#13「アルクリット、泣く」
「えっ……? アルクリットじゃない方って……?」
ミオの鋭い声とその内容に、シルヴィーが意表を突かれたのか足を止めて立ち止まる。
「あっ、こいつっ!」
アルクリットに捕まっていた少女が大きく腕を振り回し、手首をつかんできていたアルクリットの手を振り解いた。再びつかみかかってくるアルクリットの手を再び弾き返し、逃走するためにその体を翻す。
が、その進路の向こうにはクリスが待ち構えていた。逃走路となるだろうルートに先回りし、道を塞ぐようにその両腕を広げている。
「退いてよ!」
「――ごめんね」
脇を強引にすり抜けようとする少女の腕をクリスの腕が冷静につかみ、それを引きつけて軽くねじ上げた。一分の隙もない流れるような動きに、いとも簡単に巻き込まれて少女が背に回ったクリスに拘束される。
「きゃあっ!」
「逃げないで――逃げるともっと痛くなるからね」
跳ね上がった少女の悲鳴にクリスの落ち着いた声が被さった。が、少女はなおももがこうとその体を大きく揺らす。完全に極められている腕が折れてもかまわないというように。
「もう、逃げないでっていってるのに」
クリスの親指が少女の背中、首より少し下のあたりを軽く押す。その途端に少女の膝が崩れて落ちた。
「えっ、えっ……?」
「膝から下の力が入らないでしょ? 押してるツボを離せば元に戻るから安心して」
優しい声で語りかけるが、逃がすつもりは毛頭ないクリスの言葉に少女の顔が恐怖に引きつった。
「みなさん、大丈夫ですか?」
クリスや望のあとを追ってきたリューネが、やはり運動は辛いのか少し息を弾ませながら合流してくる。
「あら、この方は……あの時の?」
クリスによって完全に拘束されている少女の顔に覚えがあったのか、リューネもその目を丸くしていた。
動きを封じられているのがアルクリットではなく、その少女だったことにリューネもだいたいのことを察したようだ。改めてそれ以上の質問はしなかった。
「ミオ……どういうこと?」
「……花壇を荒らしていたのは、その子。証拠もある」
シルヴィーの問いに、ミオがポケットから何枚かの写真を取り出した。
荒らされた花壇の土の表面を撮影した写真だ。クローズアップで土だけが撮られているが……いや、土だけではない。スケール比較のためなのか、白いペンがまっすぐ縦に置かれていた。
「この土がどうかしたの?」
「……足跡、いや、靴跡が写ってる」
「靴跡?」
シルヴィーが写真に目を寄せる。確かにくっきりとした靴の跡が写っていた。
「……それは荒らされた一回目。これが二回目」
受け取った二枚目の写真をシルヴィーは凝視した。一枚目と同じパターンをした靴の裏の跡が残っているのがはっきりと写っていた。
「……その写真と、今花壇に残ってる足跡はどう?」
「同じね……」
三回目を荒らそうと花壇に踏み込んだ時についたのか、二つの足跡が土の表面にありありと刻まれていた。シルヴィーはそれを写真と何度も比較して見るが、同じだ。
「……トドメに、その子が今履いている靴……右足がいい、望」
「ちょっと靴、貸してね」
抵抗しようにも動けない少女の足から望は靴をもぎ取った。その靴を手渡されたシルヴィーが靴裏のパターンと写真のそれを見比べる。
「同じ……だわ」
パターンの模様といいそのすり減り具合といい、同一のものと見るしかない。
「……写真から割り出したその靴跡のサイズは二十四センチちょうど。二十六・五センチのアルクリットとは違い過ぎる」
「なんでお前がオレの靴のサイズを知ってるんだよ?」
「……中学最後の総合測定のテータを見たから」
「だからなんでお前がそんなもの知ってるんだよ?」
「……これでいい逃れできるものならしてみればいい」
「あたしがやったわよ!」
少女が喚く。現行犯を押さえられている上に写真で攻められれば否定のしようもないと開き直ったのか、その口調には嘲笑うものさえあった。
「たかがこんな花壇ごときにムキになって……あんたたちおかしいわよ!」
たかが、という物言いに望の心に火がつきかける。その気配を察したのかクリスが視線でそれを制した。
「なんでこんなことしたの!」
「そこの子のせいよ!」
シルヴィーの追求に少女が顎で示したのは――シルヴィーでもなく、リューネでもなければミオでもなく、もちろんアルクリットでもない。
望だった。
「え……あたし!?」
驚いたのは周囲もだが、当の本人がいちばん驚いていた。
無理もない、望にはその少女に覚えなど全くなかったのだ。
「あたしがなんで関係あるの? あなたのことなんてなにも知らな――」
「あの男の先生と仲良くしてたでしょ!!」
意外性の弾丸が再度望の胸を貫いた。
「あの男の先生って……クレイのこと!?」
「ほぉら、またそんななれなれしく! あたし、見たのよ! あなたが廃教室からあの先生とイチャイチャしながら出てきた時のこと!」
「――――」
望の喉から一瞬、言葉が涸れる。口をパクパクと開くのだがなにもいえなくなる。
あの男の先生――クレイのことだろう、他に思い当たる節など全然ない。
学校の初日、クリスと一緒の班になるかならないかで――今となっては実にくだらない話だったが――クレイと相談していた時の話か?
「なんであんたみたいなちんちくりんがあんなかっこいい先生と……!」
「なんでって……」
向けられる視線の色に望はたじろぐ。その瞳の奥に燃えているのが嫉妬の炎であるということまでは理解できなかったが、その感情のどす黒く伝わってくるエネルギーは肌でわかった。
「あんた……なんか勘違いしてるでしょ?」
はぁぁ、とシルヴィーの口から肺一杯分の溜息が漏れた。
「ランチェスター先生のことをいってるんだろうけど、この望は先生の妹なのよ?」
「は――」
少女の目と口がいっぱいに開いた。
「なにに嫉妬してるんだか知らないけど……あなた、それだけのことでムカついて花壇を荒らしてくれたわけ?」
シルヴィーのいい方は軽い調子さえしたが、それは心の奥に湧き上がっている怒りを抑制しようとしていたためかも知れない。シルヴィーだけではない、少女の動きを全て固めているクリスも黙ってはいたが、その表情が一段と険しくなっているのがわかった。
「……いいじゃないこんな花壇なんて! どうせ大したことないでしょ!」
少女が叫ぶ、その口から悪意の銃弾がまき散らされる。
「なによ、みんなで何かして友情ごっこに酔っちゃって! こんなの偽物でしょ! みんなで何かしたつもりになって! あたしにメチャクチャにされるのがお似合いのシロモノなのよ!!」
「この――」
カッとその頬に赤みを差して腕を振り上げたシルヴィーを、本当に自然な動きで前に割って入ったリューネが腕を広げて制する。
「リューネ! 止めないで! こんなやつは少しぐらい痛い目を見せないと――」
「シルヴィーさんが手を痛めるまでもありません」
その儚ささえうかがわせる容貌に似合わぬ、強い意志に支えられた固い声。
クリスに押さえつけられている少女の口元に笑みが湧く。シルヴィーに殴打されるところを止めてもらえたことの安堵に目から緊張が抜ける。
その感情の色を読み取ったリューネが優しい微笑みを浮かべた。
それは残酷すぎるくらいに優しい微笑だった。
だから、スッと掲げられたリューネの右手が掲げられた意味に少女も――いや、他の誰もが気づけなかった。
乾いた音が間を置かずに二度、裏庭に響くくらいに大きく飛んだ。
「あうっ! ううっ!」
その直後に展開された光景に、リューネと少女以外のその場にいる全員が息を飲んでいた。
まさに電光石火の鋭さでリューネの右腕が鞭のように飛んで少女の左頬を打ち据え、返す手の甲で次の瞬間には少女の右頬を跳ね飛ばしていたのだ。
誰もその連撃に反応できなかった。なにが起こったか理解できるまでに数秒の時間が必要だった。
「ビ……ビンタ!?」
「しかも往復……!」
シルヴィーとクリスもそううめくのが精一杯だった。この全員の中で最も暴力から縁遠そうな少女の行動に理解が追いついていなかった。
「クリスさん! もう放してください! そんな人間は反省を求める価値さえありません!」
「え、ええっ」
リューネの言葉というよりその迫力に押されてクリスが少女をつかんでいた手から力を抜く。地面にへたり込んだ少女の目の前にミオが持っていた靴を投げ込んだ。
「……消えろ」
「…………!!」
リューネの平手――いや、その後のリューネの怒声の方がよほど魂を打ち据えただろう、数秒間自分を失って呆然としていた少女が、ミオの氷の一言を受けて我に返り、完全に履けていない靴を引きずるようにしてその場から立ち去った。
全ての元凶が消え去り、場を張り詰めさせていたものが――切れる。
「わ……私ったらなにを……」
我に返ったのか、自分の蛮行にリューネが戸惑いの声を上げる。
「リューネ……あなたって怖い人だったのね」
今までに向けたことのない目を向けて、しみじみとシルヴィーが呟く。
「いやだ……私、興奮するとなにをしてしまうのか……」
「そこが怖いんじゃないの」
顔を真っ赤にして照れるリューネの姿にシルヴィーはふっと笑いを漏らした。
「終わったか」
アルクリットの声に、望もクリスも、他の三人も同時に振り向く。
「そういうわけだ。これで騒ぎは終わったろ」
「アルクリット……」
望の中で思考の回路が切り替わった。
あの少女が真犯人と確定した以上、アルクリットは犯人ではないと判明した。
ということは――考えるまでもなく、自分は……。
「アルクリット!」
誰よりも先に望が前に出る。まだこの展開の速さに理解が追いついていないクリスたちよりも早く、アルクリットに駆け寄っていた。
「――ごめんなさい!」
望の頭がそれ以上下げようもないのではないかというくらいに下げられる。
その思い切りのよすぎる望の仕草に、アルクリットは面食らっていた。
アルクリットの口が数回開閉を繰り返し、幾度かの試行の末にようやく思考が言葉に繋がる。
「お……おい、なにを謝ってるんだよ」
「あたし、なにもやってないアルクリットを責めたから!」
早朝の廊下の記憶がよみがえる。
折られた赤い花をアルクリットに突きつけて非難したあの日の朝。
思いつくだけの強い言葉を並べてぶつけた記憶。
それが再生されればされただけ、望の心を後悔という名の感情が棘の鎖となって締め上げていく。
「アルクリットが全部やったと思い込んで……アルクリットはそんなことしてなかったのに……むしろ、花壇を守ってくれていたのに……!」
言葉を紡げば紡ぐだけ、自分が残酷なことをしていた事実が無形の痛みとなって望を苦しめた。溺れるものが空気を求めるようにその口からは謝罪の言葉が吐き出される。
「ごめんなさい……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!」
望の両の目から熱い涙が粒となって零れだし――それが濁流となって頬に大河を刻むまでは、わずかの時間も必要としなかった。
体温以上の熱を持つような涙。それは望の体から感情の熱を逃がすために流れているものかも知れなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「はっ……」
アルクリットが声を上げる。信じられないものを目の前にしたかのように動揺が過ぎて、思わず笑いさえその口には浮かんでしまっていた。
「お前――馬鹿か?」
呆れた、とその口元が無言でいっていた。
「あんな状況じゃ、誰だってオレを疑うだろ? お前、前日にオレになにをされたか忘れてるのか?」
「そうだったとしても!」
望の脳裏に昨日の光景がありありとよみがえる。
赤い花を突きつけられてたじろいだアルクリットの怯えたような表情。
今なら、わかる。
彼女がなにに怯えていたのか。
「あの時のアルクリットの顔……悲しそうな顔をしていた! まるで、この世界に誰も味方がいないような顔をしていた!」
「――――」
今度こそ本当にアルクリットの喉が詰まる。唾を飲み込む音だけが大きく響く。
望にはその悲しさがわかる。マンションの間で蜘蛛の糸に絡め取られた時、クトゥルフたちの猛攻を何度も体で受け止めていたのにクレイが助けてくれなかった時。
誰からも見捨てられたあの時の恐怖、この世の中で自分がたったひとりぼっちになったと思い込んだあの瞬間。
アルクリットの心を締め上げていたのも、あの時と同じ感情なのだと今、望は理解していた。
「あたしの勘違いで……早とちりで、そんな思いさせて……本当に、本当にごめんなさい……!」
「は……は、ははは……」
乾いた笑いがアルクリットの口から漏れる。感情のこもらない笑い。
「ば……馬鹿いってんじゃねえよ。まるで、そんなことくらいで、オレが泣き出してしまうようなこと……」
アルクリットの声が途切れていく。代わりに聞こえて始める嗚咽に、望は涙が止まらないその顔をやっと上げていた。
「オレは……オレはそんなことで、泣いたり……泣いたりは……」
最後の方はもう、口が開いているだけだったのかも知れない、声にならない空気だけが唇から漏れ、やがてその喉が震えだしていた。
「わあ……ああ、あああ……」
言葉を失っていたクリスも、シルヴィーもリューネもミオも、確かに見ていた。
アルクリットの大きな目から溢れ出す涙の洪水。気の強さを張って示していたいつもの鋭い瞳が今は年頃の――いや、それより遙かに退行した、幼児のようなあどけなさしか感じさせない色しか帯びていない。
強さを張り詰めさせていた少女から全部の力が消え、その虚勢を洗い流すかのように止まらない涙が流れ続ける。
「うわあ……ああ、あああ……ああああ…………!」
すとん、とその膝が地面に落ちる。上体が折れて手が地面に着かれ、少女の体を辛うじて支える。
クラスで遙かに長身の少女。年齢以上の大人びた印象さえ与えるアルクリット。
その彼女が今は誰よりも子供のようになって、裏庭の真ん中で声を張り上げて止まらない涙を流し続ける。
「ごめんね……ごめん、ごめん、ごめんなさい……」
望がそのアルクリットの頭を抱く。なにも逆らわずにアルクリットは望の胸に自分の顔を押しつけ、助けを求めるように両腕ですがりついていた。
アルクリットの髪に望もまた自分の顔を押しつけて涙を流し続ける。
悲しさの全てが流れ去るまで、二人で泣けるだけ泣こうと。
お互いに抱き合い、しがみつき合い、二人は泣いた。
「――思い出した」
言葉を失い、その様を見守るしかなかったクリスの脳裏に閃くものがあった。
それは、堆積の中に埋もれていた記憶を偶然見つけ出した気づきだった。
「アルクリット――あなた、あの時もいたわ、思い出した」
そうだ。
自分はこのアルクリットを見ていた。
今の今まで忘れていた。だが、思い出した。
それは、あの時――。
「――私が、目の前で死なせてしまったあの子の、お葬式の時……!」




