない野暮ったさは彼らにはなかった。
桂子たちはその男たちと間もなく同席した。酒、たばこ、駄洒落の押し売りるさらにはけたたましい笑い声。同僚も乗っていたけれど、桂子は大人の男たちの口から飛び出す言葉のすべてが新鮮で珍しく、久しぶりに満ち足りた時間内に酔っていた。
あの男はその三十代のグループの中ではそんなに目立つ存在ではなかった。仲間たちの軽いエッチな会話に、桂子たちの反応を覗くようにして、時折、子供のようなきっぱりとした笑顔をつくっているだけだった。
優しそうな眼。真っ白な歯並び。それだけが目立つ、ありふれた三十代の男としか、桂子の眼には映らなかった。そんな中、時は過ぎた。男たちは桂子たちを上手に遊ばせた。酒の漁も過去に経験がないほどに嵩み、桂子も同僚も、終電の時間さえ忘れていた。閉店間際に何気なく見た、隣の男の腕時計の針が、深夜の一時の数字に歪んで突き刺さっていた。この時間まで遊んでいたことはなかった。
父と母の顔が一瞬、曜子の頭を掠めた。ビルの地下にあるスナックから、狭い階段をあがって路上に出たころには、桂子は自然に分配された男の腕に支えられていた。だいぶ酔ってはいた。だが、ついさっきまでの姦しさは消えていた。同僚たちも即席のカップルと何ごとか頬を寄せ合いながら囁いていた。
タクシーを待つ間、まるで関係を深めた恋人たちのように、淫らな息をお互いにかけ合っている。桂子は勝手に割り当てられた男に、タクシーを拾う数分間だけ、腕一本をあずけている感覚しかなかった。
むろん、その男がそれから一時間後、桂子にとって忘れられない存在になろうとは、その時点では砂の一粒ほども考えてはいなかった。優しそうな眼。白い歯並び。そして子供のようにきっぱりとした笑顔の印象しか与えてくれなかったあの男が、泥酔し、はじめて穿いたスキー板に緊張し、四肢を踏ん張っているような桂子を持て余し気味に見下ろしながら、腕を組み、すぐ傍に立っていた。
桂子はそんな光景を、他人事のようにゆらゆらと廻り出した眼で捉えていた。
「どうやら、僕たちだけ、取り残されたみたいだね」
桂子は男の言葉に周囲を見回した。街並みがぐらぐらと揺れていた。見馴れている歩道が、たすきのように交差し、歪んでのびていた。桂子は男の腕で躰を支えながら、どうにか立ち上がる。再び、周囲を見る。男の言う通り、二人以外の姿は、その辺りにのどこにも見当たらなかった。
「曜子と奈美恵はどこへ行っちゃったの?」
桂子は躰を支えてくれている男の顔を見上げた。その瞬間、アルコールが一気に全身を駆け巡り、視界を奪う。風景が歪んでいたが、悪い気分ではなかった。
「奴ら、別々にどこかへ行った」
男はそう言って、桂子の顔を見て微笑んだ。桂子の脳裏に曜子と奈美恵の顔が浮かび、そして、消えた。二人とも、年齢は同じだった。だが、桂子などには想像も出来ないような生き方を平然としている二人だった。
彼女たちは時と場所を選ぶことなく、職場内でも桂子に付き合っている男の特徴や癖などを事細かく口にし、赤面する桂子の男に対する無知を笑う二人だった。
桂子はそれまで、衣服を脱ぎ棄てた男の実態を知らなかった。けれど、深夜、酒に酔ったあの二人が、酒場で知り合ったあの男たちとどこへ消えたのか。それは桂子にも容易に想像できることだった。
「そう。あの人たち、今夜、これからなるようになっちゃうのね」
男が愕いたように桂子を見る。酔い過ぎて弛んだ気持ちと、これまでずっと潜伏していた男への興味が、桂子の口を大胆にしていた。桂子は男に言った。
「あなたもあの人たちのように、私をどこかへ誘う気なの?」
言い終えた瞬間、桂子は自分の口を突いて出た言葉に戦慄していた。酔いがさらに前進を駆ける。
「背伸びするなよ。あんたはまだ、ひょっこじゃないか」
ひょっこ。男のその屈辱的な一言が、再び桂子を変えた。桂子は四肢を踏ん張り、挑むように男を見上げ、
「ひょっこかどうか、試してみる? 私はもう大人よ。あなたこそ、怖いんじゃないの?」
男はそん桂子を見て、明るく笑った。 大人の余裕? だが、その笑いは途中で消え、男の目は一気に耀きを増していた。その眼の豹変は、桂子から酔いを削った。
「そうか。そこまで覚悟があるのなら、黙ってついて来てもらおうか。もっとも、無理にとは言わないけどね。だが、あんたはどう見たってひょっこだよ。ほら、帰るなら今のうちだ。タクシーが来た」
眼には獣の光を宿しているにも係わらず、男の余裕めいた言動が癪に障った。男は桂子の本心を試すように、右手をあげて、タクシーを停めようとする。そうしながら、男の一方の腕は、しっかりと桂子の腰を抱いていた。
そのときの桂子の行動は、桂子自身、信じられないものだった。桂子はタクシーに向かって手をあげていた男の動きを制していた。一度停止しかけたタクシーの中から、運転手が鋭い眼を向けたようだった。
「私をどこまで子ども扱いする気なの? 私はさっきまで一緒だった曜子や奈美恵と同じ歳なのよ。それに、何よ。そこまで覚悟があるなら、なんて。私を抱きたいのなら、抱きたいって正直に言ったらどうなの」
桂子は自分を忘れていた。どうかしている。私は突然、狂ってしまったらしい。曜子や奈美恵の行動が、異性に対して奥手だった私の欲望を誘発してしまったのだろうか。そして、飲み過ぎたお酒が、私を。
男は両肩を掴むようにして桂子を真正面から見た。男の眼の充血は、桂子には酒のせいというよりも、欲望の証のように思われた。男の切れ長の眼は欲望の切っ先のように、桂子を鋭く刺してくる。桂子はそんな男の眼の勢いの前に、一言も発することが出来なかった。
「判った。正直に言おう。俺はきみを抱きたい。もう、一分も待てないほどに、俺はきみに昂っている」
男は桂子を「あんた」から「きみ」に変えていた。桂子はその男の告白の気迫に歩道に膝をつき、コクン、とうなずいていた。はじめて会った男の誘いを、こんなにも簡単に受け入れているとは。
そう思いながら、しかし、桂子はそれを酒のせいにはしたくなかった。だが、正直なところ、はじめて出逢った男に魅せられたのでもない。これはやはり、酒のせいなのだろうか。桂子の思いは様々に攪拌される。
しかし、理由はどうあれ、意思とは無関係に、桂子は数十分後、男の胸に全身を委ねていた。男は桂子の腕を引き寄せて、駅前から青葉通りを広瀬川のほうに向かって歩き始めた。街並みがまだ揺れているようだった。時折、前方から来る車のヘッドライトが、二人の顔を切り、後方へと去っていく。
昼には喧騒この上ないこの辺りにも、さすがに深夜には人影も少なく、声の枯れた酔っ払いの品のない歌が、その歩く姿を連想させるように、ビルの谷間から聞こえてくるだけだった。
広瀬川の川岸までの数分、桂子は男の腕だけを頼りに、夢中で歩いた。
明け方近く。四月の午前四時はまだ暗い。酔いはすでに消えていた。道に人影はなく、桂子の歩く足音だけが、静謐な朝の街並みに木霊する。仙台特有の冬の太い尾をひいた風が、桂子に冷たく当たってくる。
桂子はハンドバッグを胸に抱きかかえ、液に向かって急いでいた。流しのタクシーさえ通らない。始発電車まではまだ時間があるが、液に行けば客待ちタクシーを拾えると思っていた。気は急いていたけれど、普通の歩幅の維持が難しかった。まだ桂子の股間には、あの男の躍動感が生きていた。その余韻は感覚的には完全な形として、桂子の股間の奥に居座っている。
仙台駅に着いた。タクシーが二台、待機している。いずれの運転手も、週刊誌を顔に乗せたまま居眠りしていた。無理もない。仕事はいっても、起きているほうが不思議な時間帯だった。
そろそろ母が起きる時刻に近づいている。その前に帰りたかった。桂子はタクシーのドアを叩いて、運転手を起こした。ドアが開く。むろん、知らない運転手だったが、桂子はこの数時間に思いを馳せ、身が縮む思いでタクシーに乗った。運転手の眼が、ついさっきまでの行動の一切を見抜いているようで、つい赤面しそうにもなる。
銀杏町にある家に着いた。木戸をそっと開け、小さい庭に入る。玄関はガラスの引き戸だった。息を止めたまま静かに開けても、上部の桟に組み込まれている鈴が、人の出入りを中に伝える。家の中に入り、奥に視線を運んだ瞬間、桂子は一瞬、眩暈のような感覚に捉われて、その場に棒のように立ち尽くした。
突き当たりの廊下の端に、母が音もなく立っていた。母の後ろには父もいた。能面を被ったように表情を隠して桂子を見つめる母と、怒りを真っ正直に顔に描いて立つ父。
桂子は情けない笑みで自分を繕い、急ぎ足で自室へと向かう。
「桂子!」
生まれてはじめて耳にする父の怒鳴り声だった。桂子はその場に立ち竦んだ。狼狽していた。桂子は顔だけでちちに振り返り、自分の肩越しに父を見た。今にも走り出して来るように全身を震わせている父を、母が後ろ手に止めていた。
それから数分後、母は猶も肩で息をする父をうながし、見事に無言で寝室に消えた。
自室に入り、ため息をつく。昨日までと何一つ変わらない自分の部屋だった。それなのに、桂子は自室を見回しながら、何となく違和感を覚えていた。桂子はもう一度、ため息をする。
夢に描いていた初体験とは雲泥の差だった。唯、まったく想像していたのとは違っていても、桂子はその日、男を知った。女の子としての二十年は、今日で終わり、桂子は一人の大人の女に変わった。そんなことが、昨日まで馴れ親しんでいた自室の装飾の一つ一つにさえ、どこか幼い匂いを感じさせるのだろうか。
寝ようと思い、ベッドに入っても眠れなかった。起き上がり、自室に近い浴室にイキ、水でゴシゴシと顔を洗った。部屋に戻り、呆然としていた。眼を閉じると、父母の顔が蘇る。父の怒りがそのままに表れていた声。桂子が体験したことを女の本能で嗅ぎ取ったような、母の冷静な眼差し。それらが閉じた瞼の裏側に貼りついていた。それが堪えられなくて眼を開ける。
しばらくして再び眼を閉じたとき、ニヤッと笑って現れたのはあの男の顔だった。桂子は眼を閉じたまま、手探りでハンドバッグを引き寄せる。その中にはあの男が別れ際にくれた、一枚の名刺が入っている。桂子はそのとき、名刺をごく自然に受け取っていた。
「電話、くれるだろう」
男は当然のようにそう言った。桂子は操り人形のように鋭角にうなずき、その後、後ろを振り返りたい誘惑と闘いながら、駅への道を急いだのだった。
そんなに印象深い存在ではなかったのに、躰を交えてから駅までの道すがら、そして、タクシーに乗り、家までの間、桂子が進む一歩一歩ごとに、あの男の存在が桂子の記憶の中に、しっかりと印象づけられていくような気がしてならなかった。
あの瞬間、桂子は確実に、あの男の女になっていた。あの男とのことが鮮明に思い出される。
「はじめてだったのか」
腕枕しながらそう言う男に、桂子は無言でうなずいた。
「まさか」
とつぶやき、無意識に髪を弄る男の胸に、桂子はそうすることが当然のように頬を寄せた。目頭が熱くなる。男の分厚い胸が歪み始める。切なさが泪になった。今日知り合ったばかりなのに、これも「愛」というものなのだろうか。何しろ、その日の突発的な出来事に他ならないので、情緒はとても不安定になっていたが、しかし、これも「愛」なのだと思うまでの時間は短かった。ほんの数分で芽生えた愛。曜子や奈美恵に話せば、田舎者ね、と嗤われそう自分の心の変化に、桂子は思いがけず、満足しているのだった。
表面は現代っ子を気取り、それに添った言動を繰り返していながら、父や母の時代の愛に対する思いをどこかで信じ、それを踏襲しようとしていたはずなのに、今日、知り合い、結果として、まるで酒の勢いで結ばれたに過ぎない男に逢いを感じてしまった。
女ははじめて結ばれた男と一生添い遂げることが一番の幸せ。それが母の口癖だった。それはしかし、どんな形での結ばれ方でも同じなのだろうか。それなら、自分はこの男との一生を歩かなければならない。
桂子の隣で天井を見つめている男は、まだ名前さえ知らなかった。そんな男を眼の端に捉えながら、私はこの男と結ばれる運命にあったのだ、と自分に言い聞かせてみる。
交わる前とは微かな違いを感じさせる男に戸惑いを覚えながらも、桂子は自分の気持ちと男の思いを試すように男の胸に縋りつく。そのときの桂子は、多少の打算を悪見ながら、しかし、母のように必要以上に古風な女だった。
男はそんな桂子を強く抱き締めてくれた。何分、そうしていただろう。気持ちが落ち着きかけたとき、男は独り言のように、
「歳はいくつだい?」と言った。
「二十歳になったばかり」
「名前は?」
「桂子。真中桂子」
桂子は飼い馴らされた鸚鵡のようだった。もうアルコールは完全に抜けているはずなのに、それに似た、男女の交わりの後に双方から炙り出されたような甘く爛れているようなにおいに、桂子はおそらく、陶酔していた。はじめてなので、痛さだけで愉悦も何もなかったが、しかし、桂子には心地よい満足感があった。男は再び、口を開いた。
「俺とは一回りも歳の差がある」
「三十二歳?」
「そういうことだ。もう、おじさんだ。それに、妻も子供もいる」
衝撃だった。だが、言われてみれば当然のことではある。桂子は辛うじて平静さを装った。
「何故、訊きもしないことを自ら告白するの? きっと、公開しているのね、今夜のことを」
「そんなことはない」
そう言いながら、男はそれ以上、言葉を続けようとはしなかった。桂子はそんな男を愛しいと感じた。と同時に、妻がいようと子がいようと、桂子はこの男を失いたくない、と念じた。けれど、負担をかければ男は去っていく。桂子の女としての本能のようなものが、敏感にそのことを察知していた。
桂子自身、それ以上の会話が怖かった。桂子は自ら、男の唇に唇を重ねて、不安の圧力を払拭しようと試みる。男としての本能が、抱き締めてくるおとこの手に力を加えた。
ドアを叩く音で眼覚めた。時計を見ると、もうすぐ昼だった。職場の定休日とはいえ、昼前まで寝ていたことはなかった。
切りつけるような陽光が、カーテンの隙間から斜線を引いていた。再びノックの音がした。呼ぶ声はない。桂子は明け方帰宅したときの、父母の顔を思い出していた。すべてを悟ったような母の顔。嘘をつくにも帰りの時間が遅すぎた。生真面目な父はむろんのこと、弟でさえ朝帰りなどしたことはない。
桂子はゆっくりとベットから抜け出た。洗顔を済ませ、茶の間に入った。父も弟も出かけたようで、茶の間には母しかいなかった。その母が遠慮がちに訊いてくる。
「誰なの、相手は? デパートの人?」
明け方、廊下に立ち、桂子を凝視していた母とは違う母だった。一夜明けた今、母は桂子が身いてもいじらしくなるくらいの優しい気遣いを見せ、慈愛を込めて桂子を見つめてくる。桂子はそんな母に微かにうなずき、うなだれるだけだった。
「いつからなの? いい人なの?」
心配そうな母に、桂子は近い将来ばれるはずの嘘をつき始めていた。
「いい人よ。私のこと、いつも一番に思っていてくれてるわ」
「長いの?」
「ええ。長いわ。私加瀬今のデパートに勤め始めてからずっと」
「そうなの。で、もちろん、将来を見据えてのお付き合いなのね」
すぐには言葉が浮かばなかった。桂子の沈黙に母は、
「それなら、お父さんにだって、堂々と説明ができるってものよ」
と幾分納得したような、それでも尚且つ不安げで、辛うじて、我が子を信じようとしているようにも見受けられるような微笑を浮かべた。桂子はいっとき、救われたような気持になっていた。と同時に、母に対してはじめて嘘をついた、という後悔に包まれていた。
「一度、お家にお迎えしなきゃならないわね」
お茶を淹れながらそう言う母に、桂子はうろたえていた。うろたえを隠そうと益々うなだれる。父がお茶に関しては殊の外うるさくて、最も上等な茶葉を切らしたことがない母だった。そんなことの一つ一つが父への母の貞節の証なのである。
今はそれの緑色の香りが茶の間中に立ち込めている。薄緑に澄んだお茶が、桂子の眼の前に差し出された。その香ばしさが少し桂子の気持ちを落ち着かせた。
「おまえも男の人を知る歳になったんだね」
お茶を一服啜りながらそう言う母の声は、ははでありながら、今の桂子同様の、女としての声のようにも感じられた。そう感じた瞬間、桂子は母の前に、姿勢を正していた。
「今は、そういう時代なのよね。私とお父さんも、一応、恋愛結婚だけれど、四季の夜までは精々、手を握り合うぐらいが関の山だったけれど」
母の眼は遠い昔にいるようだった。
「ごめんなさい、お母さん」
「ううん、いいのよ。私もお父さん同様、今朝がたのおまえの顔を見たときには心底腹立たしかったけれど、でもそれって無理もないことなのよね。おまえとその男の人がお互いに責任を持ち合ってのことなら、たとえ親だって、何一つ口を挟むことなどないのよ、きっと。もう、時代が違うのだから」
桂子が母に詫びたのは、母に対して嘘をついたことについてだった。母はそんなことなど汁はずもなく、その恋人? と深い関係になったことへの、ごめんなさい、だと信じているようだつた。泪が溢れそうだった。桂子はその場に居たたまれずに立ち上がった。
「あら、朝ご飯はどうするの?」
「うん。何か、二日酔いみたいだから」
母は今朝の桂子を理解しているようだった。どう繕ったところで、いずれは露呈する嘘だった。そうは思いながら、桂子にはまだ、母に真実を言う勇気はなかった。
私は昨夜、行きずりの男と肌を重ね、処女を失った。まさか、そんなことは言えない。
関係は続いた。あの夜から一か月過ぎたころ、桂子はあの男に夢中だった。一か月も経つと、男にははじめての夜に見せた細やかなやさしさなどは微塵もなく、自分に溺れ切っている桂子の姿を見るごとに、自惚れ感を強めていた。
男は桂子を奔放に弄んでいた。桂子はそんな男に何一つ抗うことも出来ないほどに心身が陶酔し切っていた。毎日が男の操り人形のようだった。躰は一気に目覚めていた。ついには男の愉悦への行程を先回りして待てるような躰につくり上げられていた。
そのように変化した桂子を両親は知らなかった。桂子の顔を見るたびに、父も母も男を一度、家に招くようにと言い続けていた。だが、そのたびに生返事を繰り返す桂子に、両親も少しずつではあるが、疑いつつあるようだった。桂子はしかし、両親の希望を男に伝えることが出来ずにいた。
そうすれば、男は振り返る素振りも見せずに逃げ去ってしまう。桂子にはそれが判っていた。
ある土曜日の夜、もう不機嫌な父から庇いきれないとばかりに母が言う。
「桂子、もうあれからだいぶ経つのよ。それなのにどうして、その人を家に連れて来られないの? 私たちの気持ちは伝えてあるんでしょう。こう言っちゃ何だけれど、その男の人、少し、無神経過ぎやしない? 私たちが何度も家にご招待と言っているのに、何の音さたもないなんて。来る来ないは別にしても、挨拶の電話一本ぐらいあってもいいんじゃなくって。こんな状態が続いていれば、何もお父さんでなくても怒るわよ」
その夜の茶の間には、桂子と母と父。それに珍しく早く帰った弟の秀和と、全員が揃っていた。普段は桂子も帰宅が遅かった。男との時間を過ごすためだった。本音は土曜の夜こそ、男と過ごしたかった。だが、それは赦されなかった。
「土曜の夜は女房孝行さ。そして日曜は子供孝行」
ぬけぬけと言った男の声が、生々しく耳の奥に焼き付いている。すぐには帰る気にならず、アテもなく駅前をぶらつき、仕方なく帰宅した桂子を父と母が待ち受けていた。気まずい雰囲気の中、途中から弟が加わった。
父は怒りをじっと抱きすくめるように腕を組み、口をへの字にして桂子を見据えていた。父は口うるさく、いつも叱られっ放しだったが、最近、小言の数は減っていた。唯、それがストレスになっているのか、目尻に刃物で切り刻んだような皺が増えていた。
父は銀行員で定年間近になって部長の職責にある。人一倍、常識人としての自負がある。そんな父にとって、未だに正式に家族に紹介出来ないような得体の知れない男と付き合っている娘に対し、容認できないのは当然だろう。握り締める拳の中で、憤りの汗を潰しているようだった。だが、そのときの桂子は、いっときも早く、その場から逃れたい気持ちを必死に堪えていたのだった。
「一体、どうなっているの? きちんと説明してちょうだい。おまえだって、その男の人と結婚するつもりで、ずっとお付き合いしているのでしょう」
「そんな、結婚なんて、出来るはずないわよ」
道端に小石でも棄てるようにポツンと零れた桂子の一言の意味を、母はすぐには理解出来なかったようで、救いを求めるように父の顔を窺う。
「今、おまえは結婚は出来ない、と言ったのか? 桂子、それはどういう意味なんだ。この際だから、おまえの本心を正直に言いなさい。私は礼儀知らずな男との結婚など許すきにもなれないが、かといって、女として一番大事な時期をおまえはその男に打ち込んでいる。それを思うと、許してやりたい気持ちもある。それなのに、おまえの今の言葉は聞き棄てならない。何なら、わたしから先方に出向いて、一度その男ととことん話し合ってもいい」
「余計なことしないでよ、お父さん」
桂子は父の言葉を遮るように鋭く叫んでいた。一瞬、険しくなる父の顔と桂子の顔を、弟が愕いて見ていた。
「余計なこととは何だ。 応えなさい。家族が大事な娘のことを心配するのは当然のことだろう。以前のおまえなら心配などしなかった。だが、その男と知り合ってからのおまえは、私の眼には狂っているとしか思えん。おまえは完全に、自分を失っている」
「放っといてよ。私とあの人との問題でしょう。それをいくら家族だから親だからって、なんでそこまでずけずけ踏み込んで来るのよ」
「いい加減にしなさい! いつまでも子供のような我儘言って。私たちはその男の人との交際を絶対に認めないって言ってるんじゃないのだ。唯、相手も大人なら、一言ぐらい私たちに挨拶があってもいいだろう、と言っているだけだ。おまえはそんなことさえ判らないほどに狂ってしまったのか」
「それが私にはお節介なの。あの人にそんなこと話したなら、あの人、私からとっとと逃げて行ってしまうわよ。だから、放っといて」
「逃げるって、桂子、おまえ、それはどういう意味なの?」
母は桂子が口を滑らせた一言に動揺していた。父は三県に亀裂のような縦皺をつくり、桂子を凝視していた。真実が暴かれる日がいつか来るとは覚悟していたけれど、両親との諍いからついそうなった今、桂子は全身に震えが走るのを感じていた。だが、桂子は次の言葉を飲み込もうとは思わなかった。
「あの人は、私と結婚など出来る立場にない人なのよ」
「ふふっ、どうやら、不倫の匂いがプンプンして来たな、姉貴」
「あんたは他人事みたいに何を馬鹿なこと言ってるの。大事な話の途中で、大人を茶化すようなことを言うものではありません」
それまで我関せずとテレビを観ていた弟の一言に、母は躰中に電流でも通ったように激しく身震いし、声を荒げて弟を叱り飛ばした。
「そうよ。秀和の言う通りよ。あの人には奥さんも子供もいるの」
父の握った拳が小刻みに震えているのが判った。母は呆然として父の顔を窺い、すぐに桂子の顔を見た。その母の顔が情けないほどに弛緩していた。桂子は母の意思を失ったような視線から逃れ眼ように視線を逸らした。弟は再び、テレビ画面に熱中したフリをしていた。
「卑劣な。何て下品で卑劣な男だ」
父は吐き棄てるようにそう言った。そんな父に向き直り、桂子は表情を硬くした。
「お父さんから見れば卑劣で最低な男でも、私にはあの人が宝なの。判って。ううん、判らなくてもいいから、もう、何も言わないでるお願いだから、お父さんもお母さんも、もう、何も言わないでよ」
「馬鹿なこと言うんじゃない。自分の娘が必ず不幸になることを知りながら、その不幸な招来を認める親がどこにいる? いいか。今日を限りにそんな男とは別れなさい。いや、それだけでは私の気持ちが治まらない。私がその男に直接会って、きっぱりとけじめをつけさせる。桂子、私をその男のところに連れて行きなさい。今、すぐにだ」
「厭よ。厭! 私はちっとも不幸なんかじゃない。そんな生木を裂くようなひどいことをしないでよ。お父さん、もし、お父さんが本気でそうするつもりなら、私はこの家から出て行きますからね」
桂子の次の言葉を振り払うような、父の平手打ちが頬に飛んできた。眼に星がちらつき、頬が火のように熱くなる。桂子はもう、とことん依怙地になっていた。母が再び手をあげそうな父の気配に咄嗟に父の腕に縋り、
「桂子、お父さんに謝りなさい。これは誰が見たっておまえのほうが悪い。お父さんの言う通りよ。その男とすぐに別れなさい。私とお父さんの一生のお願いだから。ね、今のうちなら、おまえはまだまだ若いわ。おまえに本当にふさわしい男の人は、それこそ星の数ほどいますよ。今ならまだ間に合うの。だから、お父さんに謝りなさい。そして、その男と別れると、みんなの前ではっきりと誓いなさい」
桂子はそのとき、両親の自分を思う気持ちは充分に理解していた。それなのに気持ちは、それらへの理解とは別なところに凝り固まっていて、桂子は手を擦り合わせるようにして哀願している母の姿を眼にしてさえ、無感動を装うことが出来た。
「私、やっぱり、家を出るわ、明日にでも」
桂子は立ち上がりながら言った。
「桂子、おまえ」
「放っときなさい!」
父の鋭く叫ぶような声が、母の声を消し飛ばした。
桂子は翌日、家を出た。まさか、本当に家を出るとは思っていなかったはずの父は、すでに出勤していた。母は桂子の決心に愕き、泣きじゃくりながら、桂子の腕を掴んで放そうとしなかった。桂子は無表情で母の腕を振り払った。
普通は棲むところを決めてからの家出だろうが、急なことだったので、そこまでは手が廻らなかった。取り敢えずはすぐにでもアパートを探さなければならなかった。勤めは休んだ。はじめての欠勤だった。そのはじめての欠勤が、職場との別れでもあった。曜子に電話して手短に自分の今を放した。さすがに愕いたようで、曜子はすぐに職場を抜け出して来た。桂子はアパートがみつかるまで、曜子のアパートに居候かるつもりだった。それしか方法がなかった。
喫茶店で曜子に会い、そのことを言う。曜子は肩で大きく息を吸いながら、呆れたように笑った。だが、悄然としている桂子を見つめ、胸を叩く仕種をして、任せなさい、と剽軽に応え、何度か泊まったことがある部屋の鍵を桂子の手に握らせた。
「勝手知ったる私の家でしょう。今日は私も仕事が終わったらすぐに帰るから、それまで昼寝でもしていて。疲れてるんでしょう」
曜子はそう言って、仕事場へと戻って行った。
三日後の午後、桂子はアパートを見つけた。保証人は曜子に頼んだ。五月の空が水洗いしたように青く澄み渡り、それまで湿りがちだった桂子の気持ちをいくらか明るくしてくれた。桂子はそんな空を見上げながら、はじめての独り立ちに緊張していた。
丸二年。殆ど無駄遣いせず金を蓄えていた。それでアパートも借りられたし、ベッドや小型の冷蔵庫など、最低限の生活必需品は揃えられた。曜子はその日仕事を休み、甲斐甲斐しく友だちぶりを発揮してくれて、一日中、手伝ってくれた。
仙台駅から北へ数キロ。木造ではあったが、まだ建物は真新しく、木の香りが残っているアパートだった。形ばかりの小さなキッチンが、桂子にはとても新鮮に思われた。
「奈美恵も手伝ってくれていれば、もっと早く片付いたのにね。あいつ、普段はサボってばかりいるのに、今日に限ってどうしたのかしら」
曜子はベッドにデンと大きな尻を埋め、煙草のけむりを吐き出した。曜子は自分用の灰皿を持参し、これ、私用にキープしといて、と笑う。
「曜子一人で充分よ。助かったわ。お礼にお寿司でもご馳走するわね。いくら引っ越しとはいえ、お蕎麦じゃつまらないものね」
桂子は予め、一階に棲む大家に訊いていた寿司屋に電話する。周囲に色んな職種の店があり、過ごし易そうなところだった。三十分後、威勢のいい挨拶を残して寿司屋の出前持ちが帰った後、二人で黙々と寿司を食べていたが、桂子は曜子の視線が何となく気になっていた。
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「ええ。見事にはっきりとついているわよ。桂子の顔全体に、あの男の顔がべったりと貼りついている」
「厭ぁね。からかわないでよ」
桂子は曜子の口調には似合わない、生真面目な眼差しに狼狽えていた。曜子の言う、あの男には、今日、引っ越すことは報せてある。あの男は今ごろ、職場で奮闘中のはずだった。本音では今すぐにでも来てほしかった。実は今日、迷惑がられるのを承知で、おとこに電話した。
「二、三日は無理だ」
男の冷え冷えとした声が桂子の耳をざわつかせた。桂子はそんなことを思い出し、虚ろだった。桂子は名前を呼ぶ曜子の声に現実に返った。曜子が呆れたように笑っていた。
「三度目の私の声でやっと気づくなんて、あんた、あの男にのぼせ過ぎよ。男に関しては私のほうがベテランだから注意するんだけどね。男と女ってね、どっちかが相手に惚れ過ぎちゃ駄目なのよ。お互いが同じぐらいの愛情を維持しなければ長続きしないの。片一方があんたのようにのぼせ過ぎると、相手はどんどん逃げようとする。それに、質の堡塁相手なら、ほけた弱みに付け込んで、利用されるだけされちゃうんだから。あんたはほら、こ~んな感じだから、猶更気をつけないと」
曜子は左右の手のひらを眼の前に立て、そのまま桂子のほうへと移動させた。周りがまったく見えず、前にだけ突進している。そういうことなのだろう。
「判ってるわ。でも曜子、今の私って、何も見えてなくても、あの人だけが見えていれば幸せなのよ」
「桂子の今度の行動を見ているとそれも判るけどさ。でも桂子、周囲が見えないってことは、その男の真実も見えてないってことにも通じるのよ。それにさ、言っちゃ何だけど、私の見るかぎりでは、絶対に報われない愛でしょう。結婚するしないはともかく、あの男は奥さんも子もいながら、平然と桂子と付き合っている。それって、桂子にも奥さんにも、誠実じゃないってことでしょう」
「そ、そんな」
「だってそうでしょう。妻子があるあの男にこそ負い目があって当然なのに、何か桂子だけが悩み苦しんでいるようで、それって、絶対におかしいわよ。私、わりといっぱい心配しているのよね」
途中、帰ろうとしたのか、一度腰を浮かしかけた曜子だったが、今度は畳に座り直すと、男のように腕を組み、桂子を見上げてくる。
「今の桂子って、何というのかな。とても変な存在よね。あの男の奥さんではもちろんないし、かといっても恋人ってわけでもない。愛人に近いけれど、何の報酬もない。すべて、無いなぃづくしなんだもの。強いて言えば、桂子はあの男にとって、都合のいい玩具でしかないわ」
「お願いだから曜子、そんなひどいこと言わないで、私はあの人のすべてを知っていながら、今まで付き合って来たんだもの。今更、私のほうから何か言えることなど何もないのよ」
「あ~あ、桂子のそんなだらしない優しさがあの男を自惚れさせていることに、あんたはちっとも判っていないのね。男にとって、桂子ほど扱いやすい女ってなくってよ」
「もう、そのぐらいにして。今日は家を出て一人暮らしを始めるという、私にとっては記念すべき日なのよ。それなのに、もう。曜子って、意地悪なんだから。私は私なりに考えてはいるのよ。お願いだから、曜子、あと少しだけ、何も言わずに見ていて」
そう言いながら弱々しくため息をつく桂子を見て、曜子は一度、大きく肩で息をつきながら立ち上がる。
「判った。私、言い過ぎたようね。でも、悪気があって言ったんじゃないのよ。好きな男のために本気で泣く。私、そんな桂子が好きなの。だから、敢えて言ったのよ。私ように、高校のころから男に遊ばれたり遊んだりを繰り返していると、男に対しての泪なんて、過去に殆ど吸い取られちゃってさ。何もかもがへっちゃらになっちゃうのよ。私、桂子と同じ、まだ二十歳よ。それがこんなふうにしか男を言えないのだから。私はね、桂子。あんたに泪を生まない心を持たせたくないのよ」
桂子はうなだれたままにいた。曜子の友情が血に乗って、躰の隅々まで行き渡っていくようだった。
「ごめんね、桂子。私、生意気なこと言い過ぎちゃって」
曜子はそう言うと、ハンドバッグを胸に抱え、男のように桂子の額を拳で軽く叩き、ドアへの一歩を踏み出した。
変化のない一週間が過ぎた。どうにもやりきれなさだけが増幅された一週間だった。桂子は地蔵のように、じっとして部屋の中に坐っているだけだった。町を行き交う人々の充実感たっぷりのざわめきが、桂子の部屋まで聞こえてくる。
仕事場の緊張感が懐かしく感じられた。そろそろ、仕事を探さなければ、とは考えていた。日ごとに目減りする預金残高を頭に置きながら一日を過ごすのはいかにも情けない。だからといって、妻子ある一介のサラリーマンであるあの男から、援助を受けるわけにもいかないし、また、そう頼んだところであっさりと断られるだろう。
知り合って間もないころ、安物のネックレスが一つ。それがあの男からもらったすべてだった。部屋に籠っていると、考えることの一切が陰湿になる。外に出てみよう。少しでも気分転換が必要だった。
二日後、桂子は募集ビラを頼りに仕事を探した。なんでもよかった。そのよくじつ、桂子は駅前の喫茶店にウェートレスとして働き始めた。淹れたてのコーヒーの香り。焼きたてのパンの誘惑的な色合い。陶器のぶつかり合う音。客の様々な声。桂子にとってはすべてが新鮮だった。
仙台駅が真正面に見える店だった。つい十日ほど前まで勤めていたデパートとは目と鼻の先だった。単純な仕事ではあったが、その単純さがなかなか飲み込めず、コーヒーカップをトレンチから落とすような失敗に顔を赤らめながら三日が過ぎた。
桂子が喫茶店に働き始めてから、毎日一度顔を見せてくれたのは曜子だけだった。あの男は一度も来ていない。曜子の顔を見るとホッとした。と同時に、自分なりのしっかりとした生き方を見せようとの気負いが生じたる曜子はそのことに気づいているようだった。
一度も顔を見せない男のことはむろん気になっていた。それと桂子にはもう一つ気になっていることがある。奈美恵のことだった。デパートを辞めてから、奈美恵とは一度も会っていなかった。引っ越しの手伝いにも奇異くれなかった。その日もコーヒーを飲みに来た曜子に、奈美恵の近況を訊いてみた。曜子はそれを話題にしたくないようだった。
「彼女、色々と忙しいみたいよ。あの夜の男と、あんた同様、今でも付き合っているらしいの。でも、桂子とはまるっきり、付き合い方が違うようだけれど」
曜子は唇だけで笑った
「どういうふうに違うの?」
桂子は他のスタッフの眼を気にしながら訊いた。
「お互いがお互いを必要なときにだけ、ひっついているってこと。その度合いが最近増えているらしいけれど。それだけ」
「そう。ずいぶん会ってないから気にしていたけれど、でも、そうなら元気だってことよね」
「元気は元気よ。申し分のないぐらいに元気。でもねぇ」
「どうしたの?」
「うん。あいつ、私と同じで、桂子のように男に夢中になるなんてウブさをとっくに忘れている女だから。そんなところが同類みたいでいや気がさして、私たち、最近、スムーズな付き合いが出来なくなっているのよ」
奈美恵のことで何かを隠しているような曜子の口ぶりだった。気の強さを描いている切れ長の眼が微かに震え、曜子は何ごとかを考えているようだった。口元を見つめ、曜子の次の言葉を待っていると、カウンターのほうからスタッフの一人が桂子の名を呼んだ。それを機に、曜子は立ち上がり、レジのほうへと歩き出した。桂子は曜子の後姿を見送りながら、彼女の隠していることってなんだろう、と思わずにはいられない。
桂子はまだ一度も袖を通されていない男物のパジャマを、ベッドの右側に人形のように寝かせた。引っ越してからこの部屋に姿を見せようともしないあの男のために買い揃えたパジャマだった。たとえ訪れたところで、絶対に泊まっていくような男ではないけれど、それでもほんの数時間でもこのパジャマを着て、傍にいてほしいといつも願望していた。
アパートを借りてからあの男を思い出し、毎晩演じる自分だけのパントマイム。桂子は無言で、そのパジャマの胸の部分を触るのが決まりとなっていた。そんな芝居を演じるのもその夜で二週間目。やっと自分の匂いが壁の隅々にまで浸透した舞台に横たわり、桂子は不毛とも思える痴態を繰り広げるのだった。
想像の中で、あの男の指が這う。自然に躰が蛇のように蠢く。そんな一瞬だけ、桂子ははっきりと、あの男への憎しみを自覚する。
あの男からの電話があったのはいつだったろう。性格に言えば、あの男の代理人からの電話だった。桂子はその電話で呼び出された。代理人を使うなんて不満だった。だが、そんな不満も、長い間放置していた私への引け目が、代理の男の口を借りて私を誘ってくれたのだ、と桂子は情けないほど都合のいい解釈をしようとする。
数分前までは自力ではどうしようもないほどに爛れ切っていた桂子の奥深くにまで抉られている疵も、たった数十秒の電話で、嘘のように縫合されていた。桂子は久しぶりの夜の街に、スキップしたいような気持で飛び出していた。
駅前の、あの夜知り合ったスナックが、シテイの場所だった。あと少しで梅雨に入る季節。しかし、その夜の空は、そんな季節など永久に来ないかのように、星が群れていた。桂子は小走りに、待ち合わせのスナックへの階段を降りた。
ドアの外まで漏れ聞こえる音楽。桂子のその店のドアの前に立つと、バッグからコンパクトミラーを取り出し、口紅などを見直した。早鐘のように鳴り響く胸の鼓動が、全身に汗を生ませる。桂子は一度大きく息を吸い込むと、意を決してドアを押す。
曜子や奈美恵とともに、あの男と出会う前から時には来ていた店なのに、入った瞬間、桂子は異次元の世界に足を踏み入れたような錯覚に陥っていた。しばらく来ない間に、店の雰囲気が変わっていた。
店内はほぼ満席だった。そんなに広くはない店だった。テーブルは壁際に配置換えされていて、中央に狭いが踊り場が設けられている。そこで客同士が肩をぶつけ合うようにして踊っていた。桂子はあの男を探した。テーブルの端っこのほうから順々に視線を移していく。
ボーイが二人いたが、入って来た桂子を気にする様子もなく、客に呼ばれて客席の間を独楽鼠のように駆けずり回っていた。一通り、テーブル席の客の顔を見回したが、あの男はどこにもいなかった。
桂子はもう一度注意深く、左右に視線を振った。そのときだった。桂子は不意に後ろから肩を叩かれた。ハッとして振り向いた桂子の眼の前に、かなり酔っているらしい男の顔があった。あの夜、奈美恵とカップルになった男だとすぐに気づいた。すでに赤く濁っている男の眼が、いやらしく笑っていた。
「凄い形相で奴を探していたな。ほら、俺たちの席はあそこだよ」
男は奥のテーブルを指差した。卓上にグラスや料理の器などが載っているだけの席だった。だが、その席にあの男はいなかった。桂子は確かめるように奈美恵の男のほうに振り返る。その男は唇の端を吊り上げて妙な笑みを浮かべた。
「変な顔で観ないでくれよ。奴は今、あっちで、奈美恵と踊っているよ」
桂子は男が顎でしゃくった方を見た。踊っている群れの中に、あの男と奈美恵の顔が見え隠れしていた。
「あの人、私が来るってこと、知ってるの?」
「ああ。もちろん知ってるよ。だから俺がこうして、奴の代わりに桂子ちゃんの傍にいるんだろう」
桂子には男の言う言葉の意味が判らなかった。それよりも何故、あの男がすぐにでも飛んで来て、優しい言葉の一つも言ってくれないのかが不思議でならなかった。
「桂子ちゃんも踊ろうよ」
桂子は下卑た笑いを浮かべる男の誘いを無視し、テーブルに向かって歩き出した。男は追って来なかった。席に座って小さな踊り場ホールを見ると、奈美恵の男があの男のほうへ近づいていくところだった。桂子はテーブルに肩肘つき、ぽつんとそれらを見ていた。不意に虚しさに包まれる。ボーイが近づき、水割りをつくり、桂子の前に差し出した。
何気なく眼に入ったボトルを見つめた。そのボトルのラベルにマジックで記してあるあの男の名前がひどく気になった。ボトルを間近に引き寄せて見て、桂子は怒りに震えた。このボトルをキープした日付が五月十日となっていたからだった。
あの男は私を冷たく放置していながら、ここで楽しく遊んでいたのか。私が何度頼んでもすがたを見せず、あの男は平然と、私とは違う夜を過ごしていた。
その夜の誘いに癒えつつあると感じた疵痕に、ボトルに記された赤いマジックのような血が、色濃く滲んでくるようだった。
曲が変わり、スローバラードのメロディが、店内のムードを一変させた。髪を振り乱し、アップテンポの曲で踊っていた男女が席に戻り、暗くなった踊り場では、躰をぴったりと密着させたカップルが、二人だけの世界に嵌り込んでいる。
あの男は奈美恵と奈美恵の男を従えて、上機嫌な笑みを浮かべながら、桂子のほうに歩いて来る。その態度はまったく桂子のことなど眼中にないように見えた。桂子は近づいて来る男を凝視していた。そのときだった。
桂子は悪い夢でも見ているような光景を眼にした。あの男の手が背後から奈美恵のほうにのび、奈美恵の躰を抱き締めたのだった。しかも、奈美恵の手もあの男の腰を抱き、桂子の眼の前で、二人は堂々と見つめ合っていた。
「やぁ、しばらく」
男は桂子たった今桂子に気づいたように、軽く片手をあげた。悠然と席に着く。どこまでも平然としていた。
「お元気そうね」
それは桂子の精一杯の強がりだった。
「おまえもな」
砂を咬むような味気なさだった。男はその一言だけで立ち上がり、水割りを中腰のまま一口飲むと、
「奈美恵、チーク、踊ろう」
そう言って奈美恵の手を引いた。奈美恵がチラッと桂子に振り返る。しかし、そのときには奈美恵の腰は浮いていて、ごく自然な身のこなしで、奈美恵はあの男の腕に自分をあずけていた。そんな光景を見て薄笑いを浮かべている奈美恵の男。
何か変だ。何かが狂っている。あの男と奈美恵が暗闇のスペースに消えてからも、桂子の頭の中は複雑に揺れ動いていた。奈美恵の男がそんな桂子を見つめていた。
「さぁ、そんなくらい顔しないで、俺たちも踊ろうぜ、チーク」
奈美恵の男は馴れ馴れしく桂子の型に腕を廻してくる。
「止してよ。気持ち悪い。気やすく私に触れないで。あなたは奈美恵の彼でしょう。おかしいわよ、さっきから」
「俺が奈美恵の彼?」
奈美恵の男はカラカラと笑い、
「お笑いだね。だが、たとえそうだとしても、俺が桂子ちゃんを誘って悪いってことはないだろう。奴だって、奈美恵とよろしくやっているんだから」
「勝手なこと言わないで。
私はあの人が気でほしいと言うからここに来たのよ。それなのに」
「硬いね、桂子ちゃんは。お互いに結婚が前提の付き合いではないのだし、割り切ればいいことだろう」
「それって、それじゃまるで、この私は玩具みたいじゃないの」
「だから、割り切れって言ってるだろう。まさか、桂子ちゃんだって、奴と結婚出来ると思っているわけじゃないだろう」
奈美恵の男は平然とそう言った。たしかに結婚など出来る状況にはない。だが、妻子がいるとは知らなかった当時の桂子は、当然、あの男との結婚を夢見た。結婚は出来ないし、かといって、あの男の過程を毀すことも望まなかった。それでも逢っているときぐらい、わたしがあの男に溺れるように、あの男にも私に丸ごと酔ってほしい。そんな望さえ棄てる、と言われているのだろうか。
奈美恵の男の言葉は、桂子の存在を少しも認めてはいなかった。
「あのふたりは今、理想的に求め合っている。お互いが必要なときにだけお互いを求め合っている。俺とのときも奈美恵はそうだった。それがいいんだ。とくに妻子持ちの男にとっては、気楽がいい。女房以外の女は、気楽に付き合えることが条件としてのすべてだ」
桂子は急激に沸き上がった憤怒を辛うじて堪えていた。
「余り、深く考えないほうがいい。桂子ちゃんも、今夜は相手を換えて俺と遊んでみることだ。きっと違う世界が見えてくると思うよ」
「ふざけないで! ずいぶん失礼なこという人ね、あなたは。わたしをそんなふうに見ないで!」
「笑わせるなよ。ご立派なこと言ったって、あんたも奴とはじめて会ったその夜のうちに、股を開くような尻軽女じゃないか。あの夜の相手がたとえこの俺だって、そうなっていないという保証はどこを探したってないだろう」
奈美恵の男は鼻白んだように煙草を咥えた。桂子は悔しさに堪えながら、踊り場の暗闇を凝視していた。ムード音楽が猶も続いていた。あの男と奈美恵の姿が、時折、暗闇を切る淡いピンクのスポットライトに浮かんで、すぅーっと暗闇の中に溶けていく。
「奴もそう言っていたよ」
奈美恵の男は白けたように言った。桂子はあの男と奈美恵の姿を眼を凝らしておい続けながらも、耳は奈美恵の男の言葉を拾っていた。
「奴は桂子ちゃんと別れたがっている。あいつは桂子ちゃんをこの俺に譲るとまで言ってるんだ。ま、奈美恵との交換ってところかな。俺にとっても悪い話ではなかった。だから、こうして桂子ちゃんにアタックしている。すでにあいつは奈美恵を抱いた。そして、今夜は俺の番、というわけだ」
桂子は肩に回してきた男の腕を振り払った。胸の中はどうしようもないほどの屈辱感と怒りでいっぱいだった。あの男がこの私を誘惑しろ、と奈美恵の男に言った。それを耳にした瞬間も桂子の顔は蒼白だった。桂子は猶もしつこく言い寄る男を無視して立ち上がった。
その剣幕と勢いに唖然としている男を尻目に、桂子は真っすぐにあの男とチークダンスをしている奈美恵へと近づいた。桂子はすぐ傍に近づいても、この不潔なカップルはまるでベッドの中でむつみ合っているような表情で、自分たちだけの世界に浸りきっていた。
桂子は思い切り、バッグを振り上げた。男の顔面に鈍い音が吸い込まれる。その場に蹲りながら、撲られた顔面を押さえた手の隙間から見える男の眼には、怯えた様子は見られなかった。むしろ、無表情に近かった。
桂子はその眼に殆ど理性を失った。今起こっていることが理解出来ないでいる奈美恵を見据え、「恥知らず!」と短く叫ぶや、桂子は奈美恵の顔に唾を浴びせていた。桂子の唾を顔面に受けて、奈美恵ははじめて怒りを露わにした。眦を吊り上げて奈美恵は桂子に掴みかかろうとしていた。
「やめとけ!」
立ち上がった男が、奈美恵の振り上げた腕をつかんだ。
「バッグ手のパンチと、おまえへの唾一回だけで、たった今からこの女とは他人になれるんだ。これで、俺とおまえの邪魔をしようとする女が消えるんだ。安いものだろう」
男はそう言うと、桂子を見て冷たく笑った。突然勃発した争いに興味を隠そうともしない他の客たちの眼。中には奇声をあげ、口笛を鳴らす客もいる。悔しさが桂子を泣かせた。視界が霞み、男の顔も奈美恵の顔もぼやけていた。
桂子は溢れる泪を拭おうともしないで、出入り口に走った。そうだった。その夜で、あの男との関係は終わったのだった。
たった一人の男だけに尽くす愛。母の言ったそれは正しいのだろうか。今となってはお伽噺のようにも思われる。何故なら、桂子はあの男に一方的に棄てられて、まだ、その男の移り香が躰から完全には消えていないはずの今、他の男と交わり、陶酔した。
そろそろ、外が明るみ始めている。一睡もしていないが、少しも眠くなかった。桂子はベッドに腹這いになり、枕元にあった煙草を一本抜き取り、火を点ける。はじめての煙草だった。一服吸い、噎せると同時に激しく咳込んだ。
そのとき、優しく背中を擦る手を感じた。一瞬、ギクッとしながらも桂子は男の顔を見た。男は手の甲で眠そうに眼を擦りながら、もう一方の手で、桂子の背中を擦っていた。チラッと桂子を見た男の眼に微笑みがあった。桂子もつられて微笑んだ。
「不思議ね」
「ん? 何が」
「私、ついさっき会ったばかりのあなたに、自分が恥ずかしくなるほどに反応してしまったわ」
「そうかな。いや、それはそうじゃないな。あんたは過去の男に反応していたんだ。あんたの動きの中に、過去の男の動きがはっきりと見えていたし。だから俺は、そんなあんたに合わせていただけだよ」
男はそう言うと、桂子同様、ベッドに腹這いになった。男は桂子の指から喫いかけの煙草を抜き取り、長くなった灰を灰皿に落とした。
「何時になった?」
「もう、朝の五時」
「もう、そんな時間か」
男は紫煙をくゆらせながら言う。そして、
「今夜の俺は、過去の男に浸かられた垢を洗い流すための石鹸みたいな役割だったのかな。ま、それでも少しぐらい役立っていればいいけれど」
「早く忘れたいとは思っていたけれど、でも、あなたに対してはそんな気持ちで接してはいなかった」
「そうかい。まぁ、俺にとっちゃ、どうでもいいことだ。俺には何一つ損はなかったし」
桂子は何げなく口にした男の言葉の中に、仙台の男を思い出し、
「そうよね。くだらない男に一方的に棄てられた馬鹿な女。一夜の遊び相手には持って来い、の女よね、私は」
「そういうふうに自分を卑下するものじゃないよ。俺も別にそんなつもりで言ったんじゃない」
「判ってるけれど」
「ピンクサロンのホステスなんて、言っちゃ何だが、二つや三つ、自分の悲劇の物語を持っていて、こっちが訊きもしないのに言いたがるものだが、あんたはだいぶ、そんな女たちとは違っていた」
「どういうふうに?」
「何も訊かなくても、過去の物語が顔に描かれていた。あんたの年代で、男に棄てられたとか棄てたとかを顔に表す女は珍しい」
男は淡々としていたけれど、桂子はどことなく感心しながら聞いていた。
「今の私も、まだ、そういう顔してる?」
「ああ。たった数時間で、女からこれまでの悩みつらみを全部抜き取れるほど、俺はいい男ではないからね」
男は桂子の頬に手を触れながら言う。桂子は男の言葉を耳にしながら、枕元で規則正しく時を刻む、目覚まし時計のガラス面に移る自分の顔を覗き込む。男がそんな私を見て、また、微笑んだ。
「そのうち忘れるでしょう。違う男の体臭を吸い続けているうちに。前の男のことなんて、今の男に上書きされればすぐに忘れてしまうって、誰かが言っていたもの」
「それはだらしのない女の言うことだ」
意外に古風な考えの男のようだった。桂子の眼をじっと見つめて放す男の口調には、何となく直線的なものが感じられた。
「そういう考えはやめたほうがいい。そんな考えが、俺のように一夜を得する男の数を増やすんだ」
「どうすればいいの?」
桂子は男の横顔を見つめた。
「今の仕事はすぐにでも辞めることだ」
「でも私、この街ははじめてだし、これからどうしていけばいいのか判らないし」
「とにかく、ピンサロなんですぐに辞めるんだ。この世界はロクなことはない」
「あなたも夜の仕事なの?」
「そうだ。もう、苔が生すほど、ネオンの中で生きている」
「それなのに、どうして水商売を悪く言うの?」
「水商売を悪く言うわけじゃない。唯、あんたが今しているような職場は駄目だと言っているんだ。男を金にしかみえなくなる前に、辞めることだ」
そのとき、桂子の脳裏に浮かんだのは邦子の顔だった。客の股間に顔を埋め、平然と濃厚なサービスをし続ける邦子の顔。
「あんなところの女は水商売の女ではない。単なる性欲処理の場に過ぎない。女たちもホステスではない。唯のいやらしいサービスだけを教え込まれた機械でしかない。もっとも、だから便利で、俺も利用しているのだが」
この男かそう言われても、いやらしく感じないのは何故だろう。むしろ、心地よく聴覚を刺激される。桂子は淡々と諭す男の声を耳にしながら、ふと、仙台の家のことを思い出していた。両親は私が今こうして、あの男とは違う男に抱かれているなどとは夢にも思っていないだろう。家出の理由があの男とのことだったので、
仙台の街のどこかにアパートをかりて、時々訪れる男を迎え入れているのだろう、とそうぞうしているような気がしていた。
そんな桂子の回想の背景にあるのは昨日知り合って躰を交えた男の存在がある。その声がBGMのように、桂子を優しく包み込む。桂子はそっとベッドを抜け出た。急いで着替える。
「帰るのか?」
「うん。友だちのマンションに帰るわ。ありがとう。何か私、今度こそ、眼が覚めたみたいよ」
「別に、礼を言われるようなことはしていない。礼を言うなら、俺のほうだ」
「ううん、あなたでよかった。それでなければ私、ずるずると男の躰を渡り歩く羽目になっていたかも知れない」
「俺だっていい加減な男だよ。男は誰でもそうだけれど、場所と相手により、恰好つけたりも出来るし、悪党にもなれるものだから」
男はそう言うと、掛け布団を頭から被った。桂子はコンパクトを取り出し、髪の乱れを直し、口紅を引いた。男は眠ったように動かなかった。桂子は支度を整え、ドアに向かった。ドアを開けた。外は明るかった。
背中に気配を感じて振り向いた。男の眼が桂子を見つめていた。そのとき不意に鳴きたくなって、桂子は男の胸めがけて突進した。男は桂子の背骨が軋むほど、強い力で抱き締めてくれた。激しいキスが交わされた。桂子は泣きじゃくった。桂子の泪が、汗のように男の頬を濡らした。
桂子が邦子のマンションに戻ったとき、邦子はまだ寝ていた。至極は午前は八時を過ぎていた。起こすにはまだ早かった。眠っていないのに眠くなかった。
一度、仙台の家に帰りたい。行きずりの男と話しているうちにそう思ったことが、邦子のマンションに帰ってからも、ずっと持続したままだった。けれど、父と母の意見をまったく聞き入れずに家でしたことが足枷になっていた。桂子の気持ちが揺れ動いた。
仙台の街から逃れるように上京してから、まだ一週間と経っていないのに、猫の眼のように変化する薄弱な情緒、桂子は携帯に手をのばし、恐る恐る番号をプッシュする。母の声が聞きたかった。呼び出し音を七つ数えた直後、電話は繋がった。
「もしもし」
「あっ、お母さん、私」
「えっ!? 桂子かい?」
「そう、桂子よ。ね、お母さん、今、お父さん、いるの?」
「ううん、もうとっくにお仕事出かけたわよ。ところで桂子、あんた、今、どこにいるの? いくら家出同然に出て行ったからって、私にだけは居場所を連絡してもいいはずよ。おかげで夜もおちおち眠れないじゃないの」
母の声は泪ぐんでいた。
「ごめんさない」
「ううん、いいのよ。あなたが元気ならそれでいいの。それで、今、どこにいるの? 私のほうから出向くから」
桂子が仙台にいるということを疑いもしていないような母に、桂子は東京で暮らしている、とはどうしても言えなかった。敢えてそのことには触れず、
「お父さん、今でも怒っているでしょう?」
「怒るも何も、あれから毎晩お酒を飲んでは、勘当だ勘当だって騒いでいるわよ。それなのにあなたの部屋に入って煙草を咥えてポツンとしていたり、わたしに対してはあなたのお部屋の掃除だけはちゃんとしとけって言いつけたり。でも、変なお父さんだけれど、一つ言えることは、お父さん、あなたがいなくなって一番堪えてるってことよ。それだけは判ってあげてね」
「そう。私がばかなばかりに、心配かけちゃったわね」
母は私のその一言からすべてを悟ったようだった。
「そうね。でも、とにかく、一度帰ってらっしゃい。私は女だから、あなたのこと、いくらかは理解してるつもりになっているのよ。もっとも、あのときは頭に血がカーっとのぼってしまったけれど」
「私、近いうちに一度ね、帰るつもりでいるの」
「そう。それがいいわ。早く帰ってらっしゃい」
「そのときは、お父さんに一緒に謝って」
「馬鹿だねえ。一番帰って来てほしいのはお父さんなのだから。大丈夫。ちゃんと根回ししとくわよ」
と努めて明るく言う母ではあったが、今の桂子には、自分が家出した後の母の心労がよく判った。母の明るさが嬉しかった。桂子は電話を切った後も、母の声の余韻が消えない耳を、そっと両手に包んでいた。
「そうね。桂子にはそれが一番かもね」
桂子は背後からのその声に一瞬、全身を硬直させた。振り向くと、邦子が欠伸をしながら立っていた。
「愕くじゃないのよ」
「あら、私は堂々とこの部屋に入って来たのよ。あんたが電話に夢中で気づかなかっただけ。それはそうと、あんたは少なくとも一度、仙台に返ったほうがいいと思う。そりゃ、まだ別れて日も浅い男が済む仙台に変えるのは気が重いだろうけれど」
「ごめんね、迷惑かけて」
「ううん、別にあんたを邪魔にしているんじゃないのよ。でも
、もう一度東京に来るにしても、一度帰って、親を納得させて来なさい。もっとも、それに関しては、あたしは一言もないほど、親不孝者なんだけれど」
そう言う邦子は、床に尻をつき、物憂い表情で桂子を見上げる。桂子は眼を閉じた。ローカル色を残しながら、今風に明るくなった仙石線の車体を思い浮かべる。榴ヶ岡、宮城野原、原ノ町、苦竹。そんな駅名が懐かしい。
桂子は数十年ぶりで故郷に帰るような錯覚に陥る。男への無知から生じた一方通行。逃避行。その悔恨が急速に薄れ、ちょっぴり苦い思い出として語られるのはいつの日ことだろうか。そんなことを思いながら、桂子は明日にでも仙台の家に帰ろうと決心しつつある。
ピーっと汽笛のような音をたてて、薬缶の蓋が上下している。邦子が立ち上がり、薬缶の火を消す。馴れない手つきでコーヒーを淹れ始める。その顔はまだ、眠そうだった。
その眠たそうな顔から、ついさっきまで過ごしていた男の顔を思い浮かべる。電話も何も訊かなかったが、アパートへの道順はしっかりと記憶していた。仙台に戻り、今度は家を納得させて、もう一度上京するつもりだった。
そのときには東京駅から真っすぐに、邦子のマンションではなく、別れ際に強く抱き締めてくれて、熱いキスをしてくれたあの男の木造アパートに行こうと決めていた。
(了)