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少女が愛した千の恋と万の嘘 -電装騎士フェイリス-  作者: 更科悠乃
第2話「クラスメートと秘密基地」
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#06「フェイリスの本質――またも新たなる危機」

 空にオーロラの航跡を刻みながら(のぞみ )は低層住宅の屋根を掠める高度を飛んだ。


 前方を高速で逃走する〈ヒト―蟷螂(カマキリ)―蜘蛛複合体〉を捕捉しようとするが、クトゥルフたちは巨体に見合わない俊敏さを見せて建物の隙間隙間に巧妙に入り込む。


 バックパックの推進器――スペクトルスラスターの推進力で空を駆ける望は、クトゥルフが物陰に入り込む度にその姿を見失ってしまうのに苛立った。


 程なくすればどこからかは出てくるのだが、どこから出てくるのかはわからない。しかもそんな相手が四体なのだ。


「くっ……空からじゃあ……!」


 目標を追い、見失い、見つけ、追い、見失う――そんなことを数回繰り返しているうちに、望は目の前に巨大な建造物の一群があるのを視認する。


「マンション?」


 二十階建てのマンションがいくつも棟を並べる大型マンション群。


 四体のクトゥルフたちは最初からそこを目指していたように敷地の中に入り込み、建物の陰に回って姿を消した。


 望にそれを追わないという選択肢はない。


「クレイ! 前方のおっきなマンションにクトゥルフが入っていった! あたしも追うから!」

『……ああ、十分注意してな』


 そのクレイの言葉のイントネーションに違和感を覚えて望は微かに疑義を抱くが、そんな些細を気にしていられる状況でもない。


 クトゥルフたちが侵入していった進路をほぼそのままトレースしようと――したが考えを切り替えた。


「反対側に回るわ!」


 クトゥルフたちがマンションを素通りする可能性を考え、望はクトゥルフたちが入っていった方角とは反対の方角から進入しようとコースを変えた。スラスターの出力を上げて一瞬の加速を行い、後はそのまま惰性で降下した。


「この建物の裏手かな……」


 待ち伏せを警戒し、望は建物の脇ぴったりにつくように着地した。そのまま壁を盾にするようにして首を伸ばし、クトゥルフが姿を消した方向を見やる。


 マンションとマンションがそれぞれ壁を作るように建ち並ぶエリア。その間には人工の森を作ろうとしたのか、高さが五十メートルを優に超えようという巨木が、そこでは珍しくもない本数が乱立するようにして植わっている。


 まるで、マンションの間を緑で埋め尽くそうとでもしたような空間だった。


 管理がなされていた時期はそれなりに整備もされていたのだろうが、放置された森は木々が思い思いに枝葉を伸ばしきり、陽の光は遮られじとっと空気が湿るような陰鬱な雰囲気を作り上げている。


 とうの昔に放棄され、荒れるに任せた建物にはもちろん人の気配など全くない。暴れるには絶好の場所ともいえた。


「……いた」


 その巨木の太い枝に乗って、一体のクトゥルフがこちらに背を向けていた。望が馬鹿正直に追ってくるのを待ち伏せしようとしていたのだろう。完全に注意が逆の方に向いているのに、望は思わず含み笑いを零した。


 目標の高さは……七十、いや八十メートルほどだろうか? かなりの重量のはずの巨体が木の幹や枝に何本もの脚を絡め、器用に体重を分散して待っている。


 他の三体は……どこにいるかはわからない。


 が、今は一体でも数を減らしておくべきだろう。見つけた目標が間抜けな背中をさらしているうちに倒しておくべきだと判断する。


 あいつが後方からの奇襲の可能性に気づかない、今が絶好のチャンスなのだ。


「飛んで突撃して――背中を叩けば、いける!」


 望の足が力強く大地を蹴った。銃口から飛び出す弾丸の勢いで電子甲冑の少女が空に打ち上がる。目標との距離が一気に縮まる。


 コースは直撃、体当たりでもキックでも体がぶつかりさえすれば、致命傷は間違いな――。


「っ!?」


 あらぬ方向を向いていたはずのクトゥルフが、こちらを向いたのが見えた。その顔には怯えの表情などない――いや、むしろ笑っている。


 やっと来たかと嘲笑うように!


「あうっ!?」


 衝撃が望の体の全部を襲った。


 いや、それは期待していた衝撃――クトゥルフに体をぶつけての衝撃ではない。


 目標の遙か数十メートル手前、見えない何かにぶつかったように望の体は停止していたのだ。


「なに……これ……!!」



 自分の体を受け止めたものの正体は、次の瞬間には知れていた。


「糸……!!」


 バージンシェルの装甲一面に絡みついたそれに、望は絶句した。


 マンションとマンションの間にまさしく巨大な蜘蛛の巣が張られ、望はそのほぼ中心に自分から突っ込んでいた。


 ご丁寧にそれは陽の光を反射しない黒い糸だ。自分で突っ込むまでその存在に気づきもしなかったことに望は二の句が継げない。


 一刻も早く離れなければ――巣から体を剥がそうとした次には、左右から猛然と迫り来る気配に望は囲まれていた。


「っ!」


 命綱のように伸ばした糸に自分を振り回させるようにして、三体のクトゥルフが弧を描いて宙を飛んでいた。


 マンションの屋上を繋ぐように糸を渡してあるのだろうか、羽を広げていないのにも関わらずその軌道はまるで自ら飛んでいるようにしか見えない。


 望が体に絡んだ糸を引き剥がすよりも先に、高速で望の周りを旋回するクトゥルフたちが望の体に新しい糸を巻き付けていく。


「なっ……こっ、こいつらっ……!」


 鋼鉄のワイヤーなどよりも遙かに強度のある糸に体を絡められ、望の体が張られた巣に縛り付けられるようにその拘束を重ねられていった。


「ぐぅ……くぅ……!」


 望という惑星を公転する衛星か何かのように、しかし空を切り裂くかというほどの高速で宙を周回するクトゥルフたち。四回、五回、六回――それが三体分だ。


 腕を、脚を、胴体を何重もの糸で縛り上げられ、望はその体を固定されていた。動かせるのは首と指くらいのものだ。


 身をよじろうが何をしようがその拘束から逃れられないことに、望の心が鉛の重さに変わる。


「クレイ! クトゥルフに空中で縛り付けられて動けなくなった!」


 悲鳴に近い叫びが望の口から吐かれる。……が、すぐに返答はない。


「――クレイ! クレイ!?」

『望』


 耳元から聞こえてきたクレイの声の落ち着きようが望をうろたえさせた。驚きの気配もなにもない。ただ落ち着くところに落ち着いたかという諦めの色さえあった。


「どうすればいいの! クレイ、教えてよ!」

『それは自分で考えるんだ』


 一瞬、望は自分の耳を本気で疑った。この状況であり得ない言葉だと思った。


「こんなピンチになってるのに!?」

『こんなピンチになってるからだ!』


 鎌の斬撃はない。望を斬ることで拘束を解かれることを避けているのか。


 斬撃の代わりに加えられたのは、無限に続くかのような打撃の応酬だった。


 望の体を縛り付けるには十分と判断したクトゥルフたちが周回の軌道を変える。


 勢いをつけ糸の先端に結ばれた自分に高速度を乗せ、望の体にその巨体をぶつけてきたのだ。


「っぐぅっ!?」


 真正面からすさまじい運動エネルギーで激突してきたクトゥルフの体当たりに、望の体の全部が軋んだ。


 トランポリンに縛りつけられ、百メートルは先の上から直接落下した来たのを巨体を体の全部で受け止めるくらいの威力はあった。


 外宇宙金属アルケミウム鋼で構成されたバージンシェルは、それに十分な電力が供給されている限りその強烈な打撃にも変形することはなかったが、衝撃は殺せず望の体に伝わっている。


 フェイリスの頑強な体でも基本的には有機体だ。すさまじい衝撃はそのまま痛みに変換されて望の体の芯に突き刺さった。


 その痛みが払われる前に、絶妙のタイミングで二体目の体当たりが望を同じように打ち据える。


「ぐぅぅっ!!」


 たっぷりと体重と速度が乗ったタックルが望の胸と腹に突き刺さる。望自体が緩衝材の代わりになってつぶれ――ることもできず、体の中で死なずに暴れ回る衝撃に意識が飛びかけた。


 マスクの中で口が開くが、唾の一滴も出すことができない。


 次の第三撃目は五秒と間を置かずに加えられてきた。


「づぅっ!?」


 続いて四撃目、その次は一撃目を加えてきたクトゥルフの第五撃目――一撃で即死させられなくとも、一方的に攻撃し続けることでいつかは潰せるだろうという思惑の攻撃にさらされて望は打撃の嵐の中で感覚を遠のかせる。


 完璧な連携を取って望に間断のない打撃を加え続けるクトゥルフの群れ。処刑の執行のように逃れることのできない荷重。


 その地獄と同じくらい――いや、それ以上に望を絶望させたのは、手を差し伸べることさえしないとしか思えないクレイの突き放した態度だ。


 痛みより悲しみが望のまぶたを濡らす。全ての出口が閉ざされた暗黒の世界に取り残されたような寂しさだけが胸の全部を重くする。


「なんでよ……クレイ、助けてよ! 助けてってばぁ! どうして助けてくれないの!!」

『――望、よく考えろ。思い出せ』


 クレイの冷静な――いや、冷静さをかろうじて保っているようなその声。


『お前がいったいなんなのかを。お前の本質を思い出すんだ』

「あたしの……本質?」


 一方的に嬲られ続けるすさまじいタックルの猛攻もどこか他人事のように遠くなった中で、望はその言葉を意識の奥で反芻する。


 本質……フェイリスの本質。


 そんなものは教えてもらっただろうか? そんな覚えはない。いや……そもそも自分はまだほとんど何も教えてもらっていないのだ。


 そんな自分に、フェイリスの本質などわかろうはずがない。


 このまま自分は殺されるのだ。思えば……今日学校に来たばかりではないか。まだ午前も終わっていない。何もかも始まったばかりなのに。


 それなのに、死ぬ?


「…………」


 望が動かなくなっても、その執拗な攻撃をやめようとはしないクトゥルフの笑い声が聞こえるようだった。


 いたぶっていたぶっていたぶり尽くして――そして自分を解体するつもりなのだろう。


 学校の地下に作られた基地から出撃する時……こんな展開など想像もしていなかった。たかだか三メートル級のクトゥルフなど楽勝だと完全に侮っていた。その結果がこのザマだ。


 クレイが助けようとしてくれないのも、自分のマヌケさに愛想が尽きたからかも知れない。


 入学したその日に死ぬようなフェイリスに当たってしまって、クレイもきっと恥を掻くのだろう。素直に申し訳ないと思う。


 相手が複数でなければこんなことにはならなかったはずだ。何体もいるということを軽く考えすぎていた。ほとんど撫でるだけで勝てるとさえ思っていたのだ。


 相手が複数ならば、せめて、こちらも自分の他に誰かいれば。


「誰か……いれば……」


 フェイリスである自分の他に、誰か。


 フェイリスである、自分の他に。


 フェイリスである、自分――。


『――思い出せ、望っ!!』


 カッ、と望の目が見開いた。


 虚ろさを完全に吹き飛ばし、確かな光がその瞳に宿る。


 痛みをこらえるために噛みしめられていた口が、大きく開かれた。


「――クレイ! スレイプニールを!!」


 神に祈るような格好で組んだ拳を額に当ててうつむいていたクレイが、弾かれたように顔を上げる。


 蹴破るようにしてドアを開けた指揮車から飛び出し、近くに誘導してあったスレイプニールのハンドルにクレイはかじりついていた。


「そうだ――そうだぞ、望!」

「あ――ちょっと待って!」


 ミッチェルが止める間もなく、クレイにハンドルのアクセルを回されたスレイプニールは大量に削ったアスファルトを周囲にまき散らして急発進する。


「クレイちゃん!」


 二秒でトップスピードに乗ったスレイプニールの上で、ハンドルにしがみついたクレイの体が宙に浮いていた。


 高速度の大型バイクが風を切る音と男の悲鳴がこだまとなって残り、瞬きした時にはその姿は既に消え去っていた。


 それでも一人と一台が風のように走り去った後を眺めずにはいられず、ミッチェルは肺の空気が全部抜けるようなため息をついてから頭を掻いた。


「あれは普通の人間が乗るように調整していないんだけどなぁ…………まぁ、オレのせいじゃないか」



「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!!」


 そのハンドルを握る手を唯一の命綱にし、時速四百キロメートルで疾走するスレイプニールの座席の上で――いや、ちゃんと座れてはいなかったが――クレイは絶叫していた。


 望にスレイプニールを届けんがためにそのアクセルを回したのだが、回した次の瞬間にはやめておけばよかったと心から後悔していた。


 それと同時に、何も自分がハンドルを握る必要はなかったのだということに気がついて二重に後悔した。


 だが、スピードを緩めることも手を放すこともできない。それが現実というものだった。


「ぃぃぃぃぃぃっ!!」


 交差点を全くの減速なしに直角に曲がる。遠心力でクレイの体が外に振り飛ばされそうになる――のを支えているのは、腕に込められた火事場の馬鹿力以外にない。


 機体の前方に張られた|見えない盾《インヴィジブルシールド 》がかろうじてクレイを風圧から守ってくれている。


 これが展開されていなければ、加速の瞬間に空気抵抗が頭を直撃してクレイの首は確実に折れていただろう。


 絶えず送信されてくる望の位置信号をたどってスレイプニールは激走し、発進から三十秒と経たず巨大マンションのエリアに侵入する。


 蜘蛛の巣の中央で〈ヒト―蟷螂(カマキリ)―蜘蛛複合体〉の猛攻を受けている望めがけて、スレイプニールは機体内に残った最後のエネルギーを絞り出して飛んだ。


 スペクトルスラスターから七色に光る輝きの破片を帯のように引いて舞い上がったマシンと、そのマシンに颯爽とまたがった――望の目にはそう見えた――クレイの姿。


 その姿を視認した瞬間に、望の涙は払われた。


「――クレイっ!!」

「望っ……!」


 望の体にぶつかろうとしていたクトゥルフの一体にスレイプニールの前輪が激突、その巨体を跳ね飛ばしてマンションの外壁に頭から突っ込ませる。


 マシンはその突進の勢いを殺さないまま望のすぐ脇、厚く張られている蜘蛛の巣に突っ込んで、濡れた薄紙を破るようにそれをぶち破っていた。


 望の体を縛り上げていた糸も同時に断ち切られ、望の右半身が解放される。


「っ!」


 望の自由を取り戻した右手がまっすぐに伸ばされ、その指の全部に力が込められた。


 青白いエネルギーフィールドに包まれた手刀が嵐のように振るわれ、鋼鉄のワイヤーの数倍をほこる強度の糸を次々に断ち切っていた。


「クルゥゥ!!」


 奇妙な声を発してクトゥルフの一体が口から糸を吐く。それを目撃できていた望の体に戦慄が走った。クトゥルフが狙っているのは自分じゃない――地面に着地したばかりのクレイだ!

 


「くぅっ……!」


 状況を確認しようと振り返ったクレイが見たのは、まるで光線か何かのように自分に伸びてくる白い帯だ。喉元に突き刺さるようにして伸びてくるそれは――躱せない!


「クレイ――っ!」


 間に合いようがない、その事実に望が絶叫する。クレイの喉元に刃に等しい帯が突き刺さる光景が脳裏をよぎったのに悲鳴が溢れた。


 ――が、クレイに死は訪れなかった。


「うわあっ!」


 立ち上がった( ●●●●●●)スレイプニールから転げ落ちた五体満足のクレイが地面に転がる。


「…………!」


 糸を吐いたクトゥルフの目が驚きに剥かれていた。人間の男の首を捉えてへし折った――その確信があったのに、吐かれた白い帯は一体の巨人の手によってつかまれていたからだ。


 それは首のない巨人だった。


 巨大なタイヤを( すね)脹ら脛(ふくらはぎ )に露出させた二本の脚で直立し、これも巨大な腕に広い手を広げたそのいびつな人型。


 胸は紛れもないスレイプニールの正面装甲の形を見せていて、それがスレイプニールが変形した姿であるということを無言で語っていた。


 自分を守るように怪物に対して立ちはだかってくれているその異形の姿に、クレイは思わず声を漏らし、同時にこの時こそミッチェルの仕事に対して本当に感謝した。


「オ……オートで変形してくれたのか……」


 スレイプニールの別形態〈スタンディングモード〉。フェイリスに従って戦う巨人の従者。それは人機一体のもう一つの形だった。


「望!」

「うんっ!」


 クレイの声に全てを理解して、望は飛んだ。スレイプニールに向かって一直線に飛んでいた。


 スレイプニールの座席に飛び乗って接触を果たす。望の体内で稼働するアインシュタインリアクターがその出力を上げるために震え、それは全身の細胞を震わせる律動となって望の魂に熱を供給する。


 エネルギーコンデンサの残量が底を着きかけていたスレイプニールにも電力が供給され、クトゥルフの糸の帯をつかむ駆動系に出力が回された。


「このぉ――!」


 帯をつかんだままスレイプニールがその場において高速で回転し、砲丸投げの要領でクトゥルフの巨体を大きく振り回す。


 スレイプニールを中心にした円を描いて振り回されるクトゥルフは自分が発した帯にしがみつくしかなかった。今それを放してしまえば、とてつもない遠心力で飛ばされるしかないからだ。


 しかし、それは放さなければ無事にすむということでもなかった。


「行っけぇぇ――――!!」


 スレイプニールの腕にひねりが加えられる。回転の軌道が変わり――仲間を救う隙をうかがっていたもう一体のクトゥルフに向かって急接近する。


 振り回された仲間を回避しようとするが――遅い。糸を切り離す決断のタイミング失った仲間が、すさまじい速度で迫ってくるのに対してどうしようもなかった。


 空中で二体の怪物が激突し、手足と胴体の骨がへし折れる音が二体分絡み合うようにして響く。一つの塊になったそれはもはや動くこともなく、マンションの敷地内に落下していった。


 残るクトゥルフは――あと一体!


「あああああ――――っ!!」


 望がスレイプニールから飛ぶ。ただまっすぐに天に放たれた矢となって空を走る。


 最後に残ったクトゥルフが恐慌を来して望に背を向けた。一体では絶対にかなわない、撤退しなければと逃走を企てる。


 しかしそんな場当たり的な行動が、天をも駈けることのできるフェイリスに通じるはずもない。


 クトゥルフが足場にしていた木の枝から跳ぼうとした時には、二百数十メートルの距離を二秒で詰めた望の姿はもうすぐそこにあったのだ。


「てェあ――――ッ!!」


 望の体が縦に半回転する。いっぱいに伸ばした足がクトゥルフの背中に突き刺さり、その体を一撃で両断した。


 まさしく真っ二つに分かれたクトゥルフの死骸が墜落する。惰性でなおも数百メートルを飛んだ望の背中からオーロラの光が溢れ、その体が空中で停止した。


「はぁっ……はぁっ……」


 全てのクトゥルフを打ち倒した――念のために四体の死体を数え直しても実感は薄い。

 戦闘に要した時間は十分もなかったかも知れない。しかし、その濃密すぎる展開に望の気力は尽きかかっていた。


 今、こうして自分が無事でいることすら不思議に思えて、勝利の高揚感などは湧いてこない。


「望ーっ!!」


 クレイが呼んでくる声に応え、望はゆっくりと降下した。直立したスタンディングモードのスレイプニールのすぐ側でクレイが手を振っているのが見えた。


「ク……クレイ……」

「――よくやったな、望」

「うん――うん……」


 何故か、涙がポロポロとこぼれてきて視界がにじむ。涙を拭こうとするが、アイシールドが邪魔をして指が届かなかった。


「望……どうしたんだ」

「わ……わからない……」


 ヘルメットをとろうと望は首のスイッチをまさぐる。が、震える指がなかなかスイッチを押せない。もどかしさを抱えながら首元をまさぐる。


 仕方なくクレイが寄り添い、望の首元に二つあるスイッチを同時に押した。それでヘルメットのロックが外れる。


「わからないけど、涙が出てきて……止まらなくて……」

「……ほら、これで拭け」


 ヘルメットを外した望に、クレイはタオル地のハンカチを手渡す。


「うぐっ……ぐっ……」


 緊張が一気にほどけたからだろうか。感情の制御が利かなくなって望は自分の涙の理由もわからなかった。


 危機を脱しクトゥルフを倒したというのに、涙が止まらない。自分が泣いている理由を自分で探さねばならないなどという、自分のわけのわからない状況に望は戸惑うだけだった。



 クレイにヘルメットを手渡し、涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を拭う。


 泣くというよりも、止まらない涙の始末に困っているような望の姿をクレイは黙って見つめていたが、切り出すタイミングを無理に見つけてでも口を開いていた。


「望、あれな……そのな」


 クレイらしくないおずおずとした物言いに望は首を傾げかけて、先ほどのやり取りを思い出した。


 切り出し方に苦労しているクレイが何を言おうとしていたかわかるから、涙が止まるのを確かめてから望はクレイを見つめる。


 猫のそれを思わせる大きな瞳に見つめられて、クレイはわずかに怯んだのか意味もなく襟元を手でいじくった。


「クレイ……いくらなんでも、あれはひどくない……?」

「いや、わかってる。悪いとは思ってる」

「……いいよ。許す」


 望の口から、クスッと笑いがこぼれる。自分で出したその笑いの意味が自分でもわからなかったが、何故かただただ可笑しくなった。


 感情と思考が噛み合っていないから奇妙なことになってしまう。でも、今はそれが面白いと思えた。


「今日は、クレイを許してあげる。……やり方はちょっとひどかったけど、クレイはあたしのことを考えてくれているんでしょ?」

「ああ、パートナーだからな」

「パートナー……か」


 クレイの言葉を唇で味わうように反芻(はんすう )する。意味は知っている。しかし、胸には染みない。


「今はよくわからないけど、わかるようになるのかな……」

「それをわかるようにさせるのが俺の役目なんだ」


 仕事、というにはクレイには抵抗があった。その言葉は使いたくない。今はそんな気分なのだ。


「でも、あたし嬉しかった。――クレイは、自分でここまで来てくれたから!」


 まだ涙の乾いていない顔に望はそれだけは満面の笑みを浮かべられた。その事実一つで今日のことは全てよかったことにできると思えた。


「ああ……そうだな……」


 クレイも男前な微笑でそれに返す。本当は自分が来る必要はなかったことは秘密にしておこうと決意した。


「もう帰ろうよ、クレイ」


 ハンカチをクレイに渡す。


「早く学校に帰らないと言い訳しにくくなるんでしょ? 正直休みたいくらいだけど、そうもいかないんだろうなぁ……」

「――いや、まだ終わってないぞ」


 望の目が、瞬く。


「忘れたのか? 出現したクトゥルフは五体(●●)だったんだぞ」

「あ――――」


 そうだ。

 確かにそうだった。


 この一帯に現れたクトゥルフ四体で全てなどと、何故そんなことを自分は思い込んでいたのだろう。


「残りの一体の居場所が不明なんだ。そいつを見つけて倒さないと帰るわけにもいかない」

「ええっ? マズいなぁ……いつ見つかるかなんてわからないんでしょ?」

「わかったらいいなと俺も思うよ」


 はぁ、と望はため息を吐く。かといってクトゥルフ撃退を放っておいて帰るわけにもいかない。


 自分の無責任な行動で犠牲者が増えたりすれば、それこそ平気ではいられなくなるだろう。


「困ったなぁ……」

「とにかく俺たちはしばらく待機だ。こればっかりは仕方がない……ん?」


 マンションの敷地に一台の車両が進入してくるのが見えた。クレイが先ほどまで乗っていた指揮車だ。


 それが十数メートルの距離をとって停車する。運転席に乗っていたミッチェルが身を乗り出して大きく手を振っていた。


 望にヘルメットを手渡してクレイが指揮車に駆け寄り、取り残されたようになった望はヘルメットを抱えて視線を上げた。


 風が吹いていた。

 さっきまでの激闘の中では感じる余裕もなかったそれは肌にやわらかくて……戦いがひとまずは終わったという実感を呼んでくれる。


 これからどうなるのだろうか。それはなってみないとわからないが――。

 

「……望、急いで帰るぞ!」


 駆け寄ってきたクレイの何故か焦り気味な言葉に望の目がきょとん、と丸くなる。


「帰れないんじゃなかったの?」

「最後の一体の居場所がわかった……!」


 矛盾する情報。

 しかし、次のクレイの台詞が、全てをつなげていた。


「最後の一体は――俺たちの学校に現れたんだ!!」

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