ミラノ(3)
ロマンス小説は、心の常備薬。
もしあなたの気持ちが塞いだり、元気の素が必要なら、ロマンス小説を一服して、ロマンスの世界に心を遊ばせてから、また現実に戻りましょう。
あなたが帰って来た場所は、以前より少しばかりカラフルになっているでしょう。
祖父が昼間オフィスに出勤して不在の時は、運転手がミラノ市内を案内した。
大聖堂、スカラ座、ドゥオモ広場、お洒落なカフェにラグジュアリーなレストラン。歴史の厚みと文化の豊かさに圧倒された。
祖父が経営するブランド〈タラリア〉の本店にも案内された。ショップのあるガッレリアは、ガラスのドームに覆われ、フレスコ画が建物を彩り、モザイクのタイルが床に広がる、施設そのものが芸術作品のような空間だった。そのガレリアの中心に〈タラリア〉は店を構えていた。店内は、信じられないほど優美で繊細な商品群が、磨かれたガラスケースの中に収められていた。まるで、洗練された大貴族のクローゼットに迷い込んだ気がした。もちろん、入るのは初めてだ。中学校の教師が買える商品ではないし、格式の高さに気後れもする。そもそもアメリカでは、ニューヨークの五番街にしか店舗がない。彼女とは無縁の場所だ。
「お気に召したものがあれば、ご自由にお持ちください。お祖父様から、そうしてくれと伝えられています」ファッションモデルのような出で立ちの女性スタッフからそう言われたが遠慮しておいた。中西部の中学教師には必要ないと思ったから。
〈タラリア〉は、裕福なリゾート客向けの
サンダル・ブランドとして創業された。そのデザインと機能性が、目の肥えた富裕層に支持され、フットウェアで最初の成功を収めると、バック、洋服、アクセサリー、香水と徐々に商品の幅を広げていく。審美眼とビジネスセンスに長けた祖父は、順調にビジネスを発展させた。
ただし、いたずらに規模を追うことを良しとせず、高品質・少量生産の製品を、本当に必要とする顧客に届けることにこだわり続けた。株式公開はせずに、ファミリービジネスの形態を取り続け、ファッション・コングロマリットや投資ファンドの買収から身を守っている。それでも、ブランド・イメージは保守的になり過ぎず、斬新な感覚のクリエイティブ・ディレクターを常に起用し、その動向は世界のセレブリティやファッショニスタの注目の的だった。
「わしの店に行ったそうじゃな。どうだったかい?」ショップに案内された日のディナーで、祖父から尋ねられた。
「素晴らしい商品でした。伝統と革新が見事にブランドイメージの元に統一されていて、とてもシックなのに新しい。ラグジュアリーなインテリアも、ガッレリアとぴったりでした。スタッフもとても洗練されているのに、フレンドリーで、あんな接客は初めてです」
「そう言ってくれると嬉しいよ」祖父は微笑んで、ワイングラスを口に運んだ。傍に立った使用人が、空いた祖父のグラスに赤ワインを注ぐ。
「今日お前の姿を見たショップのスタッフが、お前に合いそうなものを見繕ってくれた。良かったら試着してくれんかね」祖父はダイニングルームの端に積まれたブランド名が記された箱の山を指差した。
「お止めになってください。そんなつもりでお店に行ったんじゃないですから」
「わしの頼みと思って、着てもらえんかな?」
キャサリンは、しぶしぶ席を立って、箱の山に近づいた。いくつか箱の蓋を開けて、最初に見つけたドレスとサンダルを手に取った。高価そうなアクセサリーはパスした。
着替えを終えて祖父の前に立ったキャサリンを見て、彼は微笑んだ。
「良く似合うよ。お前の祖母のジュリアの面影と重なる。ドレスアップした彼女とパーティに出かけたことを思い出すよ」
シンプルな黒のドレスは、中肉中背の彼女の体にぴったりだった。柔らかな素材と精妙なカッティングが優美なシルエットを描いて、彼女の体のラインを綺麗に浮かび上がらせていた。ドレッシーな黒のサンダルは、羽根のような履き心地で、床から数インチ上を浮かんで歩いているような気がした。
その装いは、彼女が祖母から受け継いだライトブラウンの髪の色と目の色と絶妙なコントラストをなして、古典的な肖像画の中の貴婦人のような品格すら彼女に与えていた。
「ブランド関係者へお前を紹介するお披露目パーティを開きたい。それを着て出席してくれんかね?」祖父が聞いた。
「わたしのために、そんな華やかなパーティーを開く必要はありません。テキサスの中学教師のわたしが、そんなところに居るのは場違いです」
「どうやらお前は、自分の価値がわかっとらんようじゃ。長らくこのビジネスに携わってきたわしには、人を見る目がそれなりにある。気品やエレガンスは、先天的な気質だ。望んで得られるものではない。お前の祖母にはそれがあった。そして、それはお前にも受け継がれている」
キャサリンは、押し切られるように三日後に開催されるパーティの主賓として参加することになった。