8-10
重たい雰囲気の中、静かに口を開いたのは侍の男だった。
「ーーーーーーーー最後まで拙者たちの我が儘に付き合ってくれて感謝する」
そうして男は立ち上がる。
その両腕には小さな少女の身体が抱えられている。
その頬は緩んでいて、とても幸福そうなもので。
その身はこの世界に10柱しか存在しないヴァーテクスで、人々を恐怖させる病魔の異名を持つ存在。
だが、そんな恐ろしい姿など、微塵も感じさせない、ただの幼い少女の姿に見える。
………………まるで、父親の腕の中でぐっすり眠る小さな女の子。
だが、その体はこの先、二度と動くことはないと。
ただ、その実感だけがじわじわと胸を苦しめた。
侍を囲うように、ドミニクさんとアルドニス、そしてアンジェリカが立つ。
その視線は侍の腕の中にいる少女に向けられている。
「……………………私たちは、私たちのために戦ったわ。お互いに、譲れないものを賭けて」
俺たちが戦ったのは、攻撃を受けたからだ。だけど、この街の痛手は対バジレウス戦への影響がでかい。それを加味して、俺たちは全力でデービル、侍と戦った。
…………………結局、俺はまた何もすることができなかったけど。
「…………………貴方ほどの剣技を持つ方と出会えて、私は良かったです」
続いて、ドミニクさんが口を開く。
それを受け、侍の男はただ一言。
「……………かたじけない」
と、口にした。
「…………………お互いに身体は限界のはずじゃ。じゃが、拙者と違って、貴殿たちが瘴気を受けた時間は短い。今すぐ手当てをすれば貴殿たちは助かるはずじゃ」
「……………………ありがとう。直ぐに薬を貰ってくるわ」
そう言って、アンジェリカは街の中へと向かおうとする。
「あ、それなら俺が」
それを引き留め、自分が薬を取りに行く提案をする。
すると、アンジェリカが少しだけ目を吊り上げ、頬を膨らませた。
「何を言ってるの! 私以外は身体ボロボロでしょ!
特にタクミは今回も無茶をして。どんだけ隠してても私にはわかるんだから!」
凄く怒り口調で責められる。
「私はヴァーテクスだし、アルドニスが守ってくれたお陰で、瘴気はそんなに受けてない。
だから、私が取りに行くわ」
強気でそう主張するアンジェリカに、俺は折れることにした。
「分かった。じゃ、お願いする」
「ええ、任されたわ」
嬉しそうに胸を張って、アンジェリカは街の奥へと消えていった。
残されたのは男3人。
ルイーズとローズさんは少し離れたところで地面に倒れ、気を失っている。
胸は動いているので、死んではないようだ。
そのことに安堵して、俺もその場に腰を下ろした。
アルドニスも地面に倒れ込み、呼吸を落ち着けようと試みている。
眼や鼻、口から血が垂れているため、相当に危ない状態だと思われる。
対する侍とドミニクさん。
恐らく、ドミニクさんはあまり瘴気を受けてない。
……………………気がする。
だが、吐血はしていたし、油断は禁物だ。
侍も同じく安静にしているようだ。
「……………………長い間、瘴気を浴び続けて、あの強さ、ですか。
末恐ろしいですね」
「貴殿ほどの達人が何を言うか。それに、それを負けた言い訳にはしたくないぜよ」
「……………………そうですね。すみません」
「……………………そうじゃ。お互いに状態は悪かった。その結果、貴殿が勝ったのじゃ。それを誇れ」
「いえ、私は勝っていません。むしろ、この戦いは私たちの負けです」
ドミニクさんと侍はなにやら話し合っている。
さっきまでお互いに命を賭けて剣を振るっていたとは思えない。
「……………………拙者の方こそ、これを勝利とは考えたくない」
「それなら、この戦いは痛み分け、という事にしましょう。
また、いつの日か、決着が付けられる日を、……………………願って」
「そうじゃな。それはいい」
侍は優しく微笑んだ。
「……………………それで、貴方はこれからどうするのですか?」
「……………………このまま、どこかの森の奥で静かに暮らそうと思う。限られた余生じゃからな。
デービル殿と描いた夢の続きを描きたい」
「……………………それは、とてもいいですね」
暫くすると、アンジェリカが薬を浮かせて戻ってきた。
そこで、侍は短く別れを告げる。
「薬は要らないのですか?」
ドミニクさんがその背中へと語りかける。
侍は少し、こちらを振り返り……………………。
「それはもう、拙者には必要ない」
そう答えた侍はゆっくりとした歩みで、街の外へと向かって行った。
濃い緑色をした粘性のある液体。
「……………………まさか、これを飲むのか?」
「あたりまえでしょ。このままじゃ死んじゃうんだから」
俺の質問に、アンジェリカが答える。
視線を横に移してみると、何とも苦そうな顔でアルドニスが薬を飲んでいるではないか。
……ドミニクさんは涼しい顔で薬を飲み、倒れている女性2人に対して紳士的な行動を取ろうとしている。
アンジェリカに手渡された薬を手に取り、中の液体の匂いを嗅いでみる。
まるで、「カメムシを詰め込みました」と誇らしげに語るような臭いに、思わず顔を背け、吐き気を堪える。
「………いや、これ薬の臭いじゃない! 俺の知る限りだと虫の臭いなんだけど!?」
「なにで作られてるかは知らないけど、大丈夫よ。だってカルケリルがニコニコで渡してきたんだもの」
その答えに俺は唖然とせざるをえなかった。
「いや、それ一番信頼しちゃいけない笑顔!
っていうか、人を疑うことを覚えようか??」
不穏な予感がする。
これを飲んだら最後、人に戻れないような……。
そんな予感が。
「大丈夫だって。カルケリルの傍にいた医者もこの薬を勧めてきたから」
「それ、ヤブ医者じゃないだろうな………」
「タクミって結構疑い深いわよね」
「いやいや、普通だから。アンジェリカが疑わなさすぎなんだよ」
俺は今一度、緑の薬と向かい合った。
まるでカメムシをスリつぶりて作られたような臭いのする薬を、意を決して飲み込む。
……………味は最悪だった。
「……………オエッ。暫く何も食えないかも」
口の中に残る嫌な味を早く忘れたい気分に駆られる。
全員が薬を飲み、何とか危機は脱した、というところだ。
「…………………それにしても、デービルの能力に対してしっかり対処法となる薬があるなんてな」
俺は単純に疑問になったことを口にした。
デービルは病魔のヴァーテクスだ。彼女が振り撒く病を治す薬がつくられているのなら、ヴァーテクスとしての彼女の存在が霞んでしまうのでは、と。
「……………………それは、彼女がたった一種類の病魔しか扱っていないからよ。1300年もあれば人間は対策を講じれる」
「じゃ、じゃあ彼女は全然本気じゃなかったってことですか?」
「そうね。私の知る限り、デービルが本気で人間を傷つけようとしたことなんて一度もないもの」
「……………………なるほど。それは恐ろしいな」
今思い返してみても、彼女はどこか迷っていたように見える。
口や態度は悪くても……………………。
いや、それこそ自分を騙すための手段だったのかもしれない。
デービルが何のために俺たちと戦ったかは分からない。それでも、彼女は本気で俺たちとの対立を望んでいたわけではない。
「……………………バジレウス」
時が経てば経つほど。ヴァーテクスと関われば関わるほど。
敵意が増していく。
やつを倒すための作戦は既に動き出している。
下を向いてばかりでは前に進めない。
その時だった。
視界の端に、茶色い人影が写る。
「――――――――っ!」
息を呑んだのも束の間。
それは手を伸ばし、アンジェリカに抱き着くように腕を絡めた。
「――――――迎えに来たよ。アンジェリカ」
粘りつくような声が囁かれる。
茶色いローブに身を包み、頭のてっぺんから、地面に着くほど長いこげ茶色の髪と、そこから覗く狂気に満ちた目。
「……………、アンジェ―――――――!」
必死に腕を伸ばし、地面を踏み出す。
1秒にも満たない刹那。自身の目を疑う光景が目の前で展開される。
空間に空く真っ黒な穴。
その中に引きずり込まれる茶色の男と、そいつに抱き着かれたアンジェリカ。
ふたりはその穴の中へと消え―――――――。
伸ばした指の先がその穴に触れる寸前で、穴は緩やかに、素早く閉じ、そこには何もなくなった。
俺は体勢を崩してその場に倒れる。
そこで異変に気付いたドミニクさんたちが急いで駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫なわけあるか! アンジェリカがっ!」
だが、どれだけわめいてもアンジェリカが帰ってくるわけではない。
あの男はなんだ?
アンジェリカはどこへ消えた?
先程まで目の前にいたアンジェリカが突如として消えた。
その衝撃に、俺たちはうまく状況を呑み込めていない。
「…………………そうだ、奴は、あの男は何だ!?」
俺の問いに、答えは返ってこない。
空間に突如出現し、消えた穴が奴の能力だとしたら、奴はヴァーテクスという事になる。
俺がまだ遭遇していない最後のヴァーテクス。
だが、ドミニクさんもアルドニスも互いに顔を見合わせ、首を横に振った。
「すみません。正体が、分かりません」
こんなにも緊張しているドミニクさんは初めて見た。
だが、それではこれからどうすればいいのか……………………。
「カイロン・テオス。それがさっきの男の名前だ」
そこに、突如知っている声が響く。
「…………………カイ、ロン?」
「ドミニクやアルドニスが知らないのも無理はない。カイロンが地上に現れるのは1300年ぶりだからね」
説明するように現れたのはカルケリルだった。
彼の説明に、ドミニクさんが声を上げる。
「……………………今のが、カイロン様、という事ですか?」
その質問に、カルケリルが短く肯定を示す。
「カルケリル。詳しく説明をしてくれ」
「……………………あんまりゆっくりしている暇はない。だから手短に説明するよ。
さっきの男はカイロン・テオス。僕も1300年ぶりに見た。冥府のヴァーテクスだ」
「―――――――、冥府」
「そう。彼は死者の魂の都。冥界を支配するヴァーテクスさ」
息をつく間もなく。俺たちは次の戦いへと巻き込まれた。