5-8
ふと、目が覚める。
潜水後に水面から顔を出して酸素を肺に取り込むように自分の意思で呼吸を再開させる。
ゆっくり瞼を開ける。
目に入ってきたのは岩の天井だった。
頭のしたがゴツゴツしていて痛い。
ゆっくり体を起こした。
「タクミ、身体は平気?」
そう呼びかけられた声に、俺は振り向いた。
アンジェリカがこちらの顔を覗き込むようにして座っている。眉をひそめて俺の顔を凝視してくるその様子は非常にかわいらしかった。
「うん。平気だよ」
そう答えてから、左腕に残る重たい痛みに気付いた。
「-----痛っ!」
まるで、脳に電流が流れたかのような痛みを感じる。
熱をもった頭は徐々にその温度を下げていく。
赤く染まった視界が正常さを取り戻す。
気が付けば、心臓の鼓動は早くなっていて、荒い呼吸を繰り返している。
ズキズキと左腕が痛んでいる。視線を落とすと、左腕は白い包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「止血と固定はしたから。無理に動かさないでね」
「…………はい。ありがとうございます」
アンジェリカの忠告を素直に受け入れる。
「………アンジェリカは1人だったのか?」
「うん。寂しかったわ」
そう言って仄かに顔をシュンとさせる。
その横顔に萌えを感じる。
その後、アンジェリカは考え込むように口を閉じた。
「…………タクミはもう、戦わない方がいいわ」
重たい沈黙の後、アンジェリカはそう切り出した。
「その傷はかなり深いものよ。ドミニクのとは比べ物にならないくらい。おそらく、元通りにはならないと思うわ」
表情に影を落としてそう言う彼女に、俺は俯いて自身の左腕を見詰めた。
この世界には魔法は存在していない。治療文明は、地球よりもひどいものとなっているだろう。
「…………アンジェリカの能力で、誰かに治療スキルを与えて直してもらうのも?」
「ええ。できないわ。私の力はそこまで万能ではないわ」
「…………そう、なのか」
最後の希望が途切れる。ズキズキと痛む左腕。それは容赦なく俺の神経をすり減らしていく。
左腕の損傷は激しく、もう元に戻ることはない。
その事実を受け入れると、鼻の奥がツーンと痛くなった。
それでも、俺はあの時の選択を後悔していなかった。
「そう言えば、ルイーズは?」
辺りを見渡すと、彼女の姿がどこにもなかった。
「あと、ここがどこなのかも教えて欲しい」
天井が低く、小さな洞窟を想起させる造り。ここが迷宮のどこに当たるのかを把握したかった。
「まず、ルイーズはタクミより先に目を覚まして外の様子を見に行ったわ。そして、ここは神殿の地下6階。横穴があったから、そこに身を隠してるのよ」
「なるほど。だから天井が低いわけか」
「タクミ、話題を変えないで。私は今、タクミの怪我の話をしてるのよ」
その一言で、空気が張り詰めたのを感じた。
彼女のこんな顔を初めて見た気がする。
「…………心配してくれるのは嬉しいけど、俺は大丈夫だよ」
「大丈夫? その傷のどこが大丈夫なの?」
「…………一体、なにに怒っているんだよ」
「…………これ以上、タクミには戦わないで欲しいの」
彼女の苦しそうな顔を視る。
「…………それは、無理だ」
そして、否定する。
出来れば俺だって戦いたくはない。痛いのも苦しいのも嫌だ。
自分から戦いたいなんて人間はどうかしてる。
それでも、そんな戦いの嫌な部分に目を瞑ってでも戦わなければいけない理由を人々は持っているのだろう。
「怪物のヴァーテクスに会いに行く。それがアンジェリカの目的だろ。みんな君のために頑張ってる」
俺だけじゃない。
俺以外のみんなが傷付き、アンジェリカの願いを叶えるために戦っているのだ。
ここで、俺だけが引くなんてことはありえない。
「怪物のヴァーテクスに会いに行くためにはこの迷宮を越えなければならない。誰かが傷を負うのは当たり前のリスクだ。それでも、みんな必死に頑張っているんだよ!」
自分の為じゃない。
他の誰でもない、君のために。
「やりたいことがあるなら、そのためのリスクは容認しろ。するしかないんだ」
「…………そう、だよね。私、どうにかしてたわ」
俺の言葉に、彼女は口を閉じた。
「………………………………なんで、俺の時だけ過剰に反応した?」
長い沈黙の後、俺は迷った末に自分の中で渦巻いた疑問を口にした。
それは、今まで考えないようにしていた彼女の側面。
「ドミニクさんがレオガルトに噛みつかれた時も、さっきアルドニスが水瓶の怪物に襲われた時も、君は冷静だった」
「―――――――っ」
彼女の息を呑む音が聞こえた。
それでも、一度疑問に思ってしまえばそれは止められない。
「最初はアンジェリカがヴァーテクスだからだと思っていた。成したいことがあるから、そのための犠牲を容認できる存在なのだと…………」
でも、それは違った。
「…………アンジェリカにとって、俺はなんなんだ?」
「………………………………」
アンジェリカは答えない。
長い沈黙が続く。
「…………なんとか、言ってくれよ」
「…………言ったら、タクミは私に協力してくれる?」
俺に向けられたその顔は、ひどく歪んでいて………………。
俺は言うべき言葉を失ってしまった。
「…………内容を、聞いてみない事にはわからない」
以前の俺ならば、迷うことなく頷くことができただろうか。
彼女がたとえ、どんなことを考えていても、それを許容して協力することが…………。
「君は以前、俺の事を特別だと言っていた」
フローガを倒し、ブラフォスの街にユースティアが来る前に話した時のことを思い出す。
「俺が君の事を知らない唯一の存在だって。…………この言葉の意味を、教えてくれないか?」
「……………………ごめんなさい。覚えてないわ」
そう言って苦々しく笑う彼女の顔に、ズキッと胸の奥が痛んだ。
「…………嘘だ。だってー――――」
「ヴァーテクスは人間と違って嘘はつかないのよ」
俺の言葉は彼女のものに掻き消されてしまう。
芯が揺らぐ。
彼女を信用したいという葛藤が生まれる。
「…………タクミは、これからどうするの?」
「…………戦うよ。…………君を助けるために」
おかしな話だ。
最初は戦うという俺の意思と、そうさせたくない彼女の話し合いだったのに。
今は少しだけ戦いを拒否している自分がいる。
「…………ありがとう」
そう言って微笑む彼女。
その笑顔を見るのが、今はとても辛かった。
その後、俺たちは会話を交わさなかった。
しばらくすると、こちらに近付く足音が聞こえてきた。
探索を終えたルイーズが帰還したのだ。
「お、起きたのか!」
そう叫んだルイーズが、俺の胸に飛び込んでくる。
「ぐはっ!」
「よかったぜ。無事に目を覚ましてくれて!」
力強く抱きしめられて胸が痛い。
それに、左腕の傷が悲鳴を上げる。
「ちょ、ちょっと!?」
「なんだよー。照れるなよー」
「そういう事じゃない!」
無理矢理、彼女を引きはがす。
「あ、アンジェリカ様! オレ、7階に降りる階段を見つけてきましたよ」
俺から離れたルイーズはアンジェリカに向き合って、自慢げにそう言ってみせた。
「なら、急ぐとしましょう」
その背中はとても凛々しくて、男の俺でも魅了されるほど、かっこよく映った。
重たい身体を動かしてその背中を追う。
「タクミとルイーズに、武器を渡しておくわ」
そう言って差し出された剣と槍斧をそれぞれ掴む。
アンジェリカを信用したい。
それでも、そうすることは簡単には出来なくなってしまった。
俺は迷いを抱えた足で前に踏み出す。
この葛藤は、邪魔なもので。足枷にしかならない余分なものだと分かっていても。
簡単に割り切ることは出来ない。
俺はこれまで、何のために頑張ってきたのか分からなくなる。
俺はこれから、何のために頑張ればいいのか分からなくなる。
様々な感情に蓋をして、俺は顔を上げた。




