#01「宇宙の家」
それは漆黒の宇宙を駆ける流れ星だった。
墨よりも黒い真空を背景にして白く輝く星々の砂がまき散らされた空間、宇宙。
その静謐な空間は、物語らないものたちが投げかけてくる星々の光に満たされていた。
ほんの点にしか見えないそれらは、光の速度をもってしても最低数年間、中には数千年、数万年……いや、そんなものは比較にならないほどの遠くから輝きを送ってくる。
そんな、ほんの少しの光と膨大な闇の中に浮かび上がるように輝く水の色の星、地球。
その地球が照り返す青さと、遠慮のないむき出しの光となってぶつかってくる太陽光。
その二つの星のきらめきをボディに直接受けて輝く、銀色のスレイプニール――いや、それは大型変形戦闘バイク・スレイプニールと呼ぶには異形だった。
異形なものの異形といえばおかしいかも知れないが、ブルーに塗装されたバージンシェルを装着したフェイリスが乗るそれは確かに異形だった。
通常のスレイプニールの後部に巨大なコンテナを接続させたそれは、バイクというよりは運転席がむき出しになった貨物トラックをイメージさせたかも知れない。
文字通りの宇宙空間に身をさらしてそのコックピットにまたがり、しかしそれを日常とするように少女――フェイリスはマスクをオープンにしたヘルメットの奥から宇宙を見ていた。
地球から秒速十数キロというすさまじい速度で離れているはずなのに、スピード感はまるでない。速度を対比させるものが近くにないのなら無理もない。
ここはそういう場所なのだ。
――宇宙。
無限の人類のフロンティア――過去、そうもてはやされた時代があった。
だが、それも〈大崩壊〉以前の話だった。
少なくともこの〈悠暦〉の二世紀間において、人類はただの一人も宇宙に人間を送り出していない。いや、人間どころか人工衛星の一つも打ち上げられていなかった。
「そりゃあ、このケスラーシンドロームじゃあなぁ……」
今、重力圏を振り切りつつある地球を振り返ってそのフェイリス――アリーナ・テクニシアルは呟いた。
地球は雲に包まれていた。
雲?
宇宙に雲があるのか?
――ある。宇宙に雲はある。
人類が数千年かけて築いた文明の全てをことごとく薙ぎ倒した〈大崩壊〉のあと、地球の外軌道を周回する人工衛星を管理するものはいなくなった。
軌道修正も廃棄処理もされなくなった膨大な数の人工衛星は時間の流れの中で衝突し、宇宙のゴミ――デブリとなって無数の破片となってまき散らされ、それがまた次の人工衛星に激突して新たなデブリを作る。
いつしか地球は、濃密なデブリの雲に包まれる天体になった。
過去の宇宙開発時代に匹敵する技術力を人類は取り戻していたが、それでもこのデブリの雲の問題を突破するには至っていない。新たな人工衛星の設置を阻むデブリの問題は、科学分野の発展に強力な歯止めを掛ける大きな要因となっていた。
「……そんな地球と、週一で往復やってたりするんだ。変なもんだぜ」
アリーナは口の中で呟く。それは半分声にはなっていない。真空である宇宙では音は伝わらず、自分の体を震動させる響きが辛うじて言葉として耳に聞こえるくらいだった。
第二宇宙速度を出して地球の重力を振り切ったスレイプニールは、銀色の矢のように宇宙をひた走った。
今は加速はしていない。
地球の重力圏から離れるには相当のエネルギーが必要とされ、従来のロケット・システムではエンジンや燃料などといった機体重量の九割が宇宙に届かずに捨てられるか消費されてしまう。
しかし、ほんのわずかな質量で核反応レベルのエネルギーを出力できるフェイリスは別の次元の存在だった。加えて、投入されるエネルギーさえあれば推進剤を必要としないスペクトルスラスターというシステムは、宇宙になにかを投入するにはこれ以上に相性のいいものはなかったといって過言ではない。
そんな便利なシステムを獲得できたにもかかわらず、地球周回軌道に人類は物体を届けられない――軌道に設置できたとしても、デブリの雨の前にあっという間に破壊されてしまうという非情な現実がある。
スペクトルスラスターを搭載したスレイプニールは、単位時間で見ればほぼ無限のエネルギーを供給するフェイリスが搭乗していればいくらでも加速を得ることが可能だった。が、アリーナは目的にたどり着く最低限の軌道に乗れば、無駄な加速をするまいと絶対のルールを己に課している。
もしも――万が一のトラブルが発生し、必要な加速または減速ができなくなった時、自分は宇宙の果てに向かって進むだけの存在になってしまうからだった。
スペクトルスラスターはスレイプニールだけではなく、バージンシェルにも搭載されている。二重のトラブルに巻き込まれる可能性は万に一つも――いや、万に一つが存在している限り、余計なリスクを背負い込むのはこの極限空間である宇宙においてタブーだった。
今のアリーナとまたがるスレイプニールは慣性によって移動している。最低でも目的地を掠める軌道は既に確保していた。もしも相手の通信に自分が応答しなければ、すぐさま向こうが救出体制に入るというのが、アリーナたちの日常だった――幸いにして、そんな非常態勢に陥ることは一度してなかったが。
小一時間の宇宙を行く旅。
やがて、目的地が見えてくる――いや、真空の宇宙ではそれはとっくに見えていた。人が地上から月や太陽を仰ぐことができるように。
近づいたがためにその細部が見えるようになったというのが正しい。デタラメに繋がれた数珠のようなシルエットを確認するのがやっとだったが……。
「こちらアリーナ。〈家〉応答せよ」
『……こちら〈家〉。アリーナ姉さん、現在そちらを視認できています。減速フェーズに入って下さい』
多少のノイズが――宇宙空間にも電波の流れを阻害するワームナノマシンが存在するのだ――入るが、フェイリス同士の通信であれば音声レベルではそれをほとんど無視できる。ワームナノマシンの密度が薄いのをさっ引いても会話は明瞭だった。
「了解、減速フェーズに入る……喜べ、お土産いっぱい持ってきたからな」
『受け入れ体制に入ります。注意してください……お土産楽しみにしています』
「了解。ちょっと待ってな」
孤独の意味が二倍三倍になって肩にのしかかってくるようなこの空間で、会話できる相手がいるというのは幸福なことだった。
スレイプニールのスペクトルスラスターが稼働する。アリーナと目的地の間にあった秒速数キロの相対速度が減じられていく。
それでも確実に目的地――〈家〉との距離は縮められ、アリーナは自分の〈家〉の姿を改めて観察できていた。
それは地球から約三万六千キロメートルの軌道、静止衛星軌道上に据えられた〈家〉だった。
いや、いうまでもないが、それは地上に立てられているような家の形などはしていない。
箱形や球形といった雑多な形をしたモジュールがほとんど不規則につなぎ合わされた、幼児がなにも考えず思うままに組み上げたブロックのオモチャそのものといったシルエット。太陽光の元にくっきりとした輪郭を際立たせて晒したそれ。
計画性など全く無視して、拡張できるモジュールは拡張できるまでしきった、宇宙に浮かぶ巨大なブロックのオモチャ。
「……それがオレの〈家〉か」
そう。
まさしくそれは家だ。
アリーナはこの家にもう何十年……もっとか、それだけの時間を住んでいる。
それほど多くはないが、家族と共に住んでいる。一人として血の繋がらない家族と共に。
いや、その家族の全てがフェイリスであるのだから、血縁という概念がそもそも存在しないのだ。
アリーナたちはその〈家〉をこう呼んでいた。元々の持ち主に敬意を表して呼んでいた。
――〈ガガーリンの家〉、と。




