#01「少女の日常、それを破壊する火龍――クトゥルフ」
その日は十五歳の少女、クリスチーナ・フォルクスが待ちに待っていた日だった。
――いや、待ちに待っていた日のはずだった。
* * * * *
『……ユーラスト市の天候は一日を通して晴れでしょう。降水確率はいずれの時間も10パーセント以下、湿度は30パーセント……』
ネットワークに繋がった音声端末が流す目覚まし時計代わりの情報番組で、その朝、クリスは目覚めた。
『……最高気温は15時で20度、最低気温は夜には13度の、軽いコートでちょうどいいくらいの過ごしやすい陽気です。そして……』
枕元のスピーカーが機械音声で読み上げる一日予報が流れる中、布団の中でその体を丸めていたクリスはまだしょぼつくまぶたを震わせて最後の寝返りを打つ。
起きる――起きて、起きなければ……。
『……本日のワームナノマシン強度はレベル4の予報です。ホットスポット周辺以外の無線通信は難しいでしょう。リアルタイム通話は避け、メッセージサービスの利用をお勧めします……』
「…………う…………ん……」
まだあたたかい布団への未練はないではなかったが、覚悟を決めて少女はそのしなやかな体をいっぱいに伸ばした。
「……ん……ん……」
鈍かった血の流れが指の先まで巡る感覚に心地よさを覚えながら、クリスはベッドの上で体を起こす。
外からは小さく聞こえるのは、いつもの小鳥たちのさえずり。
カーテンの隙間からこぼれる陽の光がひとすじ部屋の中に境界線を作っている。
『……今日は市内の市立小中高校の入学式です。新しい門出にはぴったりの気持ちいい天気の一日になるでしょう。新しい環境に踏み出すみなさんに幸せが訪れるように――』
音声端末のスイッチを切ってひとつ大きな息をつき、ベッドから滑り降りたクリスは思い切りよくカーテンを開けた。
シャッ、と気持ちいい音を立ててカーテンが滑り、次に窓が大きく開け放たれて外の冷たく新鮮な空気が一気に流れ込んできた。
大きくはない――小さくもないとも自分は思っている――胸を張り、大きく手を伸ばして背を反らし、涼しい空気を肺の中いっぱいに吸い込む。
窓枠に手をついて半ば外に身を乗り出し、新しい朝の新しい空をクリスは仰いだ。
「わぁ…………!」
抜けるような青の色が、今日は特別に高く遠く広がっていた。
夜にはまぶしいくらいにその空を飾っていた高輝度のオーロラは空の青さに隠れて、ちらちらとした光を放つだけになっている。
「クリスーっ! もう起きてるのーっ!?」
「起きてるわーっ!」
一階から聞こえてきた母の声に、クリスは反射的に声を上げていた。
「入学式なんだからね、ちゃんと身支度しなさいよ! わかったーっ!?」
「ちゃんとわかってる! 心配しないでー!」
心配性だなぁ、と肩をすくめるがクリスはそんな母が好きだった。ため息をつきつつも顔がほころんでしまう。
そう。
「入学式、か……」
入学式。
それは昨日まで中学生だった自分が、高校生という立場へと変わる日。
少女が大人になるために上っていく、大事な階段の一つ。
その言葉を大事な宝物のように口の中で丁寧に転がして、クリスは学習机の上に折りたたみの三面鏡を立てた。
その裾がふんわりと肩にかかるミディアム・ボブの髪にブラシをかけ、枕で潰れた髪を柔らかいカーブの形に直していく。
顔を洗ってから顔に乳液と化粧水を塗り込んで肌を整え、パジャマを脱いで畳んだクリスは吊されている新しい制服を手に取った。
真っ白なブラウスに袖を通し、長さの調節にやや戸惑いながら黒の短いネクタイを締める。それに満足するとタイトスカートに脚を通し、まだ着るには早い濃紺色のドレスジャケットを羽織ってスタンドミラーの前に立った。
鏡の向こうで新しい制服にまだ着慣れなさを隠せない少女がこちらを見ていて、それが妙に可笑しくてクリスは微笑んでしまう。
新しい学び舎での、新しいクラスメートとの出会い。
どんな友達と出会い、どんな体験をして、どう卒業していくのか。
それは無限の可能性を持った物語のように思えて、想像するだけで少女の胸をあたたかく膨らませてくれた。
朝食を摂って歯を磨き――軽い足取りで玄関のドアを開けた。
「いってきまぁす」
靴が外の地面を踏んでトン、と鳴り、速いリズムでクリスの足が道に出る。
初めて制服姿でたどる登下校の道。
その道すがら、まだ入ったことのない可愛い雑貨屋や小さな喫茶店を見かける度に少女の中で幸せの予感が膨らむ。
この道が自分の新しい日常の舞台になるのだと思うと、それは不思議なほどに明るい景色に感じられた。
そして――着いた教室で初めて顔を合わせる同級生たち。
明るい笑顔を作りつつもどこかに緊張を浮かべ、新しい友達を得られるかという期待と不安を浮かべている少女たち。
式典が執り行われるまでのわずかな時間、クリスも勇気を奮って初対面の少女たちに声をかけていく。
挨拶だけですれ違ってしまう相手、きっかけを得られて少しは会話が弾む相手、反応は様々だ。
その中で何人かは仲良くなれそうな相手を見つけられ、安堵と嬉しさに少女の中で幸せが膨らんでいく。
その幸福感は校庭に整列しての入学式式典、校長先生や来賓の退屈な挨拶の最中でも確かに続いていた。
――それが、まるで。
目覚めに中断された淡い夜の夢のようにそれがたやすく途切れてしまうなど、いったいその場の誰が想像していただろうか。
その日常の単純な幸せの予感は、一陣の荒れ狂う暴風によって一瞬にして吹き飛んだ。
猛き狂う灼熱の炎をまとったその赤い風。
全てを焼き尽くし灰燼に帰させる破壊の嵐。
滅んだはずの旧世紀の過ちは恐ろしき獣の姿をとって、まさに今――少女の頭上にその影を落とそうとしていた。
* * * * *
この世の基盤が根元から叩き折られるような音を立てて、八階建ての雑居ビルが倒壊した。
一瞬にして無数の瓦礫に分解されたコンクリートの建材がクリスの背後に墜落し、轟音と同時に地震以上の激震が少女の足を下から突き上げてその走りを絡め取ろうとする。
地響きに半分足が浮いたと同時に背中を殴りつけてきた音の鉄拳に、前に体がつんのめるのを必死にこらえて、クリスはただただ走った。
「ぁ、ぁ、ぁ、っ……!」
粉砕された原色の看板やうがたれたアスファルトの破片が弾丸のように飛び、そのいくつかに背中を叩かれるが、怯えにすくみきった心には悲鳴を上げる余裕もない。
ビルとビルの間の路地、光も満足に届かず暗く細い隙間を縫うように駆けるその姿は、まるで猫から逃げようとするネズミのそれだった。
「ぁっ…………!!」
もう全速力で十分は走っているだろうか、悲鳴を上げようにもカラカラに乾ききった喉は引きつった息を漏らすだけだ。
今、クリスは人生でそれまでにないほど最も必死に走っていた。
必死に走らなければならない理由があった。
百メートルを11秒台で駆け抜けられる自慢の俊足でも後から迫り来る脅威からは逃れられない。
いや……その脚はいつもの速さを出せていない。懸命にクリスがその腕を引っ張るもう一人の少女の存在が、クリスの思い以上の速度を出させてはくれなかった。
「ぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ!」
クリスが全力でその腕を牽引している少女――まだ名前も聞いていなかった――の脚はほとんど自分で動かせていない。
その腕を放してしまえば逃げ切れる確率が上がるのはわかっていたが、クリスにはそれができなかった。
絶え間なく瓦礫が降って来るビルとビルの谷間で、二人で逃げ切るために命がけの鬼ごっこをひたすらに演じる。
次の瞬間にでも背中に抱きついてこようとする恐怖から、ただの一センチでも距離をとろうと二人の少女は走りに走る。
対して、その二人を追う恐怖の速度に停滞はない。地面の奥深くまで響くかと思える轟音は足音のように一定のリズムを刻み――いや、その轟音はまさしく足音そのものなのだ。
強固なはずの鉄筋コンクリートのビルがまるでウェハースか何かで作られているかのように脆くも崩され、行く手を阻んでいるはずの建物をさほどの障害とも感じさせずにそれは確実に前進してくる。
足の裏と背中で確実に感じる激震の響きに、自分が叩かれる太鼓の中に閉じ込められた錯覚に囚われながら。
少女たちはそれから一刻も早く逃れるために、二人は力の限りを尽くして前に前に足を動かし――。
「も……もぅっ……走れ、走れ、走れないっ……」
腕を引かれる少女のかすれにかすれきったその声にクリスは思わず振り返る。
汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で少女がこちらを見ているのが見えた。
「……な、にをいってるのっ!」
冗談じゃない、とクリスの心が叫ぶ。
無理矢理に唾で湿らせた喉を震わせて、限りを尽くして怒鳴っていた。
「死にたくなかったら……走りなさい! 走れなくても走るの! 死にたくなかったら!」
「でも、もう、脚がっ……!」
「走って!!」
頭の遙か上で窓ガラスが砕け散る音が高く鳴り響いた。
一瞬の間を置いて、ガラスの残酷なほどに鋭利なシャワーが降り注ぎ、その飛沫を受けてクリスと少女の肌に無数の傷が走った。
「あぅっ!」
後方を引きずられていた少女がもんどり打って倒れ、その弾みで手を放してしまったクリスもバランスを失い前に向かって派手に転がる。
ほとんど受け身なしで地面に叩きつけられた衝撃が胸と腹を下から突き抜け、激痛とたまりにたまった疲労が思考を一瞬かき消した。
それでも次には爪を立てるように地面に手をつき、今にも折れて崩れそうになる体を起こそうと全身の筋肉を震わせる。
と、頭の奥に閃いた嫌な予感がクリスを本能的に振り向かせていた。
「はっ……!」
指の一本も動かさず……動かせずに地面に転がり、息をあえがせるだけの少女を目にして血の気が下がる。
「早く……早く起き上がって!」
「も……もう、あたし……」
はっきりと音でその声は聞き取れない。諦めが浮かんだ顔とわずかに震える唇で、そうしゃべったように見えただけだ。
息が上がりきったその顔に浮かぶのはもう数十秒後には訪れる運命に対しての悲しみと諦め、そして……。
「――あたしは、もう……」
その全てを読み取り、全てを理解しながらも、叫ばずにはいられない思いの全てをクリスは吐き出していた。
「立ちなさい!」
精一杯の叱声を飛ばすも、クリス自身がその体を起こすことができない。
「お願いだから、お願いだから立っ――」
その言葉を遮るように、突然に現れた黒い影がクリスの視界を覆い被した。
反射的に上を見上げたクリスの目に、根元から折れた巨大な電波塔の姿が映る。
「っ――!!」
目の前にそれが落ちてくる――脳が認識したそのきっかり一秒後に、地面を波立たせる勢いで鉄塔は地面に叩きつけられるように墜落していた。
「ぁぅっ!!」
直撃を受けていないのに体全部を叩きのめされたような衝撃に包まれて、浮き上がったクリスの体がもう一度地面に叩き伏せられる。
埃という埃が全て舞い上がって伸ばした自分の手も見えない。
音の全てが虚空の向こうに消えるまでの数十秒、体のしびれが遠のいていくまで小指の先も動かすことができなかった。
神経と骨、筋肉と皮膚の全部の中で走っていた残響が消え去り、ようやく脳の命令を筋肉が受領してクリスの指が震えた。
「つ……ぅぅっ……っ……」
全身の痛みと疲れに耐えながら立ち上がったクリスは目をこすり、ようやく晴れかけた埃のスクリーンの先を凝視した。
横倒しになっているにも関わらずその幅がクリスの首の高さにまで届く四角柱の鉄塔が目の前に横たわっている。
地面に倒れていたはずの少女の姿は…………見えない。
何故見えないのか。少女は、確かこの鉄塔が倒れてきたところに――。
「っ……!」
鉄塔に駆け寄ろうとして靴の裏に何か濡れたものを踏んだことに気づき、喉の奥を引きつらせてクリスは後ずさる。
鉄塔と地面の隙間からじわじわと染み出し流れ出してきた赤い液体が、クリスの黒い靴の底を汚していた。
魂を舐めるように広がるその液体の意味を理解して、クリスの背筋を冷たい衝撃が走る。
膝が力を失って崩れ、支えを失った腰がはねるように地面に落ちて、意識もせず自然に視線が上を向いて。
クリスは、自分たちが逃れようとしていたその〈脅威〉の巨大な姿を仰いでいた。
「あ……あ、ああ…………」
それは、空を背景にしてクリスの視界の大半を埋めていた。
少なくとも五階はある雑居ビルが壁のように繋がっているはずのこの街区。
なのに、そいつの頭はそのビルを大きく超えた高さに位置しているのだ。
重々しい弦楽器を思わせる声で空気を震えさせ、それはゆっくりとその顔をクリスの方に向けた。
鋭利な形の目がクリスの姿を狙うように向けられ、笑うように細められたのをはっきりと見てクリスの喉が細い音を上げて引きつる。
鋭利に尖り後方に伸びた二本の角。
燃えさかるマグマを思わせる色に輝く二つの獰猛な目。
沸騰した息を吐き耳の下まで大きく割けた口からのぞく牙は、鉄板をもかみ砕くのではないかというほどの強靱さを想像させる。
暗い赤銅色に輝く重く厚い鱗に、全身が覆われたその姿。
旧世紀の人間ならば――いや、この〈悠暦〉の人間もその姿をこう呼んでいた。
巨竜――ドラゴン。
かつて世界のあちこちにおいて伝承上の魔物として存在し、今、現実のものとして目の前にいる巨獣。
初めて肉眼で目撃するその禍々しき偉容に心臓が縮む感触を覚え、クリスの喉が萎んで瞬間、息が止まった。
ゴァァァァァァ……と低く空気を叩くうなり声。百メートルは離れているのにも関わらず伝わってくるその息の熱さ。
死ぬ、と言葉がクリスの脳を右から左に冷たく貫いた。
その予感――いやその確信は、巨竜の口から何が吐き出されるか実際に見ていたから。
真っ白になった脳裏には俗にいう走馬灯も周りはしない。
時が止まったかのように意識は一瞬を永遠の時間のように捉え、少女の心の全てを恐怖という吹雪に凍り付かせた。
* * * * *
それはほんの十数分前のことのはずだった。
なんの前触れもなく、入学式が執り行われている学校の校庭の一角に舞い降りた〈巨竜〉。
突然に現れた非日常そのものの存在を教師と生徒の全員が理解する前に、蹂躙は始まった。
大混乱に陥った生徒たちは統率のかけらもなく思い思いの方向に逃げ惑い、いくらか冷静さを保っていたクリスもその流れにあらがうことができず学校の外に押し出されていた。
人間に憎しみをぶつけるように手足が届く全てのものをその爪で切り裂き、踏み潰し、破壊そのものにとなって巨竜は街の中心部に向かって前進を始める。
少し言葉を交わしただけでまだ自己紹介も満足に終わっていない同級生の手を必死に引き、迫り来る死から逃れるためにクリスは走った。
その挙げ句がこの様だった。
共に生き延びようとしていたはずの少女を目の前で死なせ、今また自らもすぐにその後を追わされようとしている。
半時もしないわずかな時間に展開したこの信じたくない事態に、絶望より拒絶感が少女の心の中で荒れ狂った。
目の前で怯えている小さく哀れな獲物に興味を示したのか、巨竜は歩みを止めてほぼ目と鼻の先で震えている少女を見下ろしている。
これから木の葉のように舞うであろうその姿を想像したのか、わずかに動いた口の開閉がまるで笑ったかのようにクリスには見えた。
「……あ、あ、あ…………」
少女の頭の中から言葉の全てが消え失せて、純粋な恐怖だけが指の先の先までに張り詰める。
そして――次には巨竜の口が顎一杯に開き、その喉元の奥にプラズマの光が揺れるように瞬いた。