#10「惨たらしいもの、再び」
本鈴が鳴り響くまであと数分というタイミング。
望たちは教室に入り、それぞれの席に着こうと足を進める。
「今日はちゃんと授業できればいいなぁ」
自分の席におしりを滑らせるように乗せたクリスに、カバンを机の上にバンと置いたシルヴィーが答える。
「毎日クトゥルフが来るとか嫌でしょ……っと」
シルヴィーはすぐには席に着かず、椅子の座面と背面、そして机の裏側などを入念に確認している。
「シルヴィー……なにしてるの?」
「朝の女の子のたしなみよ、望」
「たしなみ?」
「……画鋲トラップが仕掛けられていないかどうかチェックしてる」
「画鋲トラップってなんなんですか?」
ミオの的確な回答に、世事に対しての疎さをうかがわせるようにリューネが口にした。
「うかつに椅子に座るとね、おしりや背中や膝に穴が開いたりするのよ」
「はい?」
にっこりと微笑みかけていうには物騒すぎる台詞を口にして、シルヴィーは机の中をのぞき込み――その目を曇らせた。
「どうしたの?」
「いや……ね」
クリスの疑問はすぐに氷解した。
シルヴィーが机の中を掻き出した途端、数十通の封筒が一気に束となって床の上に落ちる。
まるでちょっとした郵便局のようなその様子に望が目を丸くした。
「シルヴィー、これ、なに?」
望も自分の机に手を突っ込むが、空だ。
「ラブレターよ」
その一つを指で挟んで、いかにも迷惑という顔をしたシルヴィーがひらひらと振って見せる。
「ラブレターって……これ全部が!?」
「ラブレターってなに?」
未知の響きの言葉に望が首を傾げる。
「ラブレターというのは……その……望さん……」
「望にはちょっと早い……かもね……?」
「んん?」
何故かもじもじして言葉を濁すリューネとクリスに望の首を傾げる角度がまた深くなる。
「……実に資源の無駄」
ミオは床に落ちたその全部を拾って机の上に置いた。一回では抱えきれないほどの手紙の量だ。
「六十通くらいはありそうですね……」
「……実に暇人ばっか」
「もっと来るかと思ってたわ。あたしも衰えたのかな」
「これで……?」
シルヴィーはポケットからレジ袋を取り出し、手早い手つきで机の上から封筒を手にしその袋の中にポイポイと入れていく。
それがどういう作業なのか理解できないまま見守っている四人の前で、クリスは半分ほどの封筒を袋に詰め終わってその口を閉めた。三十秒とかからない作業だ。
立ち上がってシルヴィーは教室の隅まで歩き、封筒で膨らんだその袋をゴミ箱の中に叩き込んだ。
「シルヴィー!?」
「ラブレターを捨ててしまうんですか!?」
「ラブレターってなに?」
概念が追いついていない望を置いてけぼりにしてシルヴィーが席に着く。
「選別したからいいのよ、あれは捨てていいやつ」
「選別したって……どういう基準で!?」
「郵便封筒とか、茶封筒」
そういわれてクリスは机の上に残された封筒たちに目を戻した。確かに、先ほどまでにチラチラと見えていた郵便封筒や茶封筒などがなくなっている。
「ラブレターって、想いを伝えるものよ」
「想いを伝えるもの……?」
望にはよくわからない。想いを伝えるのにいろいろなやり方があるのだろうか。
「その想いを包むものが家に余ってる適当なものとか、人を嘗めてるとしか思えないわ」
「ご……ごもっとも」
ベテランを前にしたルーキーのようにクリスがたじろぐ。
「クリス、あなた、何通入ってた?」
「何通入ってたとか、入ってるのが前提のいい方だけど……ゼロだった」
「見る目がない男が多すぎるのねぇ……」
「そ、そうなの?」
「そうよ。みんな見てくれしか見てないのよ。クリスの方が素敵なのにね……あたしが男子だったなら、真っ先にクリスに書くわよ?」
「あ……ありがと……」
クリスの反応にわずかに微笑み、まるで熟練者のような表情で残った封筒をシルヴィーはチェックしていく。
「私の机には、間違ってシルヴィーさん宛のラブレターが三通入ってました……」
「……私のは脅迫状が三通」
「ミオさん、いったいなにをしてらっしゃるんですか……?」
「あ、あの……」
班の外から聞こえてきた声に、望たち五人が一斉に首を向けた。
まだ見慣れない――そもそもこのクラスの生徒たちの顔も見慣れきってはいないのだが――女子生徒がその頬を微かに赤くしてそこに立っていた。
「シルヴィーさん、さっき、あの背の高い人ともめてましたよね……?」
おずおずとした物言い。
「みっともないところ見られたわね。それがどうかしたの?」
「私、あの人、昨日裏庭で見ました」
がたっと机と椅子を鳴らしてシルヴィーの腰が浮く。
「いつ!?」
「みんながシャワー使い始めたころです。私、花壇のあたりに落とし物をしたような気がして……それは近くで見つけたんですけれど……」
少女の瞳が揺れながら自分の言葉の跡をたどる。
「あの人が裏庭の花壇の前でなにかしてるのをチラッと見ました。あの背の高い姿は、さっきのあの人だったと思います」
「そう……そうなのね。教えてくれてありがとう!」
シルヴィーの顔が輝く、その声の調子が跳ねて気分の上向きがわかった。
「クリス、聞いた? やっぱりあいつがやったのよ! 目撃証言だわ!」
「直接的な証拠じゃないわ……」
クリスはシルヴィーほど楽観的ではない。腕を組んで考え込むその顔はさほどの明るさかない。
「問い詰めても、逃げようとされれば逃げられるだけだと思う」
「でも、容疑者は絞り込めたわ! あとはその直接的な証拠を見つけて突きつけるだけよ!」
見てなさいよ、というシルヴィーの心は燃えていた。握り拳からも意志の強さが溢れていた。
「教えてくれてありがとう。感謝するわ!」
「いえ……感謝だなんて。そんなのいいんです、それより、シルヴィーさん、これ……」
顔の全部、いや耳の先までを紅潮で染めきった少女が、ポケットから取りだした物を震えきった手でシルヴィーに差し出す。
「こっそり入れておこうと思ったんです。でも、どうしても直接受け取って欲しくなって……」
「あら」
シルヴィーが受け取ったのは一通の――これも白い封筒だった。やや小ぶりの長方形、デザインは奇をてらっていない無地ではあるが、簡素な中にファンシーさを醸し出している。
「可愛くて素敵な封筒ね?」
「そんな……そこら辺で売ってる安物なんです……もっとおしゃれなものにればよかったのに、恥ずかしい……」
「その心遣いだけで十分なの。封もしっかり糊で止めてるし、この赤い小さなハートのシールも可愛いわ。この場で開けていい?」
「えっ、読んで下さるんですか……!」
「あなたみたいな可愛い子がくれるものなら、最優先で読ませてもらうわ」
自然な手つきで取り出したペーパーナイフで丁寧に封を切り、シルヴィーは中から出てきた薄草色の便箋を目の前で広げる。
その目を素早く左右に動かしてシルヴィーが内容を読み取っている間、手紙の主の少女は限界まですくめきった肩を固くしてその場で人間型のストーブと化して大量の熱を放出していた。
「――そう、あたしのお友達になってもらえるの?」
「は……はい、最初はお友達として……」
シルヴィーがすっと立ち上がって少女の前に立つ。十センチほどの身長差が少女に顎をあげさせていた。
「あなたのような可愛いお友達なら、あたしは大歓迎よ?」
「可愛いだなんて……シルヴィーさんに比べたら、私なんてミジンコくらいのものなんです……」
「まあ、ミジンコだなんて謙遜するのね。あなたは可愛いクリオネちゃんに見えるわ」
「わ……私がクリオネ……光栄です……!」
傍から聞いているとかなり微妙なニュアンスではあったが、それは少女を感動させるには十分だったらしい。少女の喜色が見る見るうちに濃くなって、その目の端から涙が溢れてこぼれだした。
「なんか、私たち、すごいものを見せられてる気がするんだけど……」
「背景に白い花が見えそうです……」
「……茶番オブ茶番」
「ね、これってどういうことなの?」
「望は知らなくていいの!」
小さな声で、それでも鋭く差し込むクリスの横顔も赤く染まっているのが望にはわからない。
「ありがとうございます、シルヴィーさん……あと、厚かましいですが、一つだけお願いが……」
「なにかしら?」
「あの……その…………シルヴィーさんのこと、お姉様ってお呼びしてよろしいですか……?」
「あたしはかまわないけど……あたし、三月末の生まれよ? あなたの方が年上じゃないのかしら?」
「そんな……そんな些細なこといいんです……お姉様……」
クリスとリューネ、ミオの三人は目の前で行われている寸劇の意味に呆れながらそれを見守ることしかできず、望に至ってはその意味すらそもそも理解できていない。
その喜劇を締めくくるように本鈴のチャイムが鳴り響き、耽美な世界に突入しつつあったシルヴィーと少女もそれを気に現実に復帰した。
「お姉様、私、教室に戻ります……」
「あなた、隣のクラスだったのね?」
「では、ご機嫌よう……うふふふ……」
足に羽が生えたようにふわふわとした足取りで少女が教室から出て行く。それと入れ違いに入ってきたマリーが首を傾げながらも教壇に立ち、授業の開始を宣言していた。
起立と礼が終わり、地政学の資料を手にしたマリーがホワイトボードに板書を始める。
「シ……シルヴィー、ひょっとしてあの子と付き合うつもり……?」
それだけは確かめておかないとと焦るクリスが、席に着いたシルヴィーの方に身を乗り出した。
「お友達になるっていったでしょ。それ以上でも以下でもないわ」
「でも、なんか気を持たせたいい方だったじゃない……」
「クリス……あなた、経験がある?」
「え?」
振り返ったシルヴィーの凄みさえある笑み。その笑みの濃さに気圧されてクリスが思わずわずかだけ仰け反る。
「夜道、いきなり腕をつかまれて暗がりに引きずり込まれる――それも年下の女の子に、三度ほど」
「え、えっ、えっ、えっ?」
クリスの脳が話に追いつかない。
そんなクリスの反応を幸せなものでも見るように微笑して、シルヴィーはねっとりとした口調でいっていた。
「思い詰めた思春期の女の子を侮ると、痛い目に遭うわよ……どうせ二週間も適当なメールのやり取りすれば勝手に冷めてくれるのよ。そんなもんだわ」
「…………シルヴィー、いったい今までどんな経験をしてきたの……?」
「聞かないで?」
トドメに満面の笑みを残し、話は終わりだといわんばかりにシルヴィーが前を向く。
「ねえ、クリス、今のどういうこと?」
「望は知らなくていいの! 心が汚れちゃうわ!」
「え?」
クリスもまた前を向き、大判の教科書でその真っ赤になった顔を隠して押し黙った。
なにもかもが理解できない話題に頭を巡らせ、望は頬に手を当てて肘をつく。
「クレイなら教えてくれるかな?」
やっとまともに進み始めた日常の朝。
もやもやしたものを抱えながら、望は取りあえず目の前の教科書に意識を移した。
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――昼休み。
給食を詰め込むようにして急いで食べ、望たち五人は裏庭の様子を見るために足早に移動していた。
始業前に、アルクリットに痛い目に遭わされたシルヴィーは昼食中の興奮を持続させながら先陣を切っている。
「直接的な証拠っていってもなにがあると思う? それよりは、クリスがあのアルクリットをぎゅうぎゅう締め上げた方が早いんじゃないの!」
「私を暴力担当にしないでよ、シルヴィー……」
「結局世の中を制するのは暴力なのよ!」
「……そこまでいうのなら自分でやるべき」
「いえいえ、暴力はダメです! 絶対! いけないです!」
「リューネは黙ってて! 望だって足を引っかけられて転ばされて、痛かったでしょ! 花壇だって台無しにされたし! 仕返ししたいと思わなきゃ!」
「仕返し……」
望はシルヴィーの言葉を口の中で反芻する。
意味はわかる。復讐、リベンジ、報復。
――自分はそんなことを望んでいるのか?
「シルヴィー、望に乱暴なことを吹き込まないで。望もシルヴィーのいうことなんか聞かなくていいからね」
「でも……」
「どうせあんな筋肉女に理屈なんて通じないのよ! やることなすこと陰険ったらありゃしな――きゃっ!」
興奮するあまり、後を向いて歩く格好になっていたシルヴィーが背中に衝撃を受けて前につんのめった。
「びっくりした……あなた?」
「あ……あ、あ……」
一人の女子生徒がその場にうずくまっているのを見てシルヴィーが目を瞬かせる。シルヴィーの背中にぶつかられて転んだのか、そのおしりが完全に地面に着いていた。
「ご……ごめんね? ちょっと興奮していて……ケガ、なかった? ああ……制服が土で汚れたわね、今払うから……」
「っ」
シルヴィーが助け起こそうというのを振り切り、その少女は足早に立ち去った。
「シルヴィー……だからちゃんと前を向いて歩かないと……」
「あ……謝ろうとしたからいいじゃないの……そんな目で見ないでよ、クリス」
「でもなんか切羽詰まった感じで、どうされたんでしょうか、あの方」
「…………」
会話に参加しようとしていないミオがデジタルカメラを取り出し、地面に向けてフラッシュを数回焚き始めた。
なにを撮影し出したのか望には理解できない。
「ミオ、なにを撮ってるの?」
「……なんでもない」
デジタルカメラをポケットにしまったミオが歩き始める。
「望ーっ! ミオーっ! 置いていくわよー!」
「わっ……クリス、待って……」
いつの間にか最後尾になっていた望も半分駆けるようにして四人の後を追った。
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裏庭の花壇に到着した五人はそこで、またしても信じられないものに遭遇していた。
「え……え、えっ……?」
望が立ち尽くす。呆然と前を見る。
そこには、早朝と同じような光景が展開されていた。
自分が泣きながら、クリスやシルヴィー、リューネやミオと力を合わせて直した花壇。
直したはずの花壇。
さらに寂しくなりながらも取りあえずの見栄えだけは整ったはずの花壇が――またも荒らされていた。
「どっ……どういうことっ……!」
「……これは……」
シルヴィーが目を剥き、ミオも珍しく微かな動揺を示している。
またも花は折られ土はあちこちでほじくり返され、五人が一時間ほど作業した成果が全て無に帰されていた。
投げ捨てられるように放置された大型スコップが、これが故意に行われたのだということを嘲笑うように語っている。
「また……またあのアルクリットね! 一度ならずも二度までも……どれだけ根性が歪んでいるのよっ!!」
「……シルヴィー、声が馬鹿大きすぎる」
「また……ひどいです、これは……」
「――――」
そのリューネの声を聞いたと同時に、望は自分の意識が白く霞んだのを感じた。次の瞬間には、自分の意識が薄らいだということも感じられなくなっていた。
膝から下の力が抜けて、ふっと軽くなった体が浮――くわけもない。
「……望! 大丈夫!」
立ちくらみを起こしたようにふらついて体が流れた望を間一髪、クリスの腕が抱き留めている。
クリスの腕の中、自分で立てないほどに放心した望の瞳は虚空しか見ていない。
「なんで……どうして……」
わずかでも救えたと思えた花たち。その姿にいくらかでも希望を持てたのに。
これは……。
「望……しっかりして! 望っ!」
クリスの呼びかけも他人事のようにしか聞こえず、離れていった意識を取り戻せずに望はただ、少女の腕の中に身を委ねるしか術を持たなかった。
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望の元に駆け寄るシルヴィーたちの姿がわずかにのぞくことのできる裏校舎の物陰。
コンクリートの柱に背中を預けて、アルクリット・イーヴンは日陰に望が連れて行かれる様子を隠れるようにしてのぞき込んでいた。
「……ちっ」
校舎の下でクリスの膝を枕にするように横たえられた望が動こうともしないのを見て、アルクリットは伸ばしていた首を引っ込めた。
その口元は深い苛立ちに歪められ、威圧さを醸し出す目はきつい形に細められている。
食いしばられた奥歯がギリリと音を鳴らして、組んだ腕を支えている手には力が込められ自分の二の腕を千切るくらいに強く握りしめていた。
「本当に馬鹿どもが……」




