#03「パンドラの箱は二度開く」
商業ビル街を南北に真っ直ぐ貫く六車線の幹線道路は、渦を巻いて鳴り響くクラクションの嵐に包まれていた。
その中の一台である中型トレーラーの高い運転席から眼前に延々と続く自動車の数を数えようとして、クレイ・ランチェスターは早々に挫折した。
車間距離を詰めるだけ詰めた自動車が道路を隙間なく埋め尽くし、その列はもう数センチたりとも動く気配がない。
目的地までは数キロとないはずだったが、この調子では一日かけても一メートルすら進む気配もなかった。
『……市民の皆さんは速やかに避難して下さい。現在、大型クトゥルフが市庁街エリアに出現しています。大変危険なので速やかに避難して下さい。現在、大型クトゥルフが……』
街の各所に設置された防災スピーカーが避難警報を流しているが、まるで具体性のないその放送に市民たちは混乱するだけだ。
状況を探ろうと大きく開けた窓から身を乗り出していたクレイの視界の奥で、またも八階建てのビルが地響きを起こしながら倒壊していった。
「…………!」
一棟の鉄筋コンクリート製の建物が破片をばらまきながら文字通り横倒しになって倒れていく。
そのビルの姿が消えた向こうで、そいつのシルエットが初めて二人の前にさらされた。
まだその姿は遠い――遠いが、見る者の心理に対して圧倒的に迫るその威容にクレイの目が見開かれる。
「竜型か……!」
本の挿絵や数々の映画などでいい加減に見慣れた空想上の怪物と瓜二つなその姿。
それを実際に目撃するのは決して初めてではなかったが、一つの街を力と炎で破壊するその凶暴な姿がクレイの心を震わせた。
「ド……ドラゴンだって……!」
そんな、まだいくらか冷静に事態を見守っているクレイの隣でその運転手は、早々に精神の限界に差し掛かっていたようだった。
「お……おい! あのドラゴン、なんかこっちに向かって来てるみたいじゃないか!?」
「そうみたいだな」
速度は決して速くはないものの、その竜型の進む方向はこちらに向いているようだ。
竜型にとって速い歩みではないものの、その巨体ならばものの数分で到達してしまいそうな距離でしかない。
「ヤバいぞ! このままじゃこのトレーラーがあいつに踏み潰されちまうじゃねぇか!」
「ちょっと黙っててくれ」
戦闘ヘリが巻き起こすローターの音、ビルが崩れ落ちる轟音、渋滞した車が狂ったように鳴らすクラクション、逃げ惑う人々の悲鳴――そんなものが渾然一体となった音の塊となってその場の全てを激震させている。
「だいたいやってきたヘリだって上をブンブン飛んでるだけで全然撃ちやがらないじゃねぇか! 俺たちの税金で給料もらってるんだろ! 少しは働けよ!」
「だからちょっと黙っててくれ」
「なんであんたはそんなに落ち着き払ってるんだ! 少しは慌てたらどうなんだ!」
「こっちは色々考えなきゃならん問題があるんだ」
そう、問題だ。
トレーラーが牽引しているコンテナの中身が問題なのだ。
ゆっくりと、しかし確実にこちらに迫ってくる竜型。
もはや微動だにしないだろう車列。
この状況でコンテナの中に収められた荷物を守らなければならない。
どうすれば……。
「あんた、逃げたかったら今すぐ逃げていいぞ」
ことのついでのように思いついてクレイは話しかけていた。
「なにも最後まで俺たちに付き合う必要はな――」
「逃げるわけないだろ!」
ぶつけられてきた意外な答えに、クレイの目が思わず丸くなる。
「このトレーラーはうちの会社のもんなんだ! 社長と従業員、合わせてたった一人のうちの会社のな! 俺はこのトレーラーのおかげで食えてるんだよ! こいつが吹き飛ぶ時は俺も吹き飛ぶんだ! 同じ吹き飛ぶんなら心中した方がマシだ! だから――」
運転手の叫びが最高潮に達するのと同時に、フロントガラスの向こうでオレンジの光が閃いた。
炎の色に目の前が赤く染め上げられたと思った瞬間には目の前にあった自動車が突然に爆発し、爆圧と四方八方に飛び散った破片に運転席の窓ガラスが激しく打ち鳴らされる。
銃撃を受けているかのようにトレーラーのあちこちが打撃音を鳴らして小さくなく揺れる。
「うわぁぁぁぁぁっ!?」
幸運の女神のスカートにすがりつくように運転手が身をすくめてハンドルにしがみつき、クレイはその横で冷静に身を伏せていた。
それでも外の状況を探ろうと視線を上に向けるクレイの視界の奥を、一機の戦闘ヘリが高速で横切っていく。
「い、今のはいったい……!?」
「……30ミリ機関砲の流れ弾だ」
戦闘ヘリが発砲したものが巨竜に弾かれた、それとも外れたのかはわからない。
わかることがあるとすれば、この運転手が戦闘ヘリが発砲しないことを二度となじらないということだけだった。
わずか数メートルで別れた生死の差に戦慄が走る。次に流れ弾が来たら確実に巻き添えになる確信めいたものがあった。
このまま手をこまねいているわけにはいかないという認識が、クレイを思考の沼に引きずり込む。
「どうする……?」
あの戦闘ヘリ編隊が竜型をどうにかしてくれることに期待するか?
いや……多分それは望み薄だろう。ビルの中に取り残され、または路上に溢れた市民を盾にしている巨竜に対して、戦闘ヘリ編隊は半分以上手も足も出ない状況に陥っているとしか見えない。
ならば、自分たちでどうにかするしかない。しかし、今自分たちに与えられている手段は――。
「……手段、か」
手段は確かにあった。コンテナの中にその手段は格納されていた。
あの巨竜を倒す手段が確かにあった。
最後の切り札ともいうべき〈それ〉を実際に使うために、渋滞で完全に足を止められた時点で既に準備は命じてはいた。
――命じてはいたが、〈それ〉を実際に使うことなどあってはならないのだ。
使える段階にないものを使うわけにはいかないのは、当たり前のことだ。
「……なら、どうする」
いや――やらなければならないことはもうわかりきっていた。悩むまでもないことのはずだった。
わかりきってはいたが、それを決定するには大きな躊躇いが立ち塞がっていて――。
『ちょっとっ!』
スピーカーから吐き出されてキャビンいっぱいに響いた少女の声に、闇の中に意識を沈めかけていたクレイの顔が反射的に上がった。
それは聞こえてはならない声だったからだ。
同時にガンガンッ! と鈍くも高い音がスピーカーから響きそれがキャビンの二人の脳を叩く。
『ここであたしが出なきゃいけないんじゃないの! グズグズしているヒマはないんでしょ!』
その声が意味することが理解に達するまで数瞬の猶予を必要とした。
「こらぁっ! コンテナを蹴るなっ! コンテナも俺のものなんだぞっ!」
「おい、なんで音声の回線が開いてるんだ!」
運転手を押しのけてクレイはマイクにかじりつく。
『すみません大尉、突然マイクの電源を入れられて……』
『外でクトゥルフが暴れてるんでしょ!? だったらあたしの出番じゃないの!』
『離れて……お願いだから!』
制止しようとする口調の若い男の声と高い声で喚き散らす少女の声が同時に被さり、コンテナ内でどんな醜態が演じられているのかが容易に想像できて、クレイの顔色にますます影が被さった。
「た……大尉? 大尉って、あんたが!?」
「それは秘密だったんだけどな」
ゼファート軍特殊戦術部訓練一課所属、クレイ・ランチェスター大尉は顔色も変えずそうのたまってみせた。
明らかに既製品の背広に安いネクタイというその姿は、ようやく部下が一人か二人ついたくらいの若手の会社員といった風体にしか見えず、大尉という響きにはまるで不釣り合いの風貌だったからだ。
もちろん、襟に階級章がついているなんてことはなかった。
「あんたら軍人なのか!? 軍関係の仕事だなんてそんなの契約書には一言も書いてなかったぞ!」
「俺がそう書かなかったからな」
「じゃあ、積荷の内訳にあった美術品類っていうのも……」
「軍は絵も壺も扱ってない」
コンテナになにが格納されたか運転手は見ていない。搬入と搬出作業は依頼主が行うという約束で行われたからだ。
「ハンドルさえ握ってりゃいい楽な仕事だと思ってたのに……!」
「世の中そうそう美味しい話はないよな、まったく……」
軍のトレーラーが手配できなかったといってもこんな民間業者に任せるんじゃなかったとクレイは頭を抱えたが、そんなものはもっと後で悔やめばいいのだと頭を切り替える。
『大尉! どうしましょう!』
「……戦闘ヘリ部隊がまだがんばってくれてる。あれが上手くやってくれれば――」
自分でも信じていないセリフをクレイが口の端に載せたその時だった。
砲弾の速度で灼熱の炎が線となって地上から上空に走り、プラズマ化した炎の帯が超高熱のビームと化して空の青さを切り裂いた。
「なっ……!」
低空から必死に上昇しようとしていた戦闘ヘリの一機が機体の腹にその炎の奔流の直撃を浴び、次の瞬間にはオレンジ色の炎を吹き上げて爆発した。
一瞬の間を置いて衝撃波が轟音と共に全方位を襲って、トレーラーのキャビンのガラスが震える。
搭載していた弾薬と燃料を爆発させながら戦闘ヘリの残骸は地上に落下し、ビルの影でまた一度炎の傘が鮮やかに開いた。
少ない希望がさらに萎んでしまったのを目の当たりにして、それを目撃した全員の心が冷える。
光に数瞬遅れて押し寄せてきた爆発の衝撃波にまたもトレーラーが揺さぶられ、この車両の中で最も神経をすり減らしていた運転手がついに限界を迎えた。
「あ……あんたら軍人だろぉぉ! 軍人だったらこのザマをなんとかしろよぉ!」
「是非ともそうしたいところなんだがな……」
「あんたら軍人には国民の生命と財産を守る義務があるんだろうが! このトレーラーは俺の生命で財産なんだ! だからあんたらにはこのトレーラーを守る義務があるんだ! 違うか!!」
「は―――」
理屈としてねじれているもいいところの戯れ事の類に、クレイが絶句した。
絶句したまま、目を血走らせている運転手と十数秒無言で見つめ合った。
確実に破滅へと繋がるタイムリミットがカウントを刻む中、全くの無為な時間がキャビンの中で流れる。
「……はは」
自分の口元から漏れたその笑いに、クレイは自分自身でも驚いていた。
戯れ事だ、と頭の表面では感じていても、心の芯で確かに感応する物があった。
「あ、あんた?」
目の前で唐突に薄笑いを浮かべられた運転手がわずかに仰け反る。
「ははは……そうだな……」
――守る、か。
クレイの心の中でいくつも伸びた枝のようになっていた道が、見る間に一本の単純な道になっていく。
「……俺たちは軍人だものな」
今まで胸を覆っていた霧のようなものが急速に消えていき、窮地以外に形容しようのないこの状況でクレイは晴れやかな気分さえ覚えていた。
「……やってみるか」
すぅ、と大きく息を吸い――そして胸に残った迷いの残りを吐き出して、握りしめたマイクのスイッチを入れた。
「……状況を知らせろ!」
『大尉!?』
「調整作業の状況だ! どうなっているのか!」
『……〈鎧〉に〈盾〉の調整はもうすぐ終わります! 〈馬上槍〉と〈馬〉は……間に合わせてみせます! 少しだけ時間を下さい!』
「〈棺〉の電源を入れろ! 調整が終わったら装着だ……訓練用のあれは使えるな!?」
『大丈夫です! 使えます!』
クレイの声の調子に煽られたのか、応じる声にも熱が乗っているのがわかる。
「実弾を装填して使い方を教えてやれ! 俺も今すぐそっちに移る!」
「お……おい!」
キャビンのドアを開け放ち、そのまま地面に降りようとしたクレイを慌てて運転手が呼び止めた。
「なんだ。これから死ぬほど忙しくなるんだ。質問なら手短にしてくれ」
「さ……さっきの声だよ!」
聞きたいことは山ほどあったのだろうが、とっさに一つ運転手が選んだのはそれだった。
「さっき、コンテナから女の子の声がしたよな? あれは――」
「あ――――」
クレイにとってはいちばん聞かれたくない質問だった。
それはまさに核心を突いていたからだ。
「聞いてたか?」
「あんたも聞いたろ! あんなにうるさく響いたんだ! 耳が潰れてなきゃ聞こえてる!」
「できれば聞いて欲しくなかったんだけどな」
「あれはいったいなんだったんだ! そもそもあんたら、俺のコンテナになにを積み込んだんだ!!」
「すぐにわかるさ」
そう。
今すぐにわかるだろう。
自分が、とんでもないものを運ばされていたということを。
「それでな、なにを積んでいたかについてはすぐに忘れた方がいいぞ」
「な……なんで……」
「あんたに不幸になってほしくないからな……じゃあな」
心からの忠告を運転手に送り、クレイは地面に飛び降りた。
そのまままコンテナ横の小さな出入り用ハッチに手をかけ、それを開けようとして……その手が止まった。
力を入れようとしても肩から先が脳の命令を無視してしまって、動かない。
「……なんだ?」
自分の手が本能的に止まってしまったのがまだ払いきれない恐怖からであるという認識が後から湧いてきて、理性はそれをそんな馬鹿なと否定する。
だが、少しの力を入れれば簡単に開くはずのそれを開けられないのも事実なのだ。
今、自分が開けようとしているこのコンテナは――実はパンドラの箱ではないのか。
自分がこれを開けてしまうことで、封じられていたありとあらゆる悪と災いがこの世に飛び出すのではないか。
「……いや、違うな」
そうじゃない。
パンドラの箱は、もうとっくの昔に開け放たれてしまっていたはずだった。
ありとあらゆる悪と災いが解き放たれた結果が今のこの世界なのだ。
自分は――慌てて閉め直された蓋を再び開けようとしているに過ぎない。
なんのために?
「パンドラの箱の底に最後に残されたものは……確か……」
それは……〈希望〉。
「〈希望〉……」
自分たちに残された最後の希望を解放するために、自分は今ここにいる。
開けねば始まらない。勇気をもってして、解き放たねば――。
「――――っ」
まだ心の奥底でくすぶっていた弱さを振り払い、クレイはその手に力を入れ直し――そして、一気に開けていた。