#08「踏みつけられた花と涙、それでも」
望の膝が崩れてそのまま地面に着く。脚から力が抜けきってそのまま立ち上がれなくなる。
精神に加えられた衝撃がそのまま心を砕いて持っていき、望の頭の中を空白にさせる。
昨日の午後、ここで作業した時の記憶が頭の奥で遠くの国の映画のように再生される。
はしゃぎながら土に触れたあの時。
十分とはいえないながらも、自分たちの努力が綺麗に飾り付けられた花壇の姿。
「ああ……あ……あ……」
その全部がただの夢か幻だったのだと嘲笑うように。
色とりどりの花は散らされ、茎は折られ、土は掘り返されて。
無惨、という言葉しか望の心には残らなかった。
「わぁ……ああ、あああ、ああああ……!」
意識もしないのに口が開く、喉が震えて声が漏れる。
目から止めどもない涙が堰を切って溢れ、少女の頬を伝って流れていく。
「わあぁぁぁぁぁぁ……!」
「望……」
まるで幼児のように膝をついて泣き出した望を、心に響いたショックに震えていたクリスが我に返って呆然と見つめる。
決壊した堤防から、川の水がどっと押し寄せてくるのをもう見守るしかない心境でクリスはそこに立ち尽くしていた。己の無力感に、望を慰めなければという単純な思考さえかき消えていた。
「望……クリス、どうしたの……」
背後からした声にクリスが振り返る。制服姿のシルヴィー、リューネ、そしてミオが連れ立ってそこにいた。
「望さんの泣き声が響いているから……なにがあったんです?」
「……裏校舎にこだましてる」
「――――」
クリスはそれを指で差すしかできなかった。口で説明しようとしても、震える唇では言葉を上手く紡げる自信などなかった。
クリスの隣まで足を進めたシルヴィーが、状況が意味しているものを一目で理解してその顔色を変える。
「なによこれ!」
「これは……ひどいです……」
シルヴィーの激昂にリューネも色を失って言葉を漏らす。隣に立ったミオでさえも普段の冷静さが剥がれ、口から出る皮肉も消えて瞳が震えていた。
「あいつよ! あいつの仕業だわ!」
シルヴィーの声が裏庭中に響く。怜悧さえうかがわせるその顔が今は怒りで歪んでいる。
「あいつ……あのアルクリットがやったんだわ! クリスに転ばされたのを根に持って! 逆恨みでやったんだわ!」
「シルヴィーさん、声が大きいです……」
「大きくもなるわよ! 望が泣いてるじゃない! あたしたちの花壇をこんなメチャクチャにして……!」
「……望……」
その体のどこからそれだけの音量が出るのかと不思議なくらいに、その場の全てを震わせるくらいの声を上げて泣く望の脇にミオが立つ。
「……可哀想に……私の胸でお泣き」
ミオがその望の頭を胸に抱き寄せ、ぽんぽんと頭を撫で始めたのを――シルヴィーが突き飛ばすように引き剥がした。
「……あにする」
「ミオねぇ、ちょっとは状況を考えなさいよ! 望は今悲しくて泣いてるのよ! そんな望を2Sの鳩胸に押しつけて痛い目見せるとかどういう神経してるの! せめてAになってからにしなさい!」
奪い取るようにシルヴィーが望の頭を抱き、その豊かな胸に望の頬を当てる。
「よしよし……あばら骨でこすられて痛かったでしょう。今日はお姉さんにいっぱい甘えていいのよ……」
ミオに背中を頭突きされながらシルヴィーがぎゅっと望を抱きしめ、少女の瞳から溢れて止まらない涙をその胸で全て受け止めた。
「これは……いつやられたんでしょう……」
「昨日のうちかもね……」
クリスが土の表面を指で触る。
「掘り返された土が乾いてるわ。一晩は時間が経ってると思う」
「だからあのアルクリットがやったっていってるじゃない!」
望の泣き声をその胸で殺していたシルヴィーが叫ぶようにいう。
「昨日シャワー室に入ってきた時も泥で結構汚れてたわ。ここを荒らした後に入ってきたのよ!」
「そうなんでしょうか……」
「そうなんでしょうかって、それを見つけたのはリューネ、あなたでしょ!」
「確かに、汚れているように……いえ、汚れていました」
「……ちゃんと調べないと」
体のどこからかカメラを取り出したミオが花壇に近づき、荒らされた土には踏み込まずフラッシュを焚いて撮影を始める。様々な角度や距離から荒らされた様子を入念に撮影し、そのフラッシュを軽く三十回以上は発光させていた。
「シルヴィー、落ち着いて。望も泣き止んで……大丈夫?」
「クリスぅ……」
シルヴィーの胸元を涙でいっぱいに濡らした望がようやく顔を上げる。軽く数分は泣き続けていたのに、その涙はいまだ尽きることを知らなかった。
「望……お願いだから泣き止んで。私まで悲しくなっちゃうから……」
「クリス……!」
今度はクリスの胸に望が顔を押しつける。飛び込んできた少女の重さにクリスはたじろぎそうになったが、それでも踏ん張ってそれを受け止めた。
「望……私たちが手伝うから、少しでも花壇を直そう。だから泣き止んで……お願い……」
「うん……うん……」
「そうよ、こんな嫌がらせに負けてたまるもんですか! あの女を追及して私がやりましたって白状させてやるわ!」
「シルヴィーさん、少し落ち着いて……」
「……完全に我を失ってる」
何十枚という撮影を終えたミオがカメラをポケットにしまった。
「……花壇、直す」
「そうね。望、離すよ……いい?」
「うん……」
「このローファーが泥だらけになってかまわない! あたしスコップ持ってくるわ!」
「あ、私も手伝います、シルヴィーさん」
肩をいからせ、普段は見せない大股でプレハブ物置に向かって突進していくシルヴィーをリューネが追う。
ようやく誰かに支えられなくても体を起こせるようになった望は花壇に駆け寄り、その茎を折られ土の上に薙ぎ倒された花々にそっと手を添えた。
「あ……あ……」
「望……残念だけど、ここまで折られたらもうダメだわ……」
望の手から茎が半ばから千切れた花を受け取る。それは死体のようなものだった。
「もう、お水をやってもダメなの……?」
「うん……」
「そんなぁ……」
またも望の喉がしゃくり上げられる。クリスの不安げな声を受けて、涙が流れ出すのをなんとかとめようとそれを袖でゴシゴシと拭った。
「乱暴なことしないで。ちゃんと拭いてあげるから」
「…………」
折り目正しく四角に畳まれた黄色いハンカチが望の目元に当てられた。
「スコップ、持ってきました」
「リューネ、ありがとう……シルヴィーも落ち着いて。体から湯気が出てるみたいよ」
「それはそうよ! あたしは今怒りの炎で燃え上がっているんだから! リューネ、ミオ! 生き残ってる花を選り分けて! あたしは穴を掘るからそこに埋めて!」
普段は嫌うであろう力仕事も怒りに任せて率先するシルヴィーの姿に、クリスはやっといくらか笑えるものを覚えて口元を歪ませた。
「ほら、望」
「うん」
望の手がまだ完全には折られていない花、立ち直らせることができる花を立たせていく。それも全体の半分もない。
もう生き返る見込みのない花を片付けると、昨日の印象より更に寂しい花壇ができあがった。
「……こんなところね……」
汗ばんだ額をシルヴィーが手で拭う。しかし反対に、手についた泥が少女の白い額を汚した。
「シルヴィーさん、おでこが汚れています」
「ああ……リューネ、ありがとう……」
リューネのハンカチがシルヴィーの額に当てられる。
「もうそろそろ時間ね……シルヴィー、リューネ。道具を片付けてくれるかな」
クリスが腕時計をのぞく。予鈴の五分前。
「えっ……もうそんな時間なの」
「道具、片付けてきます」
「お願いね」
スコップを引っ提げてシルヴィーとリューネが小走りで駆けていく。
その二人の背中を見送り、望は再び花壇に目を落とした。
「どうして……」
どうして自分はあんなに泣いたのだろう。
自分たちががんばって作ったものをメチャクチャにされたから――それは、わかる。
だが、これよりもっと悲惨なものを自分は見てきたはずだ。
焼き払われる街、原型を留めないほどにバラバラにされる人の形。
そんなものを見ても自分は泣かなかった。泣きたいとも思わなかった。
「……どうして?」
あの時は戦闘態勢だったから?
確かに……それもあるかも知れない。クトゥルフに破壊された街、人を見た時に心は怒りに燃えた。泣くヒマなどない。こんな惨状を作り上げたものたちに、力の限りを叩きつけてやろうという闘争本能があった。
それが涙を押さえつけていたのだろうか。フェイリスの力に体が満たされれば、心も強くなるのだろうか。
「あたしは……弱いね……」
日常態勢。人間の力しか出せないモード。
力が出せなければ、心も出せなくなるというのか――。
「優しいのよ」
「え……?」
その声に望が振り返ると、クリスが目の前にいた。母のような、姉のような優しい微笑みを浮かべてそこにいた。
「望は優しいの、だから、お花たちが傷つけられたことに泣けるのよ」
「……よくわかんない」
「わからなくてもいいわ――望、ちょっと顎を引いて」
「うん……?」
「ちゃんと、土は落としてあるからね」
クリスの手が望の頭に軽く添えられた。
すっ、と髪に何かが挿される感触に望が首を傾げる。
「ほら、可愛い」
「……鏡よ鏡よ鏡さん」
ミオが開いたコンパクトミラーを差し出す。
四角い鏡の中で首を傾げた望の髪に、赤く大きな花弁をつけたひなげしが一輪挿されていた。
「あら、素敵じゃないの。私も負けそう」
「望さん、お似合いです。とっても綺麗ですよ」
シルヴィーとリューネの顔にも笑顔が輝いた。
「そう……?」
「……ビューティフル」
得心がいかないという望にミオが拳に親指を立てて望に向けた。
「――――」
望がますます首を傾げると、鏡の中の望もそれに合わせて首を傾げる。
鏡の中でひなげしの赤さが望の黒髪の中で輝いて、少女の可憐さに文字通りの華を添えていた。
もう捨てるしかない花を髪に飾るだけで、いくらかの笑顔が取り戻せる。
その心の作用はまだ望に理解できるものではなかったが、それでいい、と思えた。
「泣きやめたね、望」
「うん」
「望が泣くと私も泣きたくなるから、嬉しい」
微笑みがもたらすクリスの言葉。
その意味を咀嚼し、頭の中に染みこませて――望の口元にやっと笑顔が湧いた。
「――うんっ」




