オハイオ州トランブル郡(1)
パトカーの音が近づいてくる。私はMacBook Aⅰrの画面から目を離した。
おそらく、近所の低所得者向け住宅保護プログラムを適用したアパートの住人が、何か問題を起こしたのだろう。大方、ドラック絡みか、痴話喧嘩が高じて暴力沙汰になったのかのどちらかだ。この辺りでは、珍しいことではない。
私はミラノに行ったことがない。ミラノどころか、生まれ育ったオハイオ州トランブル郡から出たことすらほとんどない。
スプリングブレイクで、三年前に同級生のリサとニューヨークに行ったのが、最後の旅行らしい旅行だ。あの時は、Aⅰrbnbでブルックリンの小さなアパートメントを借りて、二人で泊まった。
最高だった。
近隣農家の食材を使ったヘルシーな食事ができるオーガニックレストラン、こだわりのエスプレッソが人気のサードウェーブ系カフェ、いろんな種類のクラフトビールが選べるバー、野外のDJイベント、アジア系・ヒスパニック系・カリブ系などが入り混じる人種の多様性、みんなが創造性を解き放ちそれを認め合うことで生まれる解放感。地元のオハイオ州トランブル郡にはないものばかりだった。
煙突が残る工業エリアを再開発して、複合商業施設にリノベーションしたサンセット・パーク近くの〈インダストリー・シティ〉に行った時は、びっくりした。元は工場だか倉庫だった建物が、クールなローカルビジネスのオフィス、レストラン、カフェ、ブックショップ、イベントスペースで埋められた、お洒落な商業施設に生まれ変わってた。
ヒップな客で賑わうここのフードコートで、生まれて初めてタイ料理を食べた。
「うちらの地元にもたくさん工場跡地あるけど何が違うんだろうね、メアリー?」リサがタイヌードルをすすりながら訊いた。
「こんなにいろんなタイプのローカルビジネスはないし、人種的な多様性もないし、こんな客層もいないよね。だから誰も地元に投資しない」私は答えた。
ブルックリンは、再開発で文化的なイメージが向上して、富裕層が地域に流入するジェントリフィケーションが起きたため、家賃が高騰して、元々いた地元民が押し出されてしまったと聞く。でも人が集まる分、人口が減り続けている私の地元よりマシだと思う。廃墟になった製鉄所や自動車工場の跡地はいくらでもあるけど、〈インダストリー・シティ〉みたいな再開発をするデベロッパーは現れない。
マディソン・アヴェニューの〈エルメス〉にもドキドキしながら入った。お上りさん丸出しにならないよう気をつけて、落ち着いた態度でピカピカのガラスケースに入ったアクセサリーやバックを眺めた。
今は、あの時のことを思い出しながら、ロマンス小説を書いている。ミラノとNYCでは、かなり雰囲気が違うはずだけど、あれが今のところ、私にとって唯一の異文化体験だったから。
初めて書く作品なので、主人公の設定は私に近くした。その方が、感情移入できて書きやすい。
主人公のキャサリンが、地元の州立大学を卒業して、教師の学位を取って、地元の公立学校で教えているのは、私と同じ。彼女は中学の理科教師で、私は高校の社会科教師だけど。