#07「クリスとフェイリスの"再会"」
望の姿を求めて、クリスは学校の中を文字通り彷徨っていた。
人気が全てなくなった校舎をそれこそ隅から隅まで探したが、望の姿は見つからなかった。
開けられる扉やドアは全部調べた。それこそトイレの個室は全部――抵抗はかなりあったが万が一のことを考えて男子トイレもだ――調べたが、人間どころか猫の子一匹見つからない始末だった。
もしかしたら、本当は望がシェルターに逃げ込んでいたのを、自分たちは見つけられなかったのか?
それとも、自分とはすれ違いで、遅れて逃げ込んできた望はもうシェルターに入っているのではないか?
「あと、探していないのは……裏庭だけか」
そこをのぞいたら、いったんシェルターに戻ろう。
「シルヴィーに叱られるだろうなぁ……」
自分ほどではないかも知れないが、そこそこは気の強そうなシルヴィーの顔を思い浮かべると、思わず苦笑が浮かんでしまう。
班長としての自覚はあるのかとなじられるに違いない。いや、マリー先生にもお叱りの言葉を食らうことだろう。
それは……仕方がない、自分が悪いのだ。その時は頭を下げて謝るしかない。
「それだけのことは……しちゃってるからね」
校舎を抜け、裏庭に出る。動線の関係上あまり人の立ち入りが少ない場所であるというのはわかった。
が、一面に整備された花壇はちゃんと手入れが行き届いていて、色とりどりの花が春に相応しいそれぞれの鮮やかさに萌えていた。
これを世話していた人はきっと花が好きだったんだろうなと、緊張の中でほっと心が緩んでしまう。
いや……花に見とれるのは後でもできる。
今は一刻も早く望を見つけて、安全なところに避難させないと……。
「いないなぁ……」
最後に可能性を残した場所にも望を見つけることができず、クリスは落胆した。
もう一度校舎を洗いざらい探し直すか? それとも一度シェルターに戻って確認した方がいいだろうか。
いや、シェルターに戻れば今度は出してもらえないかも知れない。避難場所のシェルターを出たり入ったりする生徒を教師も認めないだろう。
しかし、一度シェルターを確かめないことには延々と無駄な捜索を続けてしまう可能性もあり……。
「あーっ! もうっ!」
思考の袋小路にはまり込んでクリスは吠えた。
「これもみんな望が悪いんだから! もう知らないっ!」
学校の敷地の中、大声で喚く。
いつもはなかなかできないそんな蛮行を実際にやってみると、ほんの少しではあるがいくらか気分がスッとした。
執着、と他人に指摘されれば否定することも難しいレベルにあることは客観的な自覚はある。たまたま隣の席だったから、同じ班だから、という言い訳では自分も納得させられない。
自分自身でわかっていないことを、どうして他人に説明できるのか?
「なんでなんだろうなぁ……」
二つの意味で途方にくれ、また特大のため息をついてクリスは花壇の傍らに腰を落とした。
物音一つしない学校。夜でもなければ休みでもないのに、誰も彼もが消えてしまったかのような静寂があたりを包んでいる。
花壇の花々に包まれながらクリスは時間を忘れて座り――そんな奇妙な空間と化した学校の校舎を見上げていた。
プァァァァ……と間の抜けたサイレンが遠くから響いてくる。
「なに……?」
それを耳にしたクリスの視線が上を向いた。
天上に輝く〈赤い月〉の毒々しいダーククリムゾンの色が、よく晴れた青い空の真ん中で染みている。今日は〈青い月〉は見えない。だから電波の通りもいつもよりはいくらかいいのだが。
サイレンの音が次第に近づいてくる。街のそこかしこに設置されているサイレンが順に鳴っているのだろうが、まるでこの学校を目指すようにしているようだ。
それはまるで――姿の見えない何かの足音のように聞こえてくる。
「なんのサイレンなの、これ?」
その正体を探そうとしたクリスの前にそれは、自らその姿を明らかにしていてた。
五十メートルほど先で突如、学校と外を分け隔てている強化コンクリート製のブロック塀が突き破られ、真っ白な粉塵の霧が立ち上る。
「っ!!」
白い粉塵の中から現れた巨大な影を見て、クリスの心が芯から震え上がった。
それは人間のような――いや、人間のように見えたのは上の三分の一くらいのもので、そこから下は完全に怪物と形容するべきその姿。
「な……に、こいつ……!」
長さ三メートル、幅一メートル半はある蜘蛛の胴体から八本の脚が伸び、その蜘蛛の胴体から上にはカマキリ女とも形容するべき異様の怪物が腰から上を接続している。
クトゥルフ、という情報の中の単純な記号。それが実際に目の前に現れ、目撃した禍々しい姿にクリスの心が凍り付く。
腕は、節足動物そのままの印象しかない硬い殻に包まれたカマキリの鎌、しかし腹から上は人間の裸の女としか思えない姿をし、頭部の赤く光る複眼とこめかみから伸びた触角以外はクリスの体とほぼ大差はない。
人間に近い姿、というインパクトがもたらす視覚的なショックに、クリスは火龍を間近で見たのに匹敵するくらいの衝撃を味わっていた。人の言葉で話しかけてこないのが不思議なくらいだった。
八本の脚が地面に突き刺さり、花壇の花を蹴散らして囲いになっていたレンガのブロックを突き崩しながら、その巨体がゆっくりとクリスに接近してくる。
歩く度に上へ下へと揺れる鎌の鋭さに、それをひとたび振るえばどれだけのものを両断できるのかと恐怖が湧く――この怪物は、おそらく自分を獲物と定めたに違いない。
「……!」
クリスが後ずさる。背中を向けて一目散に逃げたかったが、背中を向けた途端に一気に追いすがられる予感があった。ただ視線だけで牽制しながら下がり――右手はスカートの裾をめくって太もものあたりをまさぐっている。
が、緊張に手が震えているのか、簡単に取れるはずのそれが取れない。それを反射的に抜く訓練はそれなりに積んでいたはずなのに、乱雑にものを突っ込んだポケットをまさぐるような無様な格好になっている。
早く――早く抜かなければと思うほど焦り、指が滑る。
「なんでこんな簡単なことが……!」
できないのと心が喚く前に、クトゥルフが動いた。
目の前の獲物に抵抗する手段がないと判断したのか、一気に距離を詰めようと加速がかかった。
クリスの十数倍の体重は優にあるだろうその巨体が一面、二面の花壇をあっという間に踏み荒らし、蹴散らして猛然とクリスに迫った。
クリスの心が体を逃がそうとするが、怯えきった体が動かない――どうしてこんな巨体なのに、こいつはこんなに速く走ることができるのか!
首を一撃で薙ぎ払うことに決めたのか、〈ヒト―蟷螂―蜘蛛複合体〉がその鎌を水平に構えた。一撃で鉄柱くらいは切断しそうな鎌に見えた。人の首などはたやすいものだろう。
盾にするべきものもなにもなく、クリスに逃げ場はなかった。
もはや眼前、腕が届く間合いに怪物が立ちはだかり、右腕の鎌が大きく振りかぶられる。必要以上のそのモーションの大きさがそれが遊びでしかないことを物語っている。
命を刈り取るという至福に、この魔物は酔っている!
「――――!!」
獲物を狩る瞬間の喜びに満ちあふれた女の笑いが、あまりにエロティックかつグロテスクなのを、死の寸前においてもクリスの目は見ていた。
「たっ――――」
助けて――と心が叫ぶ前に、それは来た。
やって来た。
風と音を従えるようにして、来た。
『クリス――――っ!!』
耳に突き刺さってきた声に、クリスの体よりも先に心が向いていた。
またも、ブロック塀の一面が大きな破片を大量にまき散らしながら突き破られた。
その破片の嵐の中から飛び出したのは、地を走る矢となって駆ける大型装甲バイク――スレイプニール!
「このぉ――――ッ!!」
地を這う白い砲弾と化したスレイプニールから、一人のフェイリスが身を投げるようにして飛び出した。背中から七色の輝きを放つオーロラの奔流を噴き出し、音速を超えるかという勢いでクリスに抱きつく。
「あうっ!?」
抱きつかれた衝撃は骨身に響いたが、横薙ぎに振られた鎌はクリスの髪を掠めるに留まった。
クリスとフェイリスの体が一緒になって地面スレスレを這う。
スペクトルスラスターが斥力のフィールドを逆方向に展開すると、それが制動となって二人がすっ飛ぶ速度を殺した。
「あっ、うっ!」
フェイリスから先に地面に接触し、彼女をクッションにするようにしてクリスも地面に設置していた。やわらかい土の地面だったことが幸いだった、擦り傷すら負わず、服を泥で汚すくらいですんでいたからだ。
抱きつかれ、地面に転がり落ちた衝撃が頭を通り過ぎて――クリスは、見ていた。
自分にしがみつくようにしているそのフェイリスを。
そのフェイリスが自分の記憶の中、あの日の光景にある存在そのままであることを。
「あなた……!」
確信があった。
今、自分の目の前にいるのは、火龍から自分を救ってくれたあのフェイリスだった。
昨日、中央市民公園での慰霊式で見たフェイリスなどでは、絶対にない――そういい切れる。
同じ色、同じシルエットのバージンシェルという見分けがつけようのない条件でも、クリスにはわかった。
この子に違いない。間違いはない、あり得ない。
『スレイプニール! この子をお願い!』
フェイリスの電子的にスクランブルされた声が響いた。無人で走り込んできたスレイプニールが変形する。
前輪と後輪を支えていたブロックが立ち上がり、座席後方で後に折られていたブロックがこれは前に向かって折れることで展開した。
ものの二秒で、大型バイクが首のない巨人のシルエットに変貌――変形する。腕の先端のカバーがスライドしてこれも巨大な五本の指を持つ金属の手が現れる。
「ひゃぁっ!」
クリスが歪な人型になってスレイプニールの両腕に抱えられた。
スレイプニールの両足の先端のタイヤが急回転し、固く大きな手と腕に、背と膝を支えられるようにして抱かれたクリスを抱えたまま機体は戦場となった裏庭から高速で遠ざかる。
「これじゃまるでお姫様だっこじゃない!」
そんなどうでもいいことに心が反応してしまう。女の子である限りクリスにもそうやって抱えられる願望が皆無だったわけでもなく、最初にそれをされた相手がロボットだということに皮肉ともなんとも形容できない感情が湧く。
同時に、心の中で訂正がされていた。これが初めてじゃない。
「あ……初めては、あの子だったっけ……」
火龍に踏み潰される寸前の自分を助けてくれたあのフェイリスも同じように自分を抱えていたはずだ。
「……どのみち、初めては男の子じゃないわけかぁ……」
そんなくだらないことを考えていられるのも助かったがための余裕だろう。膝から下は動かさず両足のタイヤだけで走行するスレイプニールに抱かれながらクリスはそう思う。
「――下ろして、下ろしてってば! 私のいうことを聞いてくれないの!?」
腕の中でクリスが手足をばたつかせた。それに負けたように、戦場からは一応陰になる校舎の端にまで移動してスレイプニールはクリスを下ろした。
意外に丁重な下ろされ方をされて、クリスは人にすら見えないそれに思わず「ありがとう」といってしまっていた。
スレイプニールという概念はクリスも知っている。テレビや雑誌などのメディアでフェイリスを紹介する時は、たいていがセットになって披露されるのが通例だからだ。
もちろん、スタンディングモードという形態があることも知っている――それはもはや常識のレベルであったかも知れない。
「あなた、あの子のスレイプニールなんでしょ? 私はいいから、あの子を助けてあげて!」
クリスの指示にスレイプニールは動かない。そもそも命令を聞くようにされていないのかも知れない。ただ無反応であるということが全てだった。
動かない機械にそれ以上文句をつけることを諦め、クリスは物陰から裏庭の方に視線を向けた。
視線の先で、フェイリスとクトゥルフが間合いを保ちながら対峙していた。
下手な仕掛けが望まない方向に均衡を崩すのを警戒しているのか、一人と一体の相対は膠着して動かない。
が、それも無限に続くはずはなかった。
時が満ちるのを感じたように、フェイリスがダッシュをかけた。一歩が地面を蹴る度にえぐられた大量の土砂が舞う。数十メートルの間合いをまるで数ステップで駆けるような勢いで瞬く間に間合いを詰める。
クトゥルフは――逃げない。逃げれば背中を砕かれるだけだという確信があるのか、その場にどっかりと座るように動かない。
「カハァッ!」
わずかに反らした上体を前に振るようにして、クトゥルフが糸を吐いた。
今度は帯状に伸びるそれではない。吐き出した瞬間に八方に広がる――まさしく蜘蛛の巣!
フェイリスもまた、それに対して逃げなかった。
ダッシュの勢いをわずかたりとも殺さず、いや、むしろ加速して巣の中心――クトゥルフの上半身に向かって跳んだ。
「あ…………」
クリスは見ていた。電子の鎧を着た少女が宙を駆けるのを。
飛び上がった少女の装甲に包まれた右の脚が限界にまで伸ばされ、蜘蛛の巣の中心を捉える。
食虫植物の花弁が獲物を捕らえるように広がった糸の巣が、フェイリスに絡みつく――が、空を走る白い矢となったフェイリスを止めるなどは到底不可能だった。
フェイリスが繰り出した渾身のキックが、クトゥルフの苦し紛れの抵抗を打ち砕く。
巣の壁などいう小賢しいものを真っ正面から貫いて、フェイリスの戦意が怪物の胸にキックとなって炸裂した。
「グゥ、ルルゥゥッッ!!」
胸の真ん中に突き刺さったその一撃は怪物の巨体を圧壊した。
鋼鉄より固いはずの外骨格と内部の骨格が砕かれ、巨大な機械が圧倒的な力にへし折られる音を響かせながら有機の生体組織が破裂して散った。
一トン近くあるはずの巨体が弾き飛ばされたように吹き飛んで残ったブロック塀に激突、それを易々と粉砕して更に数十メートルを飛んで、地面に叩きつけられる。
原型をかろうじて保っているものの、生存に必要な臓器を一撃で砕かれたその怪物は死骸と化し、転がる以外にもう何もできなかった。
『はぁっ……!』
着地したフェイリスの息づかいが、スクランブルされた音声として外に漏れる。歪な体がさらに歪に変形した残骸の様子を確認して、そのフェイリスは構えを解いて直立した。
その緊張の解けた様子からクリスには、戦いはこれで全て終わったのだと思えた。
「――あなた!」
声をかけて駆け寄る。バージンシェルの全身、ヘルメットからこぼれている赤い髪も怪物の糸に絡め取られて汚されたフェイリスが振り向いた。
望んでいた再会だった。八日前に火龍に助けられてから、毎夜毎夜明日は会えるかなと淡い期待を抱いて過ごしてきたのだ。
喜びに満ちた感動の再会――になると思っていたクリスの期待は、あっさりと裏切られていた
『どうしてこんなところにいるのよ!』
「えっ……」
想像もしていなかった強い口調、怒声。
そのスクランブルで変成された声はあの日のものそのままで、目の前のバージンシェルを着た少女がまさしく再会を望んでいた本人だということを確信させてくれたが、それに喜びを抱こうとしたクリスを容赦のない叱声が叩く。
『なんで外に出ていたりするの……避難していたはずだったでしょう!?』
次の強い調子の声に、クリスの顎が浮いた。
こちらに正対してまっすぐに見つめてくるフェイリスの目――色の濃いゴーグルアイの向こうで見えないはずのそれが吊り上がっているだろうことがわかる。
当然の叱責だ、とクリスは思う。結局、戦闘の邪魔になるようなことしか自分はしていないのだ。
命を賭けて戦っている側からすれば、心底腹立たしいのは当然だろう。
「……ごめんなさい。友達を探していたの」
『友達?』
「私の友達。望っていう名前の」
目の前のフェイリスから怒りの熱のようなものが消えた……ように思えた。破裂しかけていた風船が突然萎んでしまったようなあっけなさがあった。
「あなた、知らない? 外で見たりしなかった? 赤い眼鏡をかけた女の子なの」
『…………』
不自然な間をやや残し、無言で首が、ヘルメットが横に振られる。
「そっか……」
落胆――というよりはむしろ安堵だったかも知れない。敷地の外で遺体となって見つかるなどということはなかっのだから。
「私より先にシェルターに避難したはずなのにそこにいなくて、私、心配になって……どこかで迷子になってたりしないかとか、怪我をして動けなくなったりしていないかとか、そう思うといても立ってもいられなくなって、それで探しに出ちゃったんだ。……でも、こんなの言い訳にもならないよね。本当にごめんなさい」
『……少なくともクトゥルフは、この学校で誰も傷つけていないと思う』
「それならいいんだけど……この辺りはもう安全なの?」
『……あたしが今倒したのが最後だから』
「じゃあ、取りあえずは安全になったんだ」
『……でも、どうしてそんな危ないことするの』
言葉を絞り出すような気配があった。
『あの火龍の時は仕方ないけど、今回はわざわざ自分から危険な場所に出てきたりして……』
「だって、私の大事な友達だから」
フェイリスがまっすぐクリスを見つめてきた。ヘルメットに全て隠されたその表情はわからず、何を考えているかという想像もつかない。
『友達……?』
それは未知の不思議な概念を聞かされたような声だった。
「そう、私の大事な友達だから、放っておけなかったんだ」
『……の!』
「え?」
『……放っておけばいいの! そんな子なんて!』
声に怒りが乗っていた。
それを真正面に受けてクリスは息を飲む。
『それであなたがここで殺されそうになって! あたしが来なかったら殺されてて! その望って子が自分のためにあなたが死んだりなんかしたらどう思うか、ちゃんと考えて!!』
「――――」
その怒りの熱量の大きさにクリスは瞬時、言葉を失った。フェイリスの握りしめられた手が、その肩が震えているのがわかる。
『……お願いだから、もう二度とこんな馬鹿なことしないって約束して。自分の命を守ることだけを考えてよ……』
「わかったわ。約束する。約束するけれど――」
『……けれど?』
「今日と同じことになったらきっと約束を破っちゃうと思う。その時はまた……ごめんなさいかな、あはは……」
『ばかぁっ!!』
そう言い捨ててフェイリスがクリスに背を向けた。
いつの間にかバイク形態〈ライドモード〉に変形していたスレイプニールが低速の自動走行で走り寄ってきて、フェイリスの側にまるで犬のように寄り添う。
そのスレイプニールの背にまたがりアクセルをつかんだフェイリスに、クリスは追いすがるように声をかけていた。
「待って! もう……もう行かなきゃいけないの?」
『……忙しいの』
「そうだね、大変だよね……フェイリスって。危ない目に遭いながら戦わないといけないんだから」
『…………』
そのフェイリスはもう顔も向けてくれない。拒絶の態度にしか見えない……とクリスは思ったが、次の瞬間には自分の感触に疑問を持っていた。
無視してそのまま行けばいいのに、結局彼女は自分の相手をしてくれている。
それをどう合理的に解釈すればいいのか、今のクリスには答えを見いだせなかった。
『……多分、その望っていう子は大丈夫だと思う』
「そう……そうかな」
なんの根拠もない気休めの言葉。しかし、それはクリスの心に不思議なほど深く染み入った。
このフェイリスの少女がいうのならばそうなのだろう、と思わせる力があった。
『安心していいと思うよ。……じゃあ』
「またね!」
音もなく加速を始めたスレイプニールは破壊された花壇をそれでも巧妙に避けて、学校の敷地から走り去って行った。
「また会いましょうね!」
聞こえるかどうか怪しい距離のフェイリスに向かって、クリスは手を振りながら大声を張り上げた。
さっきまでの混乱が嘘のように裏庭は音も絶え、今度こそ本当の静寂を迎える。
命を奪われそうになったこと、それをまたもあのフェイリスに助けられたこと、そして話せたこと――頭の芯がしびれ続けるには十分な出来事が並んで続いた。
その余韻に浸るだけで思考も体も動かず、そこに立ち尽くすしかできなかったクリスの心の底で、ふとした疑問が閃いた。
「あれ……?」
確か、あのフェイリスがここに突入してくる時、聞こえた声。
確か、それは……。
「私……あの子に名前、教えたっけ……?」
クリス、とあのフェイリスは自分を呼んでいた。前に助けられた時、自分は名乗っただろうか?
記憶は曖昧でよくわからない。
いや、彼女が自分の名前を知っているということは、教えたということに他ならないはずなのだが……。
そしてもう一つ、クリスには気づいたことがあった。
「あ……また名前聞くの、忘れた……!」




