#05「クリスとフェイリス――出会い」
もんどり打つようにはねて空中で爆発した戦闘ヘリが地上に叩きつけられる。
三度、ほとんど満載に近い弾薬を誘爆させながらそれは地上に炎と爆圧の厄災を振りまき、地面に張り付いて起き上がれないクリスの肌をわずかに炙った。
地上を爆発の連鎖が走る音、それに巻き込まれた人々の悲鳴が少女の鼓膜と心を震わせる。
「あ……あ、ああ…………」
火龍の吐く炎に焼き尽くされるかと思った瞬間、三機の攻撃ヘリが飛来して火龍の注意がそちらに向いた時は助かったと思ったが、結局は長引く地獄が演出されただけだった。
足元から自分を照らしてくる炎にその体を赤く染め、邪魔者が全て叩き落とされたことに満足した火龍が低いうなり声を上げる。
この燃える街の中で魔王が存在するとすれば、それはその火龍のことだった。
もはや刃向かうものもおらず、思うままに破壊の力を振るい全てを蹂躙する魔獣。
この場に存在する全てのものの運命を決定できるもの。
幾度もの爆発にさらされながら、必死に伏せることでわずかな幸運にすがりついてきたクリスは惨状しかない自分の周囲に絶望した。
煤に汚れた顔を上げると――ほぼ真上といっても差し支えのない角度に巨竜の頭部があった。
アスファルトに爪がめり込んだ火龍の足は目の前にあって、太く強靱な脚を覆っている鱗の一枚一枚の形がわかりやすいくらいに観察できる。
グゥゥゥゥ……と唸る火龍がその動きを止め、地に這いつくばる少女に視線を定めた。
もう一歩、その巨大な脚が前に踏み出せば確実に踏み潰されるという距離で、少女と火龍はその視線を交差させる。
目の前で怯えるちっぽけな獲物。それをひと思いに殺さないのは、幼児が蟻をいたぶるのに似た無邪気な殺意からなのか。
火龍の迷いが自分を助ける助けないではなく、どう殺そうと考えあぐねているのだということを直感で知りクリスの思考が真っ白になる。
避けがたい死を前にした時、人間はなにもできないということを知って……自分の人生の終焉を覚悟した。
十数秒の時間をかけて考えた挙げ句、火龍はその脚を大きく上げた。
高さ三メートルほどの高さまで持ち上がった足が完全にその裏を見せているのを見て、クリスの体の全ての力が抜けてまぶたが自然に閉じられる。
最後に目をつむっても、小説や映画などでよく聞く走馬灯が巡ってくることはなかった。
そして――真っ暗闇になったクリスの世界で、すさまじい轟音が衝撃と共に鳴り響いた。
*****
『あ…………』
次に目を開いた時、クリスは飛んでいた。
何かの錯覚――いや、錯覚ではない。確かに飛んでいる。風に乗った綿毛のように飛んでいる。
そよ風を頬に受け、風船が空に吸い込まれていくよりもゆっくりとした速度でクリスは天に向かって上がっていた。
既に地面は遙か下で……ほとんどのビルの高さを飛び越えて体が上へ上へと舞っている。
『ああ……そうか……』
ぼんやりとした思考。
全てから現実感が失せていて、自分が空を飛んでいるということさえ心が素直に受け入れていた
『あたし、死んだんだ』
燃える街の光景が次第に……ゆっくり、ゆっくりと遠ざかっていき、半ば眠り夢を見ているかのようなような気分でクリスはそれを見ていた。
『人は死んだら天国に行くってママがいっていたのは、本当だったんだ』
体は重さを失っていて……心地いい。
『じゃあ、あたしも天国に行けるんだ……悪いことはしてこなかったし……』
――…………ぶ?
『天国に行ったらパパやママや……あの子も待っているのかな。そうしたら、昔のように暮らせるのかな……』
――大丈夫?
さっきから耳をくすぐるように打ってきていたその声にようやく気づいて、クリスは自分が誰かに抱きかかえられていることを知った。
それは銀色の鎧を着た天使だった。
背中から虹色の薄い羽衣を引き、それを棚引かせて緩やかな速度で空を飛んでいる。
自分はさっきからその銀色の天使に両腕で抱かれて空を飛んでいるのだ。
全身のほとんどを覆う体格にしては大ぶりの鎧、そして頭の全てを隠した兜。
『いや……天使じゃないな、どっちかというと戦乙女……』
戦乙女――それは北欧神話の伝承に登場する、戦で死んだ戦士の魂を死者の館に連れて行く戦装束の精霊。
自分は戦士でもないのに、死者の館に連れて行かれようとしているのか。
『……でも、それだってただの言い伝えの話だし……本当の所は行ってみないとわからないか……』
目をつぶり、このまま全てを委ねていればそのうちわかる。
どうせ、自分にはそれしかできないのだから――。
『ねぇ――大丈夫?』
再度耳を叩いたその声に、はっ、とクリスの意識が現実と繋がった。
次にはクリスの体が床に下ろされて、忘れていた体の重みが蘇る。
それが麻痺していた感覚をいくらか回復してくれて、断線されていた思考の回路が繋がっていくのを感じた。
「あ……た、し……」
自分が死んだのではない。ちゃんと生きているという感覚がようやく戻ってくる。
自分たちが着地したこの場所に見覚えがあるのを感じて、次にはここがこの街で最も高い建築物である市庁タワー、三十階建てビルの屋上であることを知った。
ほぼ毎日無料で開放されているその屋上展望台はユーラスト市に住むものならば、みんな馴染みがあるといって過言ではない、その場所。今はまだ時間が早いためか……他に誰もいないようだ。
今、自分がここにいるのが夢でも妄想でも死後の世界でもないということをもう一度確認してから、クリスは自分をここまで運んでくれた戦乙女――いや、戦乙女とは非なるものを見つめた。
地面にへたり込んでまだ立つことのできないクリスを見守るように、彼――いや彼女は直立した姿勢でクリスを見下ろしていた。
体を包むその装甲は直線のシルエットでまとめられ、本来の意味での甲冑にはあり得ない電装品の機器が至る所に設置されていて機械そのもののイメージを見せている。
背丈は……あまり高くない。中に色々と仕掛けを内蔵していそうな、巨大なブーツにも見える厚底の足を計算に入れてもクリスより少し高いぐらいだ。装甲の中に収まっているのはクリスより少し低いくらいだろう。
やや不自然に思えるくらいに厚い腕や脚の装甲とは打って変わって二の腕や太ももは装甲には覆われていない。ただ、素肌とおぼしきそれにぴったりと張り付いた青い皮膜のようなものが代わりにその全てを包んでいる。
左腕には胴体の全部を隠せるくらいの広く長い長方形の盾。その左腰に差されているのは鞘に納められた剣だろうか……剣にしか見えない代物だった。
濃いクリアパーツの横に長細い〈目〉と口元を完全に覆い隠したマスク、後ろに伸びた二枚のブレードアンテナに各部にのぞく無数のセンサーで構成されたヘルメット。
その下から溢れて背中まで伸びた燃えるように鮮やかな赤い髪が、ロボットの頭部にも見えるそれが人が被るものであるということを強く印象づけている。
人? いや、正しくは人ではない。
見た目は人にしか見えないが――人ではない。
それは……。
「あなたは……フェイリス?」
確認するまでもない――しかしそう聞かずにはいられなかったクリスの質問に、〈フェイリス〉と呼ばれた目の前の電子甲冑の少女――たぶん、少女だろう――がわずかにうなずいて見せた。
『よかった……大した怪我はないようだね』
明らかに肉声とは聞こえない、機械で電子的に加工された声がクリスの耳に響く。が、それが少女の声を元にしたものだというのは想像ができた。
ヘルメットによって完全に隠されたその顔は全然見えないが、話し方とその挙動の端々に見える仕草からは少女、という印象しか受けない。
よく知っている――よくは知っているが、初めて手と手が触れるような距離で言葉を交わすことになったそれを、クリスは不思議な感慨の中で見つめていた。
フェイリス。
一見すればその見た目は人と違うところは全くないが、その中身は明らかに人ではない――人工的に作り出された人型戦闘兵器。
軍事にさほど詳しくないクリスでもそれがどのようなものかはよく知っている。軍の組織体系の中に組み込まれたそれはテレビや映画、雑誌などのあらゆるメディアでその姿は毎日のように見る、ほぼ常識的な知識のそれだった。
しかし、そんな日常的に触れるような存在でも、実際にこんな近い距離で目の当たりにし言葉を交わすのはクリスも初めてだった。
「あなたが……助けてくれたの?」
自分でも頭に血が巡っていない頭の悪い質問だと思う。まだ今までに受けたショックが大きすぎて思考がよく働いていないのだろう。
だが、そんな当然のことをいちいち確認してくる相手になんの苛立ちも見せず、むしろそのことを喜ぶようにそのフェイリスはまたもうなずいて見せた。
『危なかったよ。でも助けられてよかった』
その瞬間は覚えてはいないが、火龍に踏み潰されそうになった自分を間一髪、救ってくれたのだろう。
ありがとう、とクリスは告げようとしたが、まだ上手く意識を言葉に変換することができない。
『こんな高いところでゴメンね。でもあたし、あいつをやっつけないといけないから』
「やっつける……あなたが?」
あの火龍を? ビル街をなぎ倒すあの怪物をやっつける?
いくら強そうな電子の鎧をまとっていても、中身はただの女の子にしか思えないあなたが?
三機の最新鋭攻撃ヘリが包囲しても、手も足も出なかったあの魔獣を――。
「もしかして、一人で?」
『他にフェイリスがいないからね。ここにはあたしだけなんだ――じゃあね』
そういってそのフェイリスが踵を返す。その時初めて、その腰に竿のように長い銃器がマウントされているのにクリスは気づいた。
何か忘れている、と強烈な不安に襲われたクリスが、なんとか手遅れになる前にそれを思い出す。
「ねぇ……あなた、名前を聞かせて!」
『えっ?』
切羽詰まった呼びかけに、地を蹴ってその場を離れようとしたフェイリスがその動きを止める。
これからあの火龍と戦おうというそのフェイリスを呼びとめるなど冷静に考えればとんでもないことだったが、それはどうしても聞いておきたいことだった。
「ちゃんと名前があるんでしょう! あなたの名前を!」
『あたしの、名前?』
クリスの目の前でそのフェイリスがうつむき、考え込むような仕草を見せる。
その不自然な間にクリスは戸惑いを隠せない。
『あたしの……名前……』
何故考え込まなければならないのか。
誰しも自分の名前を持っているはずだ。それは、戦闘兵器として生み出されたフェイリスだって同じはずで――。
『あたしの名前は――』
意を決したようにフェイリスがその顎を上げた時に、そのヘルメットからコール音が鳴り響いた。
とっさにフェイリスの右手が耳の辺りに当てられ、甲高い電子音が途切れる。
『えっ――あっ、うん――うん、そう……』
そのフェイリス――いや、その表現は何かしっくり来ない。少女、というべきだろうか。
その少女が話している相手はどうもコール音を鳴らしてきた相手のようだった。
通信が繋がっているのだろうか。今日のジャミングレベルは音声通話がほぼ無理とされていたはずなのだが……。
『わかってる……すぐ戻ればいいんでしょ。すぐ戻るから……ああ、もううるさいなぁ……ちゃんとするって。ちゃんとするために出てきたんだから。いいよね、切るよ』
いくらか強引な感じで会話を打ち切り、少女はふう、と息をついてみせた。
『あたし、行くね。行かないとまたうるさいこといわれるんだ。ここならいくらか危なくないとは思うけど、気をつけてね』
「あ――」
クリスが呼びとめる間もなく、背中を向けた少女がたっと軽やかに地面を蹴る。
次には、鎧の背中に背負いカバンのように装着された機器から虹色のやわらかい光が放出され、それが勢いよく噴き出されたと思った時には少女の姿はもうそこにはなかった。
「……!」
屋上展望台のフェンスにかじりつき、クリスは遠い点になった少女の姿を目で追う。虹色に輝く光の尾を曳いているので視認はしやすい。真っ直ぐに火龍の元に向かっているようだった。
「死なないで!」
聞こえるかどうかわからない――多分聞こえないだろう距離の向こうの少女に向かってクリスは叫んでいた。死んで欲しくない。もう目の前で、これ以上は死んで欲しくない。
これ以上もなく見晴らしのいいポイントから見る街は、その破壊の様もくっきりとクリスに示していた。
さっきまで入学式の真っ最中のはずだった高校も遠くに見ることができ、まるでここまで逃げてきた自分が火龍を連れてきたように高校から破壊の跡がはっきりと刻まれていた。
「あの子……」
少女は火龍の正面に降り立ったようだ。
その声と言動に幼ささえ感じさせるあの少女が、本当に火龍にたった一人で戦いを挑むのか。
それがまるで現実味のないこととしか思えず、クリスは自分の危険も忘れてその少女の無事だけを一心に祈った。
「死なないで……お願い……!!」