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少女が愛した千の恋と万の嘘 -電装騎士フェイリス-  作者: 更科悠乃
第3話「GIRL FRIEND'S STORY」
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#06「Home――望とクレイ」

 それは地上三階建ての低層賃貸マンションだった。

 部屋数は十二部屋、どの部屋も2LDKという間取り。


 外壁のペンキはやや剥がれかけていて、それほど管理に手がかかっていないような物件に見える。賃料も少し相場より高めで、物件を探している人間もまず選択肢から外してしまうような建物だった。


『入居者募集中』と掲げられた看板の前を通って望はマンションに入る。

 三階建てという低層にも関わらず、少し大きめのエレベータが設置されていた。階段を使うかどうか望は少し迷ったが、エレベータのボタンを押してそのドアを開けていた。


 少し型の古いエレベータが上昇し、ほんの十数秒で二階で停止する。

 ドアが開いて望は廊下に出、エレベータの隣の部屋のドアの前に立った。

 ポケットから鍵を取り出す。刻まれている番号と部屋の表示を見比べる。

 部屋番号、二〇二。


「ここか……」


 自分がここから登校したとされている(●●●●●)部屋だった。

 ドアの鍵穴にスティック状の鍵を半分差し込んで、かかっている鍵を解錠した。

 かちり、と音が響いて鍵が開いたのがわかった。

 ドアを開け……踏み込む。


「…………」


 初めて見る我が家の光景がそこにあった。

 二人も立てばいっぱいの玄関、短い廊下の正面には閉じたドア。右手がトイレで、左手は洗面台と洗濯置き場を合わせた水回りのスペースだ。曇りガラスのドアの向こうは浴室だろう。


 靴を脱いで正面の廊下に進み、ドアを開ける。

 右手にはカウンターキッチンが見え、その先に四人も座ればギチギチのダイニングセット、さらにその奥にはソファーセットが並べられていた。


 左手には個室であるらしい部屋のドアが二つ、並んでいる。

 一番奥のうっすらと赤く染まっているガラス戸は……バルコニーに出るドアだろう。

 自分がこれから二年間暮らす部屋を初めて見て、望は現実感のなさにはあとため息をついた。

 奥の個室の扉のプレートに『望の部屋』と記されているのを見つけて、その扉を開ける。


「はぁ……」


 知らない部屋――望の部屋がそこにあった。

 小さめのベッドが窓際に置かれていて、その傍らに寄り添うように勉強机が置かれている。

 一度も読んだことのない本が隙間なくびっしりと詰め込まれている、あまり背の高くない本棚。


 クローゼットの扉を開けると、そこにも当然一度も袖を通したことのない服がずらりと並んでいる。しかしサイズは全部完璧に合わされているはずだった。

 ここはそういう部屋なのだ。


 ここが自分に与えられた部屋だと教えられていても、場違いのところに連れてこられた違和感が拭い去られることはない。

 とはいえ、落ち着かないからといっていつまでもぼうっと立ち尽くしているわけにもいかなかった。


 女の子の部屋としては不自然なくらいに完璧に整えられたベッドに、ぼすん、とおしりを落とす。

 足に負担がかかるのから解放された次には、もう少し大胆なことをしてみたくなって――そのまま背中をベッドに勢いよく倒した。

 よく利いているスプリングが少女の背中を優しく受け止めて、それが起き上がる気力を萎えさせてくれる。


 明かりがついていない天井のシーリングライトが目に入る。夕方に差し掛かった部屋は薄暗い。

 カーテンは開かれているが、もう差し込んでくる太陽光線は弱々しかった。


「……なにしよう……」


 今まで暮らしてきた部屋は、こんなに色の多い部屋ではなかった。

 軍の施設の一つの部屋。ベッドと机があるくらいの殺風景な部屋。

 窓もないような、見たものにたとえさせれば、刑務所の独居房のような部屋で何ヶ月も暮らしてきたのだ。


 今日初めて、フェイリスとしての肩書きを半分外して外の世界に出たようなものだった。

 空き時間は自由にしていい――その時間をどう自由に使うのかも、人間を知るという学習の一環である。


「自由っていわれてもなぁ……」


 与えられた自由を持て余して、ベッドに横たわったまま望は時間が過ぎるに任せた。

 ――が、退屈が勝るのもすぐだった。

 時間が過ぎるのを数えるのに飽きて、足の反動をつけて飛び起きる。


「……お風呂でも入ろう」


 学校でシャワーを浴びてはいたが、気分が切り替わるならそれもいいだろうと思って、床に足をつけた。

 上着を脱ぎ、スカートとブラウスまで部屋に脱ぎ捨てて風呂場に足を運ぶ。

 脱衣所で残った下着類も脱ぎ、床がひんやりと冷たい広めのユニットバスに入って扉を閉めた。


 天井に大きなシャワーヘッドが固定されて一つ、壁にもホースに繋がれた小さめのシャワーヘッドが一つ。蓋が開けられた浴槽には湯は張られて折らず、空だった。

 お下げにしている髪のゴムを取って壁のフックに引っかけ、眼鏡を外して棚の一つに置く。


 二つあるシャワーのレバーの中でそれらしいのを開くと、天井の大型シャワーが大量の湯を降らしてくる。

 それ一つで髪も体も十分洗えてしまえる水流を浴びて、望は濡れた髪をなで回した。


「今日、これが三回目のシャワーか……」


 一度目はクトゥルフとの戦いの後、二回目はその戦いの舞台となった裏庭の撤去作業の後で。

 二回目のシャワーで散々賑やかだったことを思い出すと、一人で静かに浴びるシャワーは味気ない以外の何物でもなかった。


 みんなで一緒に同じことをする楽しさ、賑やかさを知れば、今までなんでもなかった孤独が辛くなる。

 それは望が今日、初めて知る感情だ。


「……楽しかったなぁ……」


 知らなければよかった、という後悔が一瞬胸を掠めたが、それでもまたあの楽しさに出会いたいという気持ちが勝った。

 モヤモヤする気持ちを洗い落とすように望はさらにシャワーのレバーを開く。

 頭にぶつかって来る湯の量が倍になっても、それは望の曇った気持ちをすっきりさせてはくれなかった。


===============


「ふはー……」


 シャワーを浴び終わり、バスタオルで乱暴に髪を拭いてそのまま浴室を出る。ドライヤーで乾かさないといけないのだろうが、今の望にはそれも煩わしい作業だった。

 放っておけば勝手に乾く、というのが望の常だった。


「喉……乾いたな……」


 そういえば、最後になにかを飲んだのは昼食の時が最後だった。あの牛乳を飲んでから一滴も水分を口にしていない。

 髪を拭いたバスタオルを肩に羽織り、裸足で歩いてキッチンにまで出る。

 冷蔵庫を開けて中をのぞくと、食材はほとんど入っていなかった。が、飲み物だけはドアのポケットにたくさんある。


 ペットボトルのコーラにミネラルウォーター、パックの牛乳に紅茶にオレンジジュース。

 そのどれもが口の開けられていない新品で、それがこの作られた生活感の限界を示していたのかも知れない。

 その一つのオレンジフレーバージュースを引き抜き、アクリル製の大ぶりなコップになみなみと注ぐ。

 パックを冷蔵庫にしまい、望はリビングを歩きながらそのコップに口をつけ、大きく傾けて一気に飲み始めた。


 少しだけオレンジ色の液体が口の端からこぼれ、細い筋が望の顎を伝って首筋に流れていく。

 オレンジ味のジュース――果汁百パーセントとはされているが、オレンジの味を再現した人工果実を搾ったもの――を瞬く間に飲み干して、望は満足の息をついた。


「――ぷはぁぁ……」


 舌から伝わる強い甘味が頭の奥も刺激して、今まで消えなかったイライラのようなものが少しは薄れたような気がする。

 首筋から胸元に垂れたジュースをバスタオルで拭き取って、それを脱衣所に戻そうと望は玄関ルームに通じるドアを開けて出た。


「ただいま」


 脱衣所に足を踏み入れようとした時、ちょうどのタイミングで玄関のドアが開いてスーツ姿のクレイが顔を見せる。


「あれ……クレイ?」


 望の目が丸くなった。

 どうしてクレイがここにいるのか理解できなかったからだ。

 その望が驚いていることに驚いているクレイは五秒ほど玄関のドアのノブを握ったまま固まり、少し慌てたようにそれを閉めて玄関に入ってくる。


「あれ、じゃないだろ。そこは普通は『お帰りなさい』だぞ」

「お帰りなさい……」


 今まで唱えたことのない呪文を口にしつつ、望の頭はまだ半分無理解に固まっていた。


「どうしてクレイがここに?」

「どうしてって……ここは俺の家だからだ」

「クレイの家? あたしの家じゃないの?」

「俺とお前の家なんだ」


 望の目が瞬く。


「兄と妹が一緒に住む。当然だろ?」

「そうなの?」


 とぼけでもなく本当に素の反応に、クレイは苦笑も漏らすこともできなかった、ただ口元が微かな角度をつけて歪んだだけだった。


「そこら辺のこと説明してなかったかな……説明するまでもないと思ってたかな……」


 靴べらを差し込んで靴を脱ぎ、それを玄関の真ん中に並べてクレイは上がり込む。


「あと、望……大事なことがあるんだが……」

「なぁに?」

「いくら兄と妹でも、その格好はとてもまずいと思うんだ」


 クレイの指摘を受けて望の首が下がって視線が真下に向けられる。

 全くの素肌に長いバスタオルを一枚首からかけただけの姿。あと自分か身につけている――持っているものとしたら、空になったアクリルのコップぐらいのものだ。


 視線が再び上がって、平静な表情のクレイと再び目が合う。

 その状況が理解されるまでにはさらに数秒の時が要され――理解された時には、少女の羞恥心が爆発していた。


「きゃああああああああ!!」


===============


「……今回は俺がのぞいたんじゃないぞ、あんなところであんな姿で立ってたお前が悪いんだ」


 アクリルのコップに直撃された額をスタンドミラーで入念に確認しながらクレイがいう。コップが空でスーツがジュースまみれにならなかったことは幸運だった。初日からクリーニング店送りになる手間が省けた。


「だからって、だからって、だからって!」


 なにがだからなのか自分でもさっぱりわからなかったが、声を張り上げることで感情を吐き出す以外の術を持たない望みが自室の中で荒れ狂った。

 小さなタンスに詰め込まれていた新しい下着の中からブラとショーツを抜き出して乱暴に着け、着るのに楽そうなスウェットに首と袖を通す、


 唇の尖りを押さえられない望がリビングに出ると、クレイの姿はない。浴室からシャワーを使っている気配だけが伝わってきて、間違っても近づいてやるものかと望は自分の体をソファーの上に投げ出した。


 新品の革張りのソファーが少女の体を上で弾ませる。

 それで望のやることはなくなった。

 外を見ると陽はほぼ沈み、夜の濃い帳が完全に下りようとしている。


 今日の午前、クトゥルフとの戦いで死にそうになったとはとても信じられないような穏やかな時間だった。

 そして、その穏やかな時間の使い方を望は全く知らない。

 リビングの壁に掛けられている大型のテレビも望に取っては黒い板でしかなく、小ぶりのオーディオセットのスイッチをいじくろうという欲求もなかった。

 腹ばいになったソファーの上でパタパタと足を動かすのがせいぜいだ。


「……退屈だな……」


 ある意味では、これ以上もなく贅沢に時間を消費している望の前に、体の全部を洗い終わり髪にドライヤーまで当てたクレイがラフな部屋着で現れる。


「ねぇ、二人で暮らすって本当なの?」

「女子高生が一人で暮らすにはこの部屋は豪勢すぎるな」


 一人暮らしの会社員でさえこのマンションの一室は贅沢が過ぎるかも知れなかった。


「俺とお前は兄と妹っていうことになってるんだ。そうなってる以上、一緒に暮らすのがいちばん自然な形なんだよ」

「うー……」

「それに慣れるのも勉強っていうもんだ。朝の校長の話を忘れるな」

「……人間の間で、人間について学べ?」

「忘れてるかも知れんがな、俺だって人間なんだぞ」


 本当に忘れていた望がその言葉に目を丸くする。


「俺と一緒に生活することで人間を学ぶ……それも一環ではある」


 クレイが冷蔵庫から取りだした缶飲料を軽く台所の水道で洗い、プルタブを引いてそれに口をつける、高く傾けたそれを喉の奥に流しこんで、クレイもまた望が先ほどやったように大きな息をついた。


「ただ、それじゃ人間の世界は狭すぎるからな……あの学校だって世界の全部じゃない。ただの一部分だ。それでも、軍の施設だけに比べれば広い。あんなところにいても軍隊だけについて詳しくなるだけだからな」

「……クレイはいいの? 自分の家に帰れないんでしょ?」

ここが俺の家だ(●●●●●●●)


 望の顔を見ず、バルコニーのガラス越しに見える闇の色を見つめてクレイは言い切った。


「俺はこれから二年間、お前の教師でありお前の兄なんだ。だから俺の家もここなんだ。……なにか疑問があるか?」

「クレイは……」

「それが俺の仕事なんだ。……大変だろ? 大変だと思うのなら俺のいうことをよく聞いて、いい生徒でありいい妹でいてくれ。それがいちばん助かる」

「……生徒で、妹……」


 嘘だった。

 それのどれもこれもが嘘だった。

 そもそも――自分が人間であるということ自体が嘘だった。


 もう、なにが本当なのかわからないくらいの嘘を抱えてしまっていることに望は今更気が付く。

 むせかえるほどの嘘の匂いに、開き直って生きて行くしかないのだろうか――。


「……だからな、望」

「うん……?」


 空になった缶を軽く洗い、その場で潰してクレイはそれをゴミ箱に放り込む。


「外では俺のことを兄と呼ぶくらいでいい。普通、妹は兄を呼び捨てにはしないもんだ」

「兄って呼べばいいの?」

「……兄さんとか、お兄さんとかもお兄ちゃんとか……色々あるんだけど、好きなのを選べ」

「まだよくわかんない」

「おいおい教えるさ……おっと」


 玄関の方で小さくブザーが鳴る。宅配ボックスに何かが入れられた合図にクレイが反応して玄関の方に移動する。

 二十秒も経たずに戻って来たクレイの手には、平べったい容器が二つ抱えられていた。


「夕食にするぞ。手を洗ってこい」

「それは?」

「夕食の弁当だ。この時間に届けられるようになってる」

「うん」


 リビングの方を向いているカウンターキッチンの水道で望が手を洗っている間、クレイはダイニングテーブルの上で弁当の包みを開いて蓋を外している。

 戻って来た望と入れ違いになるようにクレイも手を洗い、椅子に座ってテーブルの前についた。


 弁当の中身はパスタにハンバーグ、多めのサラダに少しの煮野菜といった、見た目だけは派手な味気ない内容だった。それに湯で粉を溶かしただけのインスタントのスープが添えられる。

 二人とも昼は家にはいない兄妹の食事としてはあり得ないものではなかったが、それでも簡素さは拭えなかった。


「じゃあ、食べるか」

「うん」


 そのままフォークをパスタに刺して食べ始めようとした望をクレイが手で制す。


「なに?」

「……一人で食べる時はよかったけどな、誰かと食べる時……いや、これからは一人で食べる時もまず最初にやらなくっちゃいけないことがある」

「手は洗ったよ?」

「それもだけどな、食べる前の挨拶がある」

「挨拶?」

「食べる前にこうやって手を合わせる」


 クレイが右手と左手を開いて見せて、それを軽く胸の前で合わせる。そのまま軽く目を閉じ、頭を傾けて小さく言葉を唱えた。


「いただきます」

「いただきます……?」

「大昔からの食べる前の挨拶なんだ……どういう意味かは、俺もよく知らんのだが……」

「いただきます……」


 昼間、あのブロック形保存食を食べる時にクリスたちはやっていただろうか?

 やっていたような気もするし……やっていないような気もする。自分が気にもしなかっただけかも知れないが……。


「……いただきます」

「ああ、いただきます」


 望はその挨拶を済ませて弁当の中のものを淡々と口に運ぶ。

 昼間のあの食事よりも格段に味の良いメニューのはずなのに、黙々とする食事はつまらないの一言に尽きた。昼間の楽しい食事が嘘か何かのようにしか思えなかった、


 ただ、フォークとナイフ、スプーンを交互に持ち替えて行うだけの食事。

 それが終わるのに二十分もかからない。気が付いたら弁当の中もカップの中も空になって、終わり、というだけのもの。


「ごちそうさま」


 望よりいくらか早く食べ終わったクレイが、食べ始めるのと同じ仕草で違う言葉を唱える。


「それも挨拶なの?」

「ああ、ごちそうさまだ」

「ごちそうさま……」


 空になった容器をゴミ箱に捨てれば、洗い物といえばスープに使ったカップくらいのものだった。そんなものはものの一分で洗い上げられて水切りの上に上げられる。


「風呂を張っておいたから入るか?」

「うん……クレイ、のぞかないでね……」

「もう痛いのは勘弁だぞ」


 ソファーに座ってテレビもつけずにくつろぎ始めたクレイの気配を背中に感じながら、望は浴室に向かう。

 服を脱ぎ、たっぷりと湯が張られた湯船に体を沈めて、温かさが体の全部に染みこんでいく感覚に目を細めた。


「…………」


 味気ない時間がただ流れる。

 ここでクレイが何かの間違いで来てくれれば、このつまらなく退屈な感じも吹き飛ぶのに――ふっとそんなことを思ったが、来て欲しい時にクレイは来てくれない。かといってのぞきに来てくれというわけにもいかなかったし、のぞかれるのは嫌だというのも確かだった。


「…………ふぅ」


 自分の目がさっきから半分陰ったままだというのを意識しながら湯船から体を抜いて、体を拭き再び下着と部屋着を身につける。

 たっぷりの時間を使ってドライヤーで髪の水分を飛ばし、望はリビングに出た。

 今まで嗅いだことのない匂いが望の鼻を突く。


「クレイ……?」

「あがったか」


 ソファーに背と尻を預けていたクレイが振り返る。その手には小さなグラスが握られていて、それを半分満たしている琥珀色の液体から望が眉をひそめた匂いは漂ってきていた。


「それ、変わった匂いがするけど、なに?」

「酒だよ。お前には飲ませられないけどな」

「あたしは飲んじゃダメなの?」

「高校生が飲酒なんぞしたら一発で退学だ」

「ふぅん……」


 アルコールのきつい刺激臭は望の興味を引きはしたが、飲んでみたいという欲求までは起こさない。

 ただ、ちびちびとそれを口に運んでいるクレイの顔が今まで見たこともないくらいに赤く染まっていることは気になった。


「お風呂空いたけど……」

「ああ。でも、まずいな……酒を飲んで風呂に入るのは危ないな。順番を間違えた」

「そうなの?」

「まあ、体は洗ったからいいか……」


 クレイが微かに含み笑いをする。今までに見たこともないその奇妙な笑い方に望は引っかかるものを覚えたが、すぐにそれも消えてしまったことに追求する気もなくした。


「今夜はもうなんの予定もない。明日は朝早くから花壇の世話だろう? 夜更かしせずに早く寝ることだ」

「うん」

「おやすみなさい、望」

「おやすみなさい……」


 その挨拶は理解できた、今から就寝するものがする、それを見送るものにする挨拶。

 口の中で何度かそれを繰り返し、まだ完璧にする自身はなかったが、思い切って望はそれを言葉にしていた。


「おやすみなさい…………えっと、……お兄ちゃん」

「なんだ、やればできるじゃないか」


 ニッ、と笑ったクレイの笑みを視界の端に残して、望は自室のドアを閉めた、

 クレイは夜更かしをするなといっていたが、そもそも夜更かしできるような手段が思いつかない。

 できることといえば、まだ小学生も寝ないような早い時間にベッドに潜り込んで目を閉じるだけだった、


 枕に頭を乗せ、明かりを消せばカーテンが閉じられた部屋は真の闇になる。

 その中に一人いるのが怖かったから、望はきつく目を閉じて体を丸めた。

 目を閉じて得られる闇は、明かりのない闇よりはいくらか安心できる、


「……おやすみなさい」


 自分に小さく呟いて、全身の力を抜いた望はほどなく眠りに誘われた。

 フェイリスにも眠りは必要なのだ。

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