オハイオ州トランブル郡(4)
ロマンス小説は、心の常備薬。
もしあなたの気持ちが塞いだり、元気の素が必要なら、ロマンス小説を一服して、ロマンスの世界に心を遊ばせてから、また現実に戻りましょう。
あなたが帰って来た場所は、以前より少しばかりカラフルになっているでしょう。
フレッドはどうしてるかしら? 二年前に別れたボーイフレンドのことがふと思い浮かんだ。フレッドも背が高く、肩幅が広かった。もっとも彼はとても「アルファマン」と呼べる男ではなかったけど。私と同じ州立大学を卒業しても、ちゃんとした仕事に就けなかった。大工の見習いをしばらくやったけど合わなくて辞めて、スターバックスで働いていた。
「田舎の州立大学の学位がこんなに役に立たないとは知らなかったよ」彼はよくぼやいていた。「やっぱりアイビーリーグくらい行かなきゃダメだった」
仮に希望してたとしても、彼が入学者選抜制の名門私立大学に入学するのは難しかっただろう。高額な授業料を払うのは無理だし、奨学金を貰える成績だったのかも怪しい。それに、選抜で重視されるインターンシップや社会奉仕活動もろくにしてない上、推薦状を書いてくれるような人的ネットワークも持っていない。彼と別れた理由のひとつは、嘆いてもしかたないことを口に出すこういうところが嫌だったからだ。
地元に仕事がないといつもぼやいていた。だからと言って、今の労働市場で必要とされるスキルを身に付けようと勉強するでもなく、仕事を探しにここから離れることもない。いつも近所の仲間と集まってビールを飲んでいた。
「なあメアリー、昔はこの辺りはスティールバレーと呼ばれていて、製鉄所や自動車工場が立ち並んでいて、真面目にやる気さえあれば、仕事はいくらでもあったんだ。それで家も建てられたし、家族も養えた。高校を卒業して三十年働いて、五〇歳くらいで退職すれば、ちゃんと年金も貰えたし、社会保障もあった。大学を卒業しても、ろくな仕事がない今とは大違いだ。まったく生まれる時代を間違えたよ」
その時代のことは、私も祖父母の世代からよく聞くし、この辺にたくさん工場跡地があるから想像もつく。今は廃墟になった工場で、多くの地元労働者が働いていたのだ。
でも今さら昔話を持ち出しても、何も変わらない。製造業から知識集約型産業へ産業構造が転換した。勤勉さと丈夫な体があれば難なく労働市場に参加できた時代が終わり、特定分野の知識や技能が必要とされる時代になった。一万年前に狩猟採集社会から農耕社会に移行したように、二百年続いた工業社会も情報社会へと移行した。いまさら狩猟採集社会の時代に戻れないように、製造業が栄えた工業社会へは戻れない。テクノロジーも歴史も、個人の事情なんか無視して、不可逆的に進むものなのだ。スティールバレーは消えて、シリコンバレーが産業界をリードするようになった。いくら昔を懐かしんでみても、工場が必要とされてた労働集約型の手を動かす仕事はここへは帰ってこない。
ロマンス小説は、心の常備薬。
もしあなたの気持ちが塞いだり、元気の素が必要なら、ロマンス小説を一服して、ロマンスの世界に心を遊ばせてから、また現実に戻りましょう。
あなたが帰って来た場所は、以前より少しばかりカラフルになっているでしょう。