3-6
ハンナという少女は、病弱な女の子だった。
母親が亡くなる前に聞かせてくれた、悲しいお話。
娘の帰りを待つ父親の物語を、将来自分の子にも紡いでいくことを母親と約束した。
その約束を果たすために、ハンナは自身の身を犯す病気に負けず明るく、かわいらしい少女に育った。
母親を病気で亡くし、父親もはやくに亡くした。
同年代の子は次々とこの村から出ていき、気が付くと少女は一人になっていた。
それでも、ハンナは立派に育ったのだ。
いずれ、病気に負ける日が来ると。受け入れてなお、少女は今日まで懸命に生きてきた。
人を助けることに躊躇わない。
それが危険な行為であっても。
ハンナという少女は病弱な女の子だ。
それでも、心は強く成長していた。
少女を育ててきたソフィアを含めた村の人が、想像するよりも遥かに。
少女は強い人間だった。
故に、怪物が村に侵入してきたと報せがあった時、ハンナは彼の部屋に置いてあった剣に手を伸ばした。
ソフィアと一緒に家を出て、怪物から逃げる人の流れを利用して。
隙を突いてソフィアから離れた。
逃げ戸惑う人の流れに逆らって進んでいく。
全員が揃って逃げれば、遅れた誰かが犠牲になるのは明白だったから。
誰かが囮役を引き受けなければ。
そうしてハンナは恐怖に引きつる足を動かして、怪物がいる方向へと進んだ。
その結果、母親との約束が守れなくなっても。
それでも、より多くの人が助かるならと。
周りから人がいなくなり、村の中を蹂躙する獣を前に、ハンナは恐れを越えて立ちはだかる。
剣で獣の注意を引いて、距離を取りながら怪物の攻撃を避け続けた。幸いだったのは怪物が一体だったことだ。
胸と脚に痛みを感じた。
それでも、直ぐに喰われるわけにはいかなかった。
「―――――はあ、はあ」
荒い呼吸を繰り返して、獣から距離を取る。
鋭い牙や爪を搔い潜って、何度も死の感触を避けて。
反撃なんてできない。
そんな余裕なんて存在しない。
多くの人が救われるようにと、ただそれだけを願って体を動かす。
少女は自身の安全は保障していない。
1秒でも長く怪物の注意を自身に引き付ける。
ただそれだけを繰り返した。
近くの街から応援が。
近くにいるヴァーテクス様が助けに来てくれる。
そんなことを朧げに考えながら逃げ続ける。
自分が死んだ後でいいから。
自分以外の全員が助かれば、それでよかった。
数分間、逃げ伸びることができたのは少女自身も驚いた。
でも、もう少女の足は限界だった。
なにもないところで躓いて、地面に倒れる。
そんな少女に、顔を歪めた獣の牙がゆっくりと迫る。
眼前に浴びせられる獣の息。
ハンナが動き回ったせいで、怪物も息が荒くなっている。
何度も何度も息が顔に掛かる。涎が地面に垂れ落ち、ハンナに迫る。
「ここまでで、大丈夫だよね」
最期にそう呟いたハンナはぎゅっと目を閉じた。
怪物が飛び掛かって来る気配があった。
その牙に身を捧げて…………。
身体を何かに引っ張られた。そんな気がした。
謎の浮遊感に、閉じていた瞼を開く。
ひとりの少年の顔があった。
その少年は少女の身体を抱きかかえて一緒に地面を転がる。
また獲物を喰らえなかった怪物はその勢いのまま古い建物に突っ込んだ。
地面の上を2人は転がる。やがて、その勢いは弱まり静止した。
少女は顔を上げて胸を抑えて、
「なんで…………」
と言葉をこぼした。
♦♦♦
俺は、ハンナを抱きかかえた腕を解いた。
彼女の言葉は消えてゆく。
ただ、彼女の腕を掴んで立ち上がろうとする。
怪物が来る前に、逃げなければならない。
その腕は、他でもない彼女に弾かれてしまう。
それに驚いて、じっと彼女の顔を見詰める。
すると、彼女は「ありがとう」と笑顔を浮かべた。
直後、怪物が古い建物を吹き飛ばし、喉を鳴らしてこちらに歩いてくる。
「でも、大丈夫。タクミも早く逃げてね」
そう言って立ち上がったハンナは、俺に背を向けて持っていた剣を怪物に向けた。
その光景が、ここにはいない彼女と重なった。
俺は知っている。
ハンナは病弱な女の子だという事を。
なのに、その背中は俺が憧れてきた彼らに似ていた。
ただ、助けようと思った。
助けた後に逃げようと考えていた。
だが、それは彼女に否定されてしまった。
「…………どうして」
不意に、俺の口から言葉がこぼれた。
「どうして君は、…………君たちは、そんなに強いんだ?」
「強くないよ。今だって、こんな方法でしか誰かを守れない」
「違う。そうじゃない。なんで怪物に立ち向かえる? 怖くないのか? なんで自分より強い相手に立ち向かえるんだよ!?」
「怖いよ。でも、諦めたくないの」
そうして、俺から離れていく。砂で汚れたボロボロの身体を引き摺って。
それは、自転車に乗れない子供が、それでもと前に漕ぎ出す姿のように。
心が震えた。俺の感動を置き去りにして、彼女は進んでいく。
弱さを目の当たりにして、逃げ出した自分とは違って。
弱さを受け入れてなお、立ち向かえる人の強さ。
すなわち、人間の勇気を見た。
レオガルトは今度こそと、口を大きく開けて、ハンナに嚙みついた。
噛みつこうとして、再びそれは叶わない。
地面を蹴った俺は寸前のところで、彼女を引っ張り腕の中へと引き寄せた。
短い悲鳴が聞こえる。だが、それに構わず彼女の身体を抱きとめて、怪物から距離を取った。
それは、無意識下の行動ではなく、彼女を死なせたくないという想いがあった。
ハンナは驚いてこちらを見上げている。
それに、頬を緩ませて、そっと地面に下ろした。
「…………剣を貸してくれる?」
「えっ? …………はいっ」
最初は困惑の色を浮かべていた彼女はそっと剣を差し出してくれた。
それを優しく受け取って、彼女から離れる。
「そこで、待っててね」
優しく微笑んで、前を向く。
対峙するのは獅子に似た怪物、レオガルト。
奴の牙、爪、角を認識する。
レオガルトは俺を見て、低く喉を鳴らして身構えた。
胸が熱い。
奴は俺に対して怒りを放っている。
こわい。腕が震えて、剣が安定しない。
でも、不思議と頭は冷静だった。
心臓はうるさく音を刻んでいる。
「…………お前とは、これで3度目だな」
静かに、口を開いた。
1度目はこの世界に来た時。
2度目はこの森を出る前日に。
おもえば、奴は俺の弱さの象徴だった。
剣を、奴に向ける。
ハンナは病弱な女の子だった。
俺よりも弱い少女の強さに魅せられた。
勇気をもって恐怖を乗り越える人間の美しさを垣間見た。
憧れが更新される。
俺にもできると心が奮い立つ。
俺の弱さの象徴。
目の前の怪物と、自分が行った過去の過ちに向かい合う。
その為に。
俺は再び剣を取ったのだ。