#02「人類最後の宇宙飛行士」
スペクトルスラスターの斥力推進は、慣れればセンチメートル単位での機体制御を可能とする。
空気抵抗や風という突発的な阻害要因のない宇宙空間では、最低限の注意さえ心がけていれば、スレイプニールの機体を思い通りに位置取りすることは容易なことだった。
家で最大の規模をほこるモジュール――それでもそれは一般的な学校の教室、一室分くらいしかない――の上空にアリーナがスレイプニールを占位させると、箱形のモジュールが観音扉型の巨大な屋根をゆっくりと開いた。
早く一息つきたい焦りを抑えつつ、アリーナはお茶一杯飲む時間を掛けて、ゆっくりとした相対速度でスレイプニールを降下させる。
モジュールの床に最低限の衝撃でスレイプニールが接地し、それと同時にいっぱいに開いた屋根が再び閉まりだした。
接地したスレイプニールが固定されたのを確認し、屋根が閉じきる前にアリーナはスレイプニールの操縦席から離れた。コンテナに無数に設置されている扉の中で、いちばん手近なものを開けて中の南京袋に入れられた荷物を引き出す。
爪先で体を押し出すイメージで、居住区モジュールに繋がるエアロックのハッチに体を流した。今さっきまで重力の束縛を受けていた体は、無重力空間に戻るといつもこの最初の一歩で戸惑ってしまう。
エアロック内は狭い。少し大きなエレベータくらいの大きさしかないだろう。
背中でハッチが閉じ、それが完全に閉じられたのを確認して前方のハッチが開く。
本来ならば、ゼロ気圧から与圧された一気圧のエリアに進入するためには時間を掛けて体を慣らさないといけないのだが、フェイリスにそんな工程は必要なかった。
「アリーナ姉様、お帰りなさい!」
「お帰りなさい、姉様!」
「おう」
居住区ブロックの狭い廊下――というより狭いトンネルそのもののスペースで、二人の少女がアリーナを出迎える。いうまでもなく、その二人もフェイリスだ。この家にはフェイリス以外に人間は存在していない。
戦闘用機動装甲であるバージンシェルを装着したままのアリーナに比べて、その二人は軽装もいいところだった。肌にぴっちりと張り付いたタンクトップのシャツを着、下は限りなくホットに近いショートパンツを穿いているだけという格好である。
そんなラフなスタイルも手伝ってか、姉妹のように顔の似通った二人の少女はアリーナよりも一段と幼い印象を見せていた。
「姉様、特別栄養食を支給してほしいんですけど!」
「あたしもです、姉様!」
「……お前らな、オレが地上でどんな苦労をしてきたかねぎらう前に食い物の要求か?」
苦笑しながらもアリーナは南京袋の中に手を突っ込んで中のものを取り出そうとしている。
「だって、姉様がどんな活躍をしてきたかはミーティングでたっぷり聞かされるんですもの」
「さ、姉様、早く早く!」
「焦るなって、お前たちの特別栄養食は確か……」
そこまでいいかけて、アリーナはハッと思い当たることに手を止めた。そのアリーナの挙動に二人の少女はあからさまに肩を跳ね上げさせる。
「……ちょっと待て。お前ら、確かオレが出かける前に懲罰処分を食らってたよな?」
ギクッ、という音が聞こえるくらいに二人の顔が強ばる。
「……胸のバッジをよく見せろ」
「あっ、いやっ、姉様、そんなこと」
「やめて、姉様お願い、やめてください」
「うるさい見せろ」
抗議の声を無視してアリーナは一人の少女の胸につけられたバッジをひっつかむ。
デジタルで名前と認識番号が表示されたそのバッジは、同時に〈第T十四規定違反によりレベル3懲罰中・残り時間:二十三時間〉と赤い表示が瞬いていた。
「ほら見ろ! 特別栄養食の支給資格が剥奪されてるじゃねーか!」
「見逃してくださいー!」
二人の少女が息を合わせるようにアリーナに泣きつく。
「明日には懲罰期間が終わりますけど、その時には特別栄養食はなくなってるじゃないですかぁ!」
「あたしたち、もう半月も口にしてないんですー!」
「こらこら、ぶつかってくるな!」
抱きつくようにして向かって来た二人の少女の運動エネルギーに負けて、アリーナの体が後方に流れる。
「家の中じゃ急激な運動は厳禁だっていつもいってるだろうがっ!」
「でもでも、姉様ぁ!」
「後生ですー!」
「わかったから落ち着けっての!」
壁面に追い詰められたアリーナが壁に手をついて三人分の体重を受け止める。それ自体はどうということはないのだが、そこら中にスイッチを備えた機器があるステーションモジュールの中で考えなしの動きはトラブルの元だった。
「オレに頼んだって仕方ないんだよ、このオレが法律じゃないんだから……フィス! 聞いてるんだろ! 聞いてたらどうにか裁定してくれ!」
『――聞いてるわ』
廊下のあちこちに設置されたスピーカーから、一斉に少女の美しく透き通った声が流れる。
それはたった一人の声だったが、様々な角度から発せられるそれは微妙に違う反響が重なり、その音の広がりがどこか神秘的な響きをイメージさせた。
『ノエル・テクニシアル、コンスタンス・テクニシアル――両名に通達する』
「は、はいっ」
スピーカーの向こうの存在に二人の少女が背筋を伸ばす。
それは、この家の中では絶対者の声だった。
『……両名の懲罰期間の終了を二十四時間繰り上げる。現時点をもって懲罰期間は終了。両名は速やかにそれぞれの持ち場に復帰すること――以上』
一方的に決定事項だけが伝えられたと同時に、二人のバッジで赤く表示されていた懲罰中のサインが消滅する。
「フィス姉様、ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
まるで神に感謝するように、この場にいない相手に二人の何度も頭を下げる少女たちに、アリーナはやれやれと肩をすくめて見せた。
「わかったな? お前らもいい加減本当に懲りて反省しろよ。これでいったい何度目なんだか……」
「アリーナ姉様、あたしたち、今度こそ心を入れ替えます!」
「今度こそ本当です!」
「そのセリフも本当に何度目だよ?」
口では辛辣な皮肉をいいつつもアリーナはいうほど怒ってはいない。なんだかんだでこのおっちょこちょいな妹分を気に入っているのだ。
「これからはサボるんじゃないぞ」
「はい! もうおトイレ掃除はサボりません!」
「ですから、アリーナ姉様……」
「おらよ、特別栄養食」
アリーナが投げた二つの包みを二人の少女が食いつくように受け取る。
「アリーナ姉様、ありがとう!」
「姉様、愛してます!」
「そんなのはいらんから、さっさと部屋に戻ってそれを食え。廊下でものを食うんじゃないぞ」
「はーい!」
二人の少女は連れ立つように居住区エリアの奥に体を流していった。アリーナの声が聞こえているのかいないのか、早速渡された包みをビリビリと破りだしている。
中から現れた板状の菓子に頬ずりする二人が、モジュールとモジュールを繋ぐ接続ブロックのハッチを開けた。
「ああ……本当に久しぶりのチョコレート……甘い甘いチョコレート……」
「あたし、これかじらない。口の中で舐めて溶かすの……」
「ったく」
絶対次があるなと確信を得つつ、アリーナはどうしようもなく可愛い妹分を溜息と一緒に見送った。
『……アリーナ』
その二人がハッチの向こうに消えたのを確かめたようなタイミングで、先ほどの声が再びスピーカーから流れ出す。
「あん?」
『テラスで待ってるわ……報告に来て』
「家主に挨拶してからでいいよな?」
『……ええ、もちろんよ』
スピーカーが沈黙し、アリーナはすくめた肩をようやく下ろす。
狭い居住区モジュール――とはいうか、この家の全てが狭いのだが――の中では動きにくいバージンシェル姿のままだったが、それを脱ぐのは用事が終わってからでいいだろうと自分にいい聞かせる。
まずは……挨拶が先だ。
アリーナはまた軽く床を蹴って、無重力状態の家の中で体を慣性の流れに任せた。
いくつかのハッチを抜けて、個人の部屋としても利用されている寝室エリアに入る。狭い閉鎖空間では相当のストレスもたまるというの理由から、最低限のプライベートが確保できるようにと、資材が限られた状況でも小さいながらも住人のそれぞれに個室が与えられていた。
その個室の一つのハッチが半分開いているのに気づいて、アリーナは壁に手を伸ばして流していた体を止めた。
ハッチの上には住人の名前を記したプレートが掲げられ、その脇に〈就寝中〉と札が掛けられている。部屋の中は……暗い。明かりが落とされており、廊下の照明の光が筋となって個室に伸びていた。
「……エマ?」
ハッチを開けてアリーナが部屋に入る。
縦横奥行きがそれぞれ二メートルと少ししかない立方体のスペース。その部屋の中では、暗がりの中で一人のフェイリスが眠っていた。
先ほどの少女たちが着ていたのと同じタンクトップのシャツにショートパンツ。
ただ、その眠り方が普通でなかったのは――宙に浮いた状態で、その体がゆっくりと縦軸に回転していたことだった。
背丈ほどはある大きなウサギのぬいぐるみをしっかりと抱きしめ、そのウサギとまるでワルツを踊るように。
緩やかに……緩やかに円を描きながら、幸せそうな笑みを浮かべて穏やかな眠りについている。
一周回る周期と寝息とのタイミングが妙に合っていて、思わずアリーナは噴き出してしまっていた。
「おいおい……なんて寝相だよ……」
壁に設置されたベッドで眠る際、体をベルトで固定しなければ寝返りの反動で体がベッドから離れて流れ出してしまうのだ。
ベルトを締めていなかったのか、それとも外れてしまったのかはわからないが――無意識の寝返りが止められない以上、きちんと固定していなければこうなってしまうといういい例だった。
そのまま延々と踊り続ける妹分を見ていたかったのだが、ゆっくりとではあるが反対側の壁に接近しているその体をなんとかしないわけにはいかない。
少女の体に手を添えてその回転を止め、ベッドの方にゆっくりと押し出す。質量がもたらす少しの抵抗の後に、少女の体はベッドの上にゆっくりと接地した。
「う……ん……」
微かに声を漏らしただけで少女は目覚めない。夢の中でもウサギと踊っているのか、愛しさを体の全部で表現するように抱きついていた。
「おやすみ」
緩くベルトで固定した少女にアリーナは軽いキスをその額に与え、部屋からそっと離れた。
慣性の働くままに自然には止まらない体を、壁の蹴っても差し支えない面を慎重に選んで足をつき、蹴り出して目的の方向に自分の体が向かうベクトルを設定する。
個室ブロックを抜けた先、居住区モジュールの最奥部に――独立したモジュールとして存在する〈墓〉にアリーナはたどり着いた。
「〈墓〉、か……」
――〈墓〉。
この家の住人の誰もが、そのモジュールをそう呼んでいた。
ハッチを開き、足を踏み入れる。明かりはついておらず――暗い。微かなかび臭さに似たにおいがアリーナの嗅覚を刺激した。与圧され空気は満たされているが、日常的な出入りがないこのモジュールはどうしても換気が悪くなり空気も濁る。
墓、といっても墓標などはなかった。
部屋の奥に大きめのアタッシュケースがいくつか置かれ、そのうちの一つには、今はもう地上に存在しない国家の旗が全体を覆うように被せられていた。
まるで棺のような……いや、棺そのもののアタッシュケースの前に立ち、アリーナは南京袋の中から一本の筒を取り出してその蓋を開ける。
筒の中からは、鮮やかな赤い色に映える一輪の薔薇が現れた。
それはアリーナが地上で手に入れた天然の薔薇だった。
アタッシュケースの上にそれを置き、アリーナは軽くその場で瞑目する。
「アリーナ姉様、お帰りなさいませ」
開けっぱなしにしているハッチから、一人の少女がハッチの枠に手を掛けて慣性を殺しながら挨拶をする。
「イルファか……ただいま」
「お墓参りですか?」
「ああ……すまないが明かりつけてくれ。つけ忘れた」
「はい、姉様」
イルファと呼ばれたフェイリスの少女が、ハッチ近くのスイッチを入れる。
壁面に埋められたライトが一斉に点灯し――その部屋の全貌が照らし出された。
暗がりの中では見えなかった、モジュールの真っ白な壁面のほとんど全てにびっしりと刻まれた無数の細かい傷が浮かび上がる。のっぺりとしていたはずの壁が、人の手によってえぐられた傷で埋め尽くされていることになにも知らない人間は驚くだろう。
事実、アリーナも驚いたものの一人だった。
傷――いや、それはただの傷ではない。
それは意味をなす文字、今はもういにしえの民族と共に滅び消え去った、旧文明の遺物。そしてその文字の連なりが意味するのは、この家の家主が残した凄絶な遺書だった。
供えの花を手向けたまま、立ち尽くすだけでなにもできなくなった姉の後ろ姿の寂しさに、イルファは思わず自分のシャツの胸元を握りしめてしまっている。尋ねずにはいられずになっていた。
「姉様、また思い出されているのですか? 初めてこのモジュールを見つけた時のこと……」
「……お前たちに何回、何十回語ったかわからないな。オレがフィスと共にこの家を発見した時の話を」
「ええ。しかし、何回、何十回、何百回……それ以上も聞く価値はありますわ」
イルファはアリーナの感傷がわかる。
この家において、アリーナに次ぐ三番目の古株である彼女。
実際にアリーナと共にこのモジュールの発見に立ち合ったわけではない。話を聞いたにすぎない。
しかし、百数十年の間に繰り返し聞かされる物語はいつしか自分が体験したかのような錯覚になって、デジャビュのように少女の心の中に住み着いていた。
「この壁に記された遺書の意味を聞かされた時、震えが止まりませんでした。その日は全く眠れなかったのをよく覚えています」
「……〈大崩壊〉の目撃の体験談だからな、この遺書は」
〈大崩壊〉。旧文明を一瞬にして――歴史というスケールにおいてはまさにほんの一瞬にしてその全てを壊滅させた悲劇。人類に何百年の彷徨を強いることになった出来事。
宇宙という空間に最後に残された人間が、滅び行く地球を外から眺めた……眺めるしかなかったその物語がまさしくこの壁に刻まれた傷の羅列だった。
そして、その遺書を書き残した主は今、この部屋で――アタッシュケースの中に収められて眠っている。
彼の名は、アレクサンドル・ガガーリン。
人類史上に燦然と輝く人類初の宇宙飛行士、ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンと同じ姓を持つ宇宙飛行士。
それと同時に彼はある意味、不名誉ともいえる称号を持っていた。
彼こそは、今この時点において、人類最後の宇宙飛行士だった。




